G104:源 経基源 経基 ― 源 満政G601:源 満政リンクG602・G612・G613・G614源 満政八島重宗 正暦5年(994年)に行われた盗賊の追捕に際して、平維将(平貞盛の子)や甥の頼親,頼信らと共に武者として捜索に動員されたことを伝える記事が初見とされている。そして、藤原道長にたびたび馬の献上をしている記録が『御堂関白記』に見えていることや、上流の公家が多く住む左京北辺の一条に邸宅...

G601:源 満政源 経基 ― 源 満政 ― 八島重実G602:八島重実リンクG603八島重実佐渡重成 鳥羽院西院の武士。保元の乱,平治の乱に源義朝方で参戦。佐渡源太と号した。 承暦3年(1079年)、父重宗が美濃国において源国房と合戦を行った際、重実もこれに随行したらしい。天仁2年(1109年)、検非違使左衛門尉源義忠殺害の嫌疑により左大臣源俊房の邸内で逮捕される。但し犯人は源義綱(義忠の叔父)...

G602:八島重実源 経基 ― 源 満政 ― 八島重実 ― 浦野重遠G603:浦野重遠リンクG604・G605・G606浦野重遠小河重清 文治元年(1185年)4月当時、彼は近江国に住む前出羽守として登場する。重遠はこの時すでに年齢80歳に達していたが、鎌倉の源頼朝のもとに参上した。頼朝は累代の家人である重遠の志に感嘆して重遠の舎弟十郎、並びに僧の蓮仁らに扶持を加えた。この時重遠は平治の乱の後も源...

G603:浦野重遠源 経基 ― 源 満政 ― 八島重実 ― 浦野重遠 ― 山田重満G604:山田重満●リンク山田重忠岡田重孝 承暦3年(1079年)に美濃国で挙兵した源重宗は源義家に討たれ、一族は尾張国山田郡へ移り住み山田氏を称した。治承・寿永の乱で重忠の父の重満は源行家に味方し、墨俣川の戦いで討死している。源頼朝が鎌倉幕府をつくると重忠は尾張国山田庄(名古屋市北西部,瀬戸市,長久手町の一帯)の地...

G603:浦野重遠源 経基 ― 源 満政 ― 八島重実 ― 浦野重遠 ― 山田重満 ― 足助重長G605:足助重長●リンク足助重氏足助重春足助重範 鎌倉後期の武士。三河国加茂郡足助荘の在地領主。霜月騒動(1285)で所領を没収されて以降、反北条的立場を貫いていた足助氏の一員として討幕運動に参加。新田義貞の鎌倉攻撃に加わり戦死した。 建武3年(1336)足利尊氏が京都に入り、光明天皇を立て、後醍醐天...

G603:浦野重遠源 経基 ― 源 満政 ― 八島重実 ― 浦野重遠 ― 水野貞守G606:水野貞守リンクG607・G608・G610・G611水野忠政水野信元 明応2年(1493年)、水野清忠の次男として生まれる。幼名は牛息丸。 はじめ尾張国の緒川城を中心として知多半島北部をその支配下においたが、天文2年(1533年)、三河国刈谷に刈谷城を築いた。織田信秀の西三河進攻に協力しつつ、他方では岡崎城...

G606:水野貞守源 経基 ― 源 満政 ― 八島重実 ― 浦野重遠 ― 水野貞守 ― 水野勝成G607:水野勝成●リンク水野勝成水野勝俊 初陣は遠江国高天神城攻めで、以後家康に従って武田家との戦いや天正壬午の乱を転戦する。しかし、小牧長久手の戦いの際に一軍の大将でもあるにも関わらず一番槍を挙げるなどの軍令違反を咎められたことや、さらに自らの不行状を忠重に報告した家臣を斬ったことで出奔し、父によっ...

G606:水野貞守源 経基 ― 源 満政 ― 八島重実 ― 浦野重遠 ― 水野貞守 ― 水野忠清G608:水野忠清リンクG609水野忠清水野忠職 三河国刈谷に生まれる。慶長5年(1600年)、父が加賀井重望に殺された後、水野氏の家督は兄の勝成が継ぎ、忠清は徳川秀忠の家臣として仕えることとなった。同7年(1602年)、上野小幡に1万石の所領を与えられて大名となり、同年、従五位下に任官し隼人正を名乗っ...

G608:水野忠清源 経基 ― 源 満政 ― 八島重実 ― 浦野重遠 ― 水野貞守 ― 水野忠清 ― 水野忠増G609:水野忠増●リンク水野忠増水野忠定 寛永18年(1641年)徳川家綱附きの小姓となる。慶安3年(1650年)には西の丸の徒頭に転任し廩米500俵を与えられ、儀式の際に布衣(無紋の狩衣)の着用を許される。明暦3年(1657年)小姓組番頭となり従五位下に任官し周防守を名乗る。万治2年(...

G606:水野貞守源 経基 ― 源 満政 ― 八島重実 ― 浦野重遠 ― 水野貞守 ― 水野忠元G610:水野忠元●リンク水野忠元水野忠之 2代将軍・徳川秀忠の側近として幕政に携わる。慶長10年(1605年)叙任し、小姓組番頭に就任。同時期の小姓組番頭は他に5名おり、それぞれ、井上正就,板倉重宗,日下部正冬,大久保教隆,成瀬正武。 大坂冬の陣,大坂夏の陣に参戦し、元和元年(1615年)に西丸書院番...

G606:水野貞守源 経基 ― 源 満政 ― 八島重実 ― 浦野重遠 ― 水野貞守 ― 水野忠分G611:水野忠分●リンク水野忠分水野分長 天文年間(1532~55年)、布土城主であったと伝えられるが、その経緯は明らかではない。 織田信長配下として天文23年(1554年)の村木砦の戦いや永禄元年(1558年)の石ヶ瀬の戦いといった今川勢との戦闘に参加。しかしその後の動向は信長に従ったという以外、不...

G601:源 満政源 経基 ― 源 満政 ― 木田重長G612:木田重長リンクG613木田重長 平安時代後期に美濃源氏・八島氏の一族である源重長が美濃国方県郡木田郷に居住し、木田三郎を号したことに始まる。重長の子たちは美濃の源氏として治承・寿永の乱を戦い木田重広やその甥・重兼が討死し、承久の乱では惣領・木田重国とその子・重知をはじめ一族の者が京方に属して討死したが、その後は重知の子・重用が後を継い...

G612:木田重長源 経基 ― 源 満政 ― 木田重長 ― 山本貞久G613:山本貞久●リンク山本貞久山本晴幸(菅助) 山本氏の遠祖は、鎮守府将軍源満政であると伝えられる。満政の玄孫・重長が美濃国木田郷に住し、木田氏を称した。その子・重国は、承久の乱で後鳥羽上皇に味方して、討ち死にした。その甥、重季も伯父と共に討ち死にした。木田重季の子孫は、駿河国富士郡山本村に渡来して、在地の土豪となった。この木...

G601:源 満政源 経基 ― 源 満政 ― 源 忠隆G615:源 忠隆リンクG616源 斉頼 長元8年(1035年)に催された藤原頼通家歌合に源頼実,藤原経行らと共に蔵人所雑色として参加したことが知られる。蔵人兼右兵衛尉在任時であった天喜3年(1055年)には内裏の蔵人所町屋(蔵人の詰所)に逃げ込んだ抜刀の暴漢を郎等の滝口武者源初,小野幸任らと共に取り押さえた功により検非違使に任ぜられた。 同5...

G615:源 忠隆源 経基 ― 源 満政 ― 源 忠隆 ― 和田氏家G616:和田氏家●リンク和田氏家和田惟政 近江国甲賀郡和田村に住した和田氏には、佐々木六角氏【G739】から分かれたとする説もある。 永禄8年(1565年)、三好三人衆・松永久秀らは足利義輝を殺害し、義輝の弟覚慶も奈良に幽閉されたが、細川藤孝ら幕府近習の手引きで脱出、甲賀の和田惟政の館へ逃れた。覚慶は還俗して義昭と名乗り、このと...

G104:源 経基源 経基 ― 源 満季G621:源 満季リンクG622源 満季源 致公 安和2年(969年)に起きた藤原北家による安和の変の際、兄・満仲の政敵であった藤原北家魚名流後裔藤原千晴,久頼父子を検非違使として捕縛し投獄した。この事件では左大臣源高明が失脚したが、満仲兄弟は高明の一派であったが、これを裏切り密告したとの噂がある。数々の役職を歴任し莫大な富を得た満仲は他の武士からの嫉妬を受...

G621:源 満季源 経基 ― 源 満季 ― 岸本遠綱G621:岸本遠綱●リンク岸本遠綱 初め重綱とも称した。仮名は岸本十郎あるいは平井七郎。高屋遠綱とも呼ばれる。近江国東部の豪族高屋氏の一族であり、同国愛知郡岸本付近を本拠としたと推定される。詳しい事績は不明であるが国人として守護佐々木氏の配下にあったものとみられ、建久2年(1191年)に佐々木定綱の一族が延暦寺との争いに敗れ一斉に配流となった際...

G104:源 経基源 経基 ― 源 満快G631:源 満快リンクG632・G634・G635・G636源 満快源 満国 都における中級官人として活動し、右衛門尉,検非違使,相模介,下野守などを歴任し極位は従五位下であったとされる。その詳しい動向は不明であるが、下野守在任中もしくはそれに近い時期に卒去していることを伝える記録が残る。 満国,行頼(行満)ら3人の子も中級官人として東国の受領などを務めた...

G631:源 満快源 経基 ― 源 満快 ― 伊那為扶G632:伊那為扶リンクG633泉 親衡 建暦3年(1213年)、源頼家の遺児千寿丸を鎌倉殿に擁立して執権北条義時を打倒しようと図り、郎党の青栗七郎の弟で安念坊という僧を北条氏に批判的な御家人に遣わし挙兵への協力を求めていたが、千葉成胤により安念坊が捕縛され、彼の自白により陰謀は露見。直ちに遣わされた捕縛の使者と合戦に及び、その混乱に乗じて逐電...

G632:伊那為扶源 経基 ― 源 満快 ― 伊那為扶 ― 諏訪部幸扶G633:諏訪部幸扶●リンク三刀屋扶永三刀屋扶重 承久の乱で幕府側として活躍し承久3年(1221年)9月に北条義時から三刀屋郷の地頭職を与えられ下向し、三刀屋の名字を名乗った。 鎌倉時代中期になると北条氏の権力が増大し、多くの鎌倉御家人が所領のある地方へと下向した時期である。後に戦国大名や戦国武将として活躍した一族はほとんどがこ...

G631:源 満快源 経基 ― 源 満快 ― 夏目国平G634:夏目国平●リンク夏目国平夏目国宗 初代夏目家当主である。父の二柳国忠は源頼朝に仕え、藤原泰衡に対する奥州合戦の時、軍功があって信濃国の夏目村(現在の長野県伊那市/飯田市/駒ヶ根市夏目大字)の地頭職を与えられた。更級郡夏目邑,伊那郡夏目邑という。国平は二ツ柳家より分家し、夏目邑(石川邑夏目平)に移り、夏目を家号とした。 土着した子孫の居...

G631:源 満快源 経基 ― 源 満快 ― 依田為実G635:依田為実●リンク依田実信依田信守 信濃国小県郡依田庄を本拠とする依田氏の当主。父・為実の開発した依田庄を継承し、また同地に存在した依田城の築城者であったとも伝わる。治承4年(1180年)に木曾義仲が信濃国内で挙兵すると、その拠点として依田城を提供し、以後一族を挙げて義仲と行動を共にしたと云われる。『源平盛衰記』には翌寿永2年(1183...

G631:源 満快源 経基 ― 源 満快 ― 片切為基G636:片切為基リンクG637・G638片切為基片切為行 平安時代後期の武将。通称は片切源八。蔵人大夫と称し、蔵人であった。片切氏の祖でその支流に飯嶋氏,赤須氏,大嶋氏,岩間氏,名子氏,片桐氏(近江),三沢氏(出雲)などがいる。 父・為公より信濃国伊奈郡における勢力の一部(片切郷・飯嶋郷・大嶋郷・名子郷・赤須郷)を継承し郡内に入部し、片切郷に...

G636:片切為基源 経基 ― 源 満快 ― 片桐為基 ― 片桐直貞G637:片桐直貞●リンク片桐且元片桐貞隆 元亀元年(1570年)から天正元年(1573年)9月1日にかけての織田信長による浅井長政への攻撃に際しては小谷城の落城まで一貫して浅井方として戦った。落城前日(8月29日)の日付の浅井長政から片桐直貞に宛てられた感状が現在も残っている。 且元が家督を継いだ時期は定かではない。天正7年(1...

G636:片切為基源 経基 ― 源 満快 ― 片切為基 ― 飯島為光G638:飯島為光●リンク飯島為光飯島為長 長府藩の三沢家に伝わる史料などによれば、信濃国伊那郡飯島本郷に居館を構えた土豪に飯島氏があった。清和源氏片切氏の分かれで、寿永年間(1182~84)に片切為行の子・為綱が飯島本郷に居を構え、その子為光が飯島太郎を称したものである。為光は飯島郷の地頭となって、承久の乱には幕府方として出陣、...

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