<皇孫系氏族>孝元天皇後裔

AB01:阿倍阿加古  阿倍阿加古 ― 阿倍比羅夫 AB08:阿倍比羅夫

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阿倍比羅夫 阿倍宿奈麻呂

 阿倍氏は複姓が多く見られ、阿倍引田臣もその一つ。引田臣の性格については、比羅夫の活動にも関連して二説ある。一つは中央豪族である阿倍氏の一支族とするもの、もう一つは越国の地方豪族とするものである。中央出身説は、当時の国司が中央豪族から派遣されていたことを根拠とする。
 比羅夫の父親の名は必ずしもはっきりしないが、各種系図では、阿倍氏の宗族である阿倍目とするものが多い。しかし目は敏達朝の人物であり時代が合わず、さらに前述の系図は比羅夫の子孫に伝わったものと想定され、比羅夫の系統を阿倍氏の宗族に位置づけようとした意図が考えられることから、比羅夫を目の子とするのは疑問とする。また、阿倍氏の庶流にあたる阿倍浄足とする系図もある。
 大化5年(649年)、左大臣・阿倍内麻呂が没して阿倍氏の宗家が絶えたため、比羅夫は傍系出身ながら阿倍氏一族の最有力者として、氏上的な地位に就いたと想定される。
 斉明天皇4年(658年)4月から斉明天皇6年(660年)5月にかけて、越国守であった比羅夫が蝦夷・粛慎征討を行ったことが『日本書紀』に記されている。斉明天皇4年(658年)4月に船軍180隻を率いて蝦夷を討ち、飽田・渟代二郡の蝦夷を降伏させる。降伏した蝦夷の酋長・恩荷に小乙上の冠位を与えるとともに、渟代・津軽二郡の郡領に定めた。また、有間浜で渡島の蝦夷を饗応している。同年7月には蝦夷200人余りが朝廷に参上して物資を献上するとともに饗応を受けた。
 同年、比羅夫は粛慎を平らげ、北海道や樺太に分布する生きているヒグマ2匹とヒグマの皮70枚を献上する。
 斉明天皇5年(659年)3月には船軍180艘を率いて再び蝦夷を討つ。比羅夫は飽田・渟代二郡の蝦夷241人とその虜31人、津軽郡の蝦夷112人とその虜4人、胆振鉏の蝦夷20人を一ヶ所に集めて饗応し禄を与える。また、後方羊蹄に至り、蝦夷の要請を受けて当地に政所を置き郡領を任命して帰った。「後方羊蹄」の具体的な場所は明らかでないが、余市説(後志国余市郡)、末期古墳のある札幌・江別説(石狩国札幌郡)や恵庭・千歳説(胆振国千歳郡)があるほか、江戸時代末期の探検家・松浦武四郎は北海道の尻別川流域と比定し、同地を後志国、同地の山を後方羊蹄山と名付けた。この頃、再び粛慎と戦って帰還し、虜49人を朝廷に献じたともいう。
斉明天皇6年(660年)3月に船軍200艘を率いて粛慎を討つ。比羅夫は大河(石狩川あるいは後志利別川と考えられる)のほとりで、粛慎に攻められた渡島の蝦夷に助けを求められる。比羅夫は粛慎を幣賄弁島(粛慎の本拠地である樺太や奥尻島とする説などがある)まで追って戦い、能登馬身龍が戦死するもこれを破る。同年5月に蝦夷50人余りを献じ、粛慎の47人を饗応した。
 天智天皇元年(662年)8月に中大兄皇子の命により、新羅征討軍の後将軍として百済救援のために朝鮮半島に向かい、武器や食糧を送った。しかし、翌天智天皇2年(663年)新羅と唐の連合軍に敗れる(白村江の戦い)。この敗北により百済再興はならなかった。
 天智天皇3年(664年)、新冠位制度(冠位二十六階)の制定に伴って大錦上に叙せられる。またこの頃、筑紫大宰帥に任ぜられている。白村江の戦いののち、唐や新羅の来襲に備え、軍事経験豊かな比羅夫を九州地方の防衛責任者に任じたものと想定される。 

 持統天皇7年(693年)、直大肆に叙せられ、食封50戸を与えられる。
 大宝元年(701年)、大宝律令の制定に伴う位階制の施行により従五位上となり、翌大宝2年(702年)には持統上皇の崩御にあたり造大殿垣司を務めた。従四位下に昇叙された後、慶雲元年(704年)引田朝臣から阿倍朝臣に改姓する。前年の大宝3年(703年)に右大臣・阿倍御主人が薨御しており、宿奈麻呂が阿倍氏の氏上となったと思われる。慶雲2年(705年)、中納言3名が増員され、参議の粟田真人や高向麻呂とともに宿奈麻呂が任ぜられるが、宿奈麻呂は参議を経ずに中納言となった初例であった。慶雲4年(707年)、文武天皇崩御の際には造御竈司を務めている。
 和銅元年(708年)、正月に前年即位した元明天皇の下で太政官人事の再編成が行われた際に、小野毛野,中臣意美麻呂と共に中納言に任ぜられる。同年7月に二階昇進して正四位上に叙せられる。また同年9月には多治比池守と共に造平城京司長官に任ぜられ、平城京造営の責任者となる。和銅2年(709年)従三位に叙される。和銅5年(712年)には同族の引田邇閇,引田東人,引田船人,久努御田次,長田太麻呂,長田多祁留ら6人について、本来は阿倍氏の正統であることから自らと同様に阿倍氏へ改姓すべき旨を言上し許されている。
 元正朝では、霊亀3年(717年)正三位に昇叙された。同年(717年)8月3日に、臣姓の他田万呂について、阿倍氏と同族であるとして、阿倍他田朝臣への改姓を言上し許された。
 養老2年(718年)大納言に至った。養老4年(720年)正月27日薨去。
 算術に優れ、藤原仲麻呂に算術を教授したという。算術の技能を買われて、たびたび造営官司を務めたものと想定される。

 

阿倍駿河 阿倍子島

 和銅4年(711年)に従六位上から三階昇進して従五位下に叙爵。養老4年(720年)正月に従五位上に進む。同年9月28日に東北地方で蝦夷の大規模な反乱が起こり、陸奥国按察使・上毛野広人が殺害された。翌29日に駿河は鎮狄将軍として節刀を授けられ、征夷将軍・多治比縣守と共に軍を率いて東北地方へ遠征する。養老5年(721年)4月に乱を鎮圧して京に帰還。その後、正五位下に叙せられた。
 神亀元年(724年)、聖武天皇の即位後まもなく正五位上に昇叙され、神亀3年(726年)従四位下に至る。 

 大宰大監を経て天平13年(741年)に従五位下・肥後守に叙任される。天平18年(746年)兵部少輔として京官に遷る。天平19年(747年)にはかつて聖武天皇の発願により諸国に造立が指示されていた国分寺(金光明寺と法華寺)について、十分に造立がなされていないとして、石川年足,布施宅主と共に諸国に派遣され、寺地の適否の調査と造作状況の視察を行っている。
 孝謙朝では天平勝宝5年(753年)駿河守、天平勝宝6年(754年)式部少輔を歴任する。
 天平宝字2年(758年)淳仁天皇の即位に伴って従五位上に叙せられると、天平宝字6年(762年)正五位下、天平宝字8年(764年)従四位下と淳仁朝では順調に昇進した。またこの間、武部大輔・上総守を務めている。
 天平宝字8年(764年)正月24日卒去。最終官位は上総守従四位下。 

阿倍毛人 安倍家麻呂

 天平18年(746年)従五位下に叙爵し、翌天平19年(747年)玄蕃頭に任ぜられる。天平勝宝6年(754年)山陽道巡察使。
 淳仁朝では、天平宝字3年(759年)従五位上・仁部大輔、天平宝字6年(762年)左中弁、天平宝字7年(763年)正五位下・河内守と要職を歴任しながら順調に昇進した。
 天平宝字8年(764年)に発生した藤原仲麻呂の乱では、藤原仲麻呂側に加勢しなかったらしく、翌天平神護元年(765年)には正五位上次いで従四位下と続けて昇叙された。のち称徳朝では、五畿内巡察使,大蔵卿,造東大寺次官を歴任し、神護景雲4年(770年)8月の称徳天皇崩御に際しては山陵司を務めている。同年10月の光仁天皇の即位に伴い従四位上に叙せられ、翌宝亀2年11月(772年1月)参議に任ぜられ公卿に列する。宝亀3年(772年)11月17日卒去。最終官位は参議従四位上。

 光仁朝の宝亀3年(772年)、従五位下・兵部少輔に叙任。宝亀10年(779年)従五位上に叙せられる。翌宝亀11年(780年)3月に陸奥国で宝亀の乱が起こると、中納言・藤原継縄が征東大使に任ぜられるなどの乱追討関連の任官に伴い、家麻呂は出羽鎮狄将軍に任じられ出羽国に赴く。同年8月には二階の昇進により正五位上に叙せられると共に、蝦夷の攻撃にさらされて維持が難しくなっていた秋田城の存廃に関連して、帰属して城下に居住していた俘囚が動揺している旨を上奏。これを受けて朝廷では秋田城の防衛強化が図られ、専使あるいは専当の国司による鎮守方式を採ることになり、これが後の秋田城介の起源になったとされている。
 天応元年(781年)、桓武天皇の即位後まもなく上野守に任ぜられる。その後、延暦4年(785年)左兵衛督、翌延暦5年(786年)左大舎人頭と京官を務めるが、延暦8年(789年)石見守として再び地方官に転じた。
 それ以降、『六国史』に叙位任官記載がなく動静は不明。一説では大同元年(806年)10月24日に享年71で卒去したともされる。 

安倍比高 安倍忠良

 左近衛将監を経て、貞観4年(862年)従五位下・武蔵介に叙任される。その後、貞観6年(864年)出羽権介、貞観7年(865年)陸奥守と清和朝において東国の地方官を歴任する。
 貞観14年(872年)、太政大臣・藤原良房が死去した際に、比高は散位であったが、左馬寮の監護を務めている。のち、陸奥鎮守将軍に任ぜられる。元慶2年(878年)3月に元慶の乱が勃発すると、同年6月に俘囚討伐を目的として小野春風が後任の将軍に任ぜられるが、引き継ぎとしてしばらくの間は比高が鎮守府の政務を行うよう命ぜられている。 

 後に奥六郡の支配者となった俘囚長・安倍頼時の父として『陸奥話記』に記されている。これに対して、平範国による『範国記』長元9年(1036年)12月22日条に「陸奥国権守」に任命された「安倍忠好」を忠良と同一人物とする見方もある。忠良(忠好)が一族郎党を連れて京都から陸奥へ下向し、奥六郡に土着して俘囚を従えたとする「中央貴族出身」説もある。
 なお、前九年の役が始まった永承6年(1051年)時点で文献に記述は無く、この時期までに死去したものと考えられる。

安倍良照 安倍家任
 若くして僧籍にあったため甥の家任を養子とした。永承6年(1051年)からの前九年の役では頼時に従って家任とともに小松柵の守備にあたった。小松柵が頼義軍に焼き払われ、さらに家任らが出家して帰降するなど安倍軍の敗北が決定的となると出羽国に落ち延びたが出羽守源斉頼に捕らえられて大宰府に配流となった。同じく太宰府に配流された家任の没後、家任の遺児秀任の養育にあたったという。 

 叔父・安倍良照の養子となる。前九年の役では、養父・良照や父兄に従って活躍するが、その後出家し、兄の宗任らと共に大宰府に配流された。なお子・秀任は家任の死後に良照に養育されている。秀任は小松小太郎と称した。秀任には祐任という一人息子がおり、子孫は戦国時代に小松黒沢氏となり、徳川家旗本・仙台藩士として近代に残ったという。
一説によると、藤原泰衡の郎党で大河兼任の乱を起こした大河兼任は家任の兄弟・正任の4代後の子孫にあたるという(正任が兼任の高祖父)。 

阿倍安麻呂 阿倍虫麻呂

 慶雲2年(705年)、従六位上から三階昇進して従五位下に叙爵。
 和銅8年(715年)、従五位上・但馬守に叙任される。同年、元正天皇が即位して、翌霊亀2年(716年)、第8次の遣唐使が派遣されることになり、8月に安麻呂は遣唐大使に任命される。しかし、9月には病気のために大使の役は大伴山守に交替し、安麻呂は渡唐することはなかった。養老3年(719年)正五位下。
 神亀元年(724年)、聖武天皇の即位後まもなく正五位上に昇叙され、神亀5年(728年)従四位下に至る。神亀年間に侍従として聖武天皇に仕えた10余人と共に「風流侍従」と称された。 

 天平9年(737年)に正七位上から五階の昇叙を受け、外位ながら従五位下に叙せられ、皇后宮亮に任ぜられる。同年12月に長く病んでいた皇太夫人・藤原宮子が玄昉の看病により回復して、久しぶりに聖武天皇と相見えたことから、中宮職の諸官人が昇叙され、虫麻呂も内位の従五位下への叙位を受けている。天平10年(738年)中務少輔に遷る。
 天平12年(740年)、藤原広嗣の乱が発生したため、9月上旬に衛門督・佐伯常人と共に勅使として九州へ派遣される。9月下旬に常人と共に隼人24名・軍士4000名を率いて豊前国板櫃営に着陣し、10月に板櫃川で藤原広嗣軍と交戦する。乱鎮圧後の11月に伊勢国鈴鹿郡赤坂頓宮において供奉者への叙位がなされて従五位上に、天平13年(741年)には乱での戦功により、正五位下に昇叙される。同年8月に播磨守として地方官に転じる。天平15年(743年)にも正五位上に叙せられ、のち左中弁を務めるなど、聖武朝後半は順調に昇進した。
 孝謙朝に入り、天平勝宝元年(749年)、紫微中台が設置されると紫微大忠を兼ね、天平勝宝3年(751年)には従四位下に至る。天平勝宝4年(752年)3月17日卒去。最終官位は中務大輔従四位下。
 万葉歌人であり、『万葉集』には虫麻呂の詠んだ「しつたまき 数にもあらぬ 我が身もち 如何でここだく 我が恋ひ渡る」という和歌ほか5首が採録されている。 

阿倍仲麻呂

 文武天皇2年(698年)、阿倍船守の長男として大和国に生まれ、若くして学才を謳われた。霊亀3年・養老元年(717年)、多治比県守が率いる第9次遣唐使に同行して唐の都・長安に留学する。同次の留学生には吉備真備や玄昉,井真成がいた。唐の太学で学び科挙に合格または推挙で登用され、唐の玄宗に仕える。仲麻呂は唐の朝廷で主に文学畑の役職を務めたことから李白,王維,儲光羲ら数多くの唐詩人と親交していたらしく、『全唐詩』には彼に関する唐詩人の作品が現存している。
 天平5年(733年)、多治比広成が率いる第10次遣唐使が来唐した際に、長安で遣唐使らの諸事を補佐したが、唐での官途を追求するため帰国しなかった。翌年帰国の途に就いた遣唐使一行はかろうじて第1船のみが種子島に漂着、残りの3船は難破した。この時帰国した真備と玄昉は第1船に乗っており助かっている。副使・中臣名代が乗船していた第2船は福建方面に漂着し、一行は長安に戻った。名代一行を何とか帰国させると今度は崑崙国(チャンパ王国)に漂着して捕らえられ、中国に脱出してきた遣唐使判官・平群広成一行4人が長安に戻ってきた。広成らは仲麻呂の奔走で渤海経由で日本に帰国することができた。
 天平勝宝4年(752年)、衛尉少卿に昇進する。この年、藤原清河率いる第12次遣唐使一行が来唐する。唐の皇帝・玄宗から遣唐使の応対を命じられ、望郷の念を抱いて帰国許可を玄宗に申し出るが、容易には許可されなかった。すでに在唐35年を経過していた仲麻呂は清河らとともに、翌年、秘書監,衛尉卿を授けられた上で帰国を図った。
 益久島(現在の屋久島)に向けて出帆した4隻のうち、仲麻呂や清河の乗船した第1船が暴風に遭って南方へ漂流した。彼が落命したという噂を伝え聞いた李白は「明月不歸沈碧海」の七言絶句「哭晁卿衡」を詠んで仲麻呂を悼んだ。しかし、仲麻呂が乗船していた第1船は、以前に平群広成らが流されたのとほぼ同じ漂流ルートをたどり、幸いにも安南に漂着していた。第1船の乗船者の一部は同地で襲撃されて死亡し、清河,仲麻呂らはこれを逃れて明の影響下にあった驩州(現・ベトナム・ハティン省)に滞在し、天平勝宝7年(755年)に長安に戻った。この年、安史の乱が起こったことから、清河の身を案じた日本の朝廷から渤海経由で迎えが到来するものの、唐朝は行路が危険であることを理由に清河らの帰国を認めず、仲麻呂は清河とともに留唐することになった。
 仲麻呂は帰国を断念して唐で再び官途に就き、天平宝字4年(760年)には左散騎常侍から鎮南都護・安南節度使を務めた。天平宝字5年(761年)から神護景雲元年(767年)まで6年間もハノイの安南都護府に在任し、天平神護2年(766年)には安南節度使を授けられた。結局、日本への帰国は叶えられることなく、唐の玄宗,粛宗,代宗に歴仕して、宝亀元年(770年)1月に73歳の生涯を閉じた。後にその功績から、代宗は潞州大都督の官名を贈っている。
 なお、『続日本紀』に「わが朝の学生にして名を唐国にあげる者は、ただ大臣および朝衡の二人のみ」と賞されている。また、死去した後、宝亀度の遣唐使で訃報が伝達されたが、日本又は唐の一族が人数が少なく葬儀を十分に行えなかったため、遺族に絁100疋と綿300屯が贈られたという記録が残っている。中国での妻子は記録は伝えられていないが、配偶者は当時ならいて当然とされ、詩などから太学在学中に初婚、その後出世して高位家の娘と2回目の結婚をしていると推定されている。