市辺押磐皇子墓所

いちのへのおしはのみこ ぼしょ(Grave of Ichinoenooshiha Prince)

【K-SG005】探訪日:2016/9.25

【K-SG005】市辺押磐皇子墓所 滋賀県東近江市市辺町961

【MAP】

〔駐車場所〕

   安康天皇3年10月に大泊瀬皇子(のちの雄略天皇)に殺された市辺押磐皇子と帳内佐伯部売輪の墓として管理されている。市辺押磐皇子は磐坂皇子,磐坂市辺押羽皇子ともいわれる。
 安康天皇3年8月、安康天皇は眉輪王によって暗殺されたが、天皇は生前、押磐皇子に王位を継承させようとしていた。かねてからこのことを恨んでいた大泊瀬皇子は、10月に押磐皇子を近江の蚊屋野へ狩猟に誘い出し、「猪がいる」と偽って皇子を射殺した。さらに、遺骸を抱いて嘆き悲しんだ舎人の佐伯部仲子をも殺して、皇子とともに同じ穴に埋め、陵を築かせなかったという。子の億計,弘計(のちの仁賢,顕宗天皇)兄弟は難が及ぶのを恐れ、舎人とともに丹波国を経て播磨国赤石に逃れ、名を隠して縮見屯倉首に仕えた。
 雄略の子・清寧天皇に子がなく、億計,弘計は宮中に迎えられて弟の弘計王が即位した(顕宗天皇)。顕宗天皇は置目老嫗の案内から亡父の遺骨の所在を知り、改めて陵を築いた。この時、皇子と仲子の遺骨が頭骨を除いて区別出来なかったため、相似せた2つの陵を造ったとされる。同市木村町のケンサイ塚古墳や妙法寺町の熊の森古墳を皇子墓に比定する説もある。

【史跡規模】

【指 定】

【国 宝】

【国重文】

関連時代 古墳時代:後期
関連年号 安康天皇3年
関連人物 系図 関連人物 系図 関連人物 系図
市辺押磐皇子 K202 佐伯部売輪 **** 大泊瀬皇子(雄略天皇) K202
顕宗天皇 K202 置目老嫗 ****

 

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