清和源氏

G606:水野貞守  源 経基 ― 源 満政 ― 八島重実 ― 浦野重遠 ― 水野貞守 ― 水野忠元 G610:水野忠元

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水野忠元 水野忠之

 2代将軍・徳川秀忠の側近として幕政に携わる。慶長10年(1605年)叙任し、小姓組番頭に就任。同時期の小姓組番頭は他に5名おり、それぞれ、井上正就,板倉重宗,日下部正冬,大久保教隆,成瀬正武。
 大坂冬の陣,大坂夏の陣に参戦し、元和元年(1615年)に西丸書院番頭に転じる。同年、下総国,下野国,近江国において3万5000石の領地を与えられ、大名に列する(山川藩)。元和6年(1620年)死去。墓所は愛知県東浦町の乾坤院
 なお、水野家(唐津・浜松藩)では、初代忠元が諸侯に列したことを記念して、領地ではないが許可を得て、11代忠邦までの墓所が山川(茨城県結城市)につくられている。

 延宝2年(1674年)、親族の旗本水野忠近の養子となって家督を継いだ。元禄10年(1697年)2月には御使番に列し、布衣の着用を許された。元禄11年(1698年)4月19日には日光目付、さらに9月25日には日光普請奉行となった。
 元禄12年(1699年)1月11日、実兄である岡崎藩主水野忠盈の養子となって、9月27日に家督相続した。10月18日には従五位下・大監物に叙任した。
 元禄14年(1701年)3月14日に赤穂藩主浅野長矩が高家・吉良義央に刃傷沙汰に及んだときには、赤穂藩の鉄砲洲屋敷へ赴いて騒動の取り静めにあたっている。また翌年12月15日、赤穂義士47士が吉良の首をあげて幕府に出頭した後には、そのうち間十次郎,奥田貞右衛門,矢頭右衛門七,村松三太夫,間瀬孫九郎,茅野和助,横川勘平,三村次郎左衛門,神崎与五郎9名のお預かりを命じられ、彼らを三田中屋敷へ預かった。
 大石良雄をあずかった細川綱利に倣って水野も義士達をよくもてなした。その後、2月4日に幕命に従って9士を切腹させた。
 宝永2年(1705年)1月1日に奏者番に就任。さらに正徳元年(1711年)12月23日には若年寄に就任した。正徳4年(1714年)9月6日に京都所司代に就任。このときに従四位下侍従和泉守に昇進した。
 享保2年(1717年)9月27日に財政をあずかる勝手掛老中となり、将軍徳川吉宗の享保の改革を支えた。享保10年(1725年)には1万石を加増された。享保15年(1730年)6月12日に老中を辞し、7月6日に隠居した。
 隠居後は落髪して祥岳と号した。享保16年(1731年)3月18日に死去。享年63。生前の遺命に基づいて、牛込宝泉寺にて荼毘し、24日遺骨は下総国山川万松寺へ送られてここに葬られた。

水野忠辰 水野忠邦

 水野氏は幕府の要職に付くことが多く、藩の財政は逼迫していた。そのため、藩主となった忠辰は、藩の財政再建に取り組んだ。倹約を徹底し、自らも衣服は木綿、食費は一日百文以内とした。こうした努力の結果、藩は豊かになり、俸禄の前借を許可したり、藩士の借金を藩が肩代わりするまでになった。自信を持った忠辰は、続いて藩政の改革に取り組んだ。家格にかかわらず、能力のある者を昇進させ、要職に就けたほか、年貢を減免し、農民にも慕われた。しかし、保守派家老の妨害に遭い、改革が挫折すると、忠辰はやけになり、遊興に耽るようになった。あまりの豹変振りに心を痛めた生母・順性院は、度重なる諫言の末、ついに諫死してしまう。さらに自暴自棄となった忠辰は、遊女を身請けするなどし、ついに乱心として宝暦2年(1752年)3月22日、家督を養子・忠任に譲ることを余儀なくされた上で幽閉されてしまう。
そのまま座敷牢にて、同年8月18日に死去した。享年29。

 長兄の芳丸が早世したため、文化2年(1805年)に唐津藩の世子となり、文化4年(1807年)に第11代将軍徳川家斉と世子・徳川家慶に謁見する。そして従五位下・式部少輔に叙位・任官した。
 文化9年(1812年)に父・忠光が隠居したため家督を相続する。家臣の諫言を押しきって文化14年(1817年)9月、実封25万3000石の唐津から実封15万3000石の浜松藩への転封を自ら願い出て実現させた。この国替顛末の時、水野家家老・二本松義廉が忠邦に諌死をして果てている。
 その後、将軍・家斉のもとで頭角を現し、文政8年(1825年)に大坂城代となり、従四位下に昇位する。文政9年(1826年)に京都所司代となって侍従・越前守に昇叙し、文政11年(1828年)に西の丸老中となって将軍世子・徳川家慶の補佐役を務めた。
 天保5年(1834年)に水野忠成が病没したため、代わって本丸老中に任ぜられ、天保8年(1837年)に勝手御用掛を兼ねて、天保10年(1839年)に老中首座となった。
 家斉在世中は水野忠篤,林忠英、美濃部茂育(3人を総称して天保の三侫人という)をはじめ家斉側近が権力を握っており、忠邦は改革を開始できなかった。
 天保8年(1837年)4月に家慶が第12代将軍に就任し、徳川家斉が薨去すると、旧側近を罷免し、遠山景元,矢部定謙,岡本正成,鳥居耀蔵,渋川六蔵,後藤三右衛門を登用して天保の改革に着手した。
 農村復興のため人返し令、奢侈禁止・風俗粛正、株仲間の解散を命じる低物価政策を実施したが、その一方で低質な貨幣を濫造して幕府財政の欠損を補う政策をとったため、物価引下げとは相反する結果をもたらした。また、上知令を断行しようとして大名,旗本の反対に遭うなどした上、腹心の鳥居耀蔵が上知令反対派の老中・土井利位に寝返って機密文書を渡すなどしたため、閏9月13日に老中を罷免されて失脚した。忠邦の改革はあまりに過激な改革で庶民の怨みを買ったとされ、失脚した際には暴徒化した江戸市民に邸を襲撃されている。
 天保15年(1844年)5月、江戸城本丸が火災により焼失し、その再建費用を老中首座・土井利位が集められなかったことから家慶の不興を買ったため、6月21日に家慶は外国問題の紛糾などを理由に忠邦を老中首座に再任した。しかし、昔日の面影は無く、一方で自分を裏切った土井利位や鳥居耀蔵らに報復したりしている。
 しかし老中・阿部正弘をはじめ、前老中・土井利位らは、忠邦の再任に強硬に反対し、天保改革メンバーらの疑獄の嫌疑も発覚し、弘化2年(1845年)9月に2万石を没収されて5万石となり、家督は長男・水野忠精に継ぐことを許された上で強制隠居,謹慎が命じられた上、まもなく出羽国山形藩に懲罰的転封を命じられた。
 嘉永4年(1851年)2月10日、死去。享年58。死後、5日で謹慎が解かれた。

水野忠精

 名は忠精のほか、忠良,忠経。父・忠邦が天保の改革に失敗して隠居したため、家督を継いだ。弘化2年(1845年)、遠江国浜松藩から出羽山形に移封されるが、これは父の失脚に伴う左遷である。
 その後、寺社奉行,若年寄などを歴任し、文久2年(1862年)には老中となった。慶応2年(1866年)に長男・忠弘に家督を譲っている。明治17年(1884年)53歳で死去。