<皇孫系氏族>平城天皇後裔

AW02:荒尾公見/宗顕  在原業平 ― 荒尾公見/宗顕 ― 荒尾善次 AW03:荒尾善次


リンク G606}{G616}{F515
荒尾善次 善応院

 織田氏の家臣で姫路藩初代藩主となった池田輝政の外祖父にあたる。
 永正5年(1508年)、尾張国知多郡大野城主・佐治為貞の子として誕生。今川義元の尾張侵攻により戦死した知多郡木田城主・荒尾小太郎空善の名跡を継承し荒尾姓を名乗ったという。織田信長に仕えて荒尾村を領し、今川勢と対峙して木田城を守った。しかし、弘治元年(1555年)に始まった義元の尾張進攻によって、同3年には知多の諸勢の多くが今川方に投降したと言われており、永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いの際には、善次も同様の立場に置かれていたと考えられる。そのため桶狭間の戦い以後は隠居した。 

 いつごろかは不明であるが、織田信長の異母兄弟である織田信時の室となる。このとき七条(飯尾敏成正室、のちの下間頼龍正室)をもうけた。その後、信時が自害した際に信長の命により池田恒興と再婚し、恒興の正室となった。
 恒興との間に少なくとも、池田元助,池田輝政,池田長吉,池田長政の4人の男子をもうけている。
 元亀3年(1572年)、弟の荒尾善久が三方ヶ原の戦いで戦死した。それより以前、善応院は子供がいない善久のため、息子の池田輝政を養子とする約束をしていたが、荒尾家の一族や家老の反発に合ったため、夫の池田恒興が信長の許可を得てから反対する荒尾家中の元に家臣と共に赴き、謀殺したという。
 実際に天正元年(1573年)9月7日、当年10歳の古新丸(輝政)は主君の信長から木田小太郎の跡職を安堵されている。小牧・長久手の戦いで夫の恒興が戦死した際、姑である養徳院に羽柴秀吉から恒興父子の討ち死にを悼む書状が送られたが、そこでは「御女房衆(善応院)に力をつけるように」と養徳院に善応院を励ますように頼んでいる。慶長9年(1604年)6月29日、養徳院に先立って死去した。 

荒尾成房 荒尾成利

 元亀3年(1572年)、兄・善久が三方ヶ原の戦いで戦死したため、その家督を相続した。天正3年(1575年)、長篠の戦いに出陣する。後に姉・善応院が嫁いだ池田恒興に仕え、若森城と3000貫の知行を賜る。天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いで恒興が戦死した後は、その跡を継いだ輝政に仕えた。天正18年(1590年)、輝政が三河吉田城主となると、牛久保城代となる。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後、輝政が播磨姫路52万石の領主となると、龍野城代となり1万石の知行を賜る。寛永2年(1625年)、隠居して嫡男・成利に家督を譲り、隠居料として3000石を賜る。寛永7年(1630年)、死去。
 成利は藩主池田氏の外戚として米子城代、鳥取藩家老を務めた。次男・嵩就は叔父・隆重の養子となり、子孫は倉吉領主・鳥取藩家老を務めた。3男・三正は和田家を相続した。4男・久成は江戸幕府に仕え旗本となった。久成の4男は水戸藩家老の藤井徳昭。 

 慶長19年(1614年)、大坂冬の陣の際、主君・池田忠継に従い出陣し、大和田攻略では右手の大将を務め武名を上げた。寛永2年(1625年)、父・成房の隠居により家督を相続する。寛永7年(1630年)に成房の死去によりその隠居料も相続し、知行1万3000石となる。
 寛永9年(1632年)、岡山藩主であった池田忠雄が死去すると、家督を継いだ光仲は因幡国・伯耆国に転封されることとなった。転封後は伯耆米子城代となり、弟・嵩就と共に幼い藩主・光仲を補佐し、政務を執り行った。慶安2年(1649年)、因幡東照宮造営の本奉行を務める。
 後に、藩主親政を志す光仲と対立することとなり、承応元年(1652年)には家老職を罷免、隠居を命じられ、家督を嫡男・成直に譲る。明暦元年(1655年)10月12日、死去。享年67。3男の成美は分家成林の養子となった。 

荒尾成重 荒尾成倫

 明暦元年(1655年)、3歳で父・成直の幕府への証人(人質)として江戸に下向する。寛文9年(1670年)12月に兄・成氏が24歳で早世し、寛文10年(1671年)5月に成直の継嗣と定められる。延宝2年(1674年)4月、玄蕃と改名する。
 延宝7年(1679年)3月、成直の死去により家督相続し米子領主となる。家老として藩主・池田光仲に仕えた。同年5月、父・成直が非常のときのためにと蓄えた1万両を藩に献上する。天和元年(1681年)1月、成重の願いにより、弟の成紹が藩士として召出される。延宝8年(1680年)9月、但馬と改名する。元禄3年(1690年)9月、米子入りする。元禄5年(1692年)4月20日死去、享年44。家督は嫡男の平左衛門(成倫)が相続したが、幼いため、成重の弟で分家当主の荒尾成紹が後見を務めた。 

 元禄5年(1692年)6月7日、父・成重の死去により、9歳で家督相続が認められ、米子領主となる。幼いため叔父の荒尾成紹が後見を命じられた。同月27日、叔父・成紹,池田知定,鵜殿長春,大叔父・利純と共に登城し、藩主・池田綱清に拝謁して家督相続の御礼言上を行う。家老として藩主・池田吉泰に仕える。
 元禄6年(1693年)、朝鮮人・安龍福が鳥取を訪れた際に、屋敷で鳥取藩家老の和田三信,津田元長,池田之信とともに引見している。元禄13年(1700年)7月、藩主・吉泰の家督相続御礼言上の際、江戸城に登城し徳川綱吉に拝謁する。
 病弱だったようで、元禄11年(1698年)8月,元禄14年(1701年)6月,元禄15年(1702年)2月と病気療養のため、叔父の成紹に伴われ上京している。同年10月、体調も回復し成人していることから、叔父成紹の後見が免じられる。
 元禄16年(1703年)10月、荒尾家家中で大事の企てが発覚したとして、家老・白井七左衛門親子他を追放する。宝永3年(1706年)2月、藤堂宮内の娘と結婚する。 享保5年(1720年)、鳥取城下の大火(石黒火事)で屋敷を焼失する。享保9年(1724年)4月8日、鳥取城下下臺町より出火し、大火(黒川火事)となる。藩主・吉泰自らの指揮の下、家老の成倫も先頭に立って懸命の消火を行った。享保19年(1734年)7月15日死去、享年51。

荒尾成熙 荒尾成尚

 寛延元年(1748年)7月、本家を相続していた兄・荒尾成昌の死去により、急養子となって家督を相続し、米子城代となる。幼いため、実父の成庸が後見と米子の仕置代行を命じられたが、成庸は翌寛延2年(1749年)3月に死去した。同年8月、初めて米子入りする。寛延3年(1750年)10月、荒尾斯就の娘と結婚する。宝暦9年(1759年)、藩主・池田重寛の将軍・徳川家重への初御目見の際、共に登城し拝謁を賜る。
 宝暦10年(1760年)11月、御職家老(執政家老)となり、若年の藩主・重寛を補佐し、藩政を主導する。宝暦11年(1761年)10月、御根取となる。同年、宝暦の改革の推進者である郡代元締役・安田成信を罷免させる。成信が推進してきた請免制を基礎とする農政は、商品作物の生産流通を重視する政策に変更された。
 明和8年(1771年)4月、後桃園天皇即位式の祝賀使を務める。安永7年(1778年)8月、病により辞職する。天明3年(1783年)12月、藩主・池田治道の家督相続御礼言上の際に、共に登城して将軍家治に拝謁する。天明7年(1787年)7月14日死去、享年53。家督は嫡男の成尚が相続した。 

 天明7年(1787年)9月、成熙の死去により家督相続し、米子城代となる。寛政元年(1793年)3月、幕府巡見使(石尾七郎兵衛,花房佐五郎,小浜平太夫)が米子を通過することなり、米子入りしてその供応にあたった。
 寛政6年(1794年)2月、岡山藩家老・池田政喬の娘と結婚する。同年12月、御職家老となる。寛政8年(1800年)に御根取となる。
 寛政12年(1800年)2月、藩主・池田斉邦が将軍・徳川家斉の面前で元服した際に、ともに登城し将軍に拝謁する。文化4年(1807年)8月、藩主・斉邦死去により江戸に出府する。10月、新藩主となった斉稷が将軍・家斉の面前で元服した際、ともに登城し将軍に拝謁する。
 文政元年(1818年)8月、隠居して家督を成緒に譲る。文政6年(1823年)1月2日死去、享年57。 

荒尾成緒 藤井徳昭

 文政元年(1818年)8月、父の隠居により家督相続し、米子城代となる。文政2年(1819年)8月、初めて米子入りして1ヶ月あまり滞在した。米子入りの行列は壮麗を極め、その評判は鳥取城下にまで聞こえた。特に、行列の所持する弓が、国主・城主にのみ許された「白藤巻の御弓」であったことは人々を驚かせ、着座筆頭荒尾家の藩内での権勢を示す出来事であった。
 文政9年(1826年)10月、家老となる。文政10年(1827年)4月、内匠介と改名する。嘉永元年(1848年)6月、藩主の池田慶行が早世する。7月、江戸に出府し、養子として御家相続が決まった慶栄を加賀藩邸より迎える。嘉永3年(1850年)12月、新藩主となった慶徳の将軍・徳川家慶面前での元服の際に、ともに登城し将軍に拝謁する。
 嘉永4年(1851年)9月、隠居して家督を養子の成裕に譲る。文久2年(1862年)10月3日死去。享年66。 

 藤井 紋太夫の通称でも知られる。旗本・荒尾久成の4男で、水戸徳川家に仕える親戚の老女・藤井の養子となり、2代藩主・徳川光圀に小姓として仕える。以後、光圀に重用され、延宝6年(1678年)に小姓頭、天和元年(1681年)に中老、貞享4年(1687年)に大番頭と累進する。光圀の隠居後も、3代藩主・綱條に引き続き仕えて、元禄6年(1694年)には禄高800石の大老となる。ところが、元禄7年11月23日(1695年1月8日)、小石川水戸藩邸で行われた能会において、光圀に刺殺された。
 光圀が徳昭(紋太夫)を殺害した理由について、講談や小説、時代劇等では、徳昭が光圀失脚を画策する柳沢吉保に内通したためなどとされることが多いが、真相は不明である。子に德輝,鈴子(中山直道室)がいる。 

荒尾嵩就 荒尾秀就

 文禄元年(1592年)、池田家家老・荒尾成房の次男として三河国吉田に生まれる。叔父・荒尾隆重の養子となる。慶長19年(1614年)、大坂の陣に養父・隆重に従い出陣する。元和3年(1617年)、家督相続する。
 寛永9年(1632年)、岡山藩主であった池田忠雄が死去する。池田家が、忠雄の小姓・渡辺源太夫を殺害し逃亡した河合又五郎を匿う旗本たちと対立関係にあったことと、嫡男・勝三郎(光仲)が3歳と幼いために20万石の減封とされる風聞があったが、嵩就が大老・井伊直孝ら幕閣に工作したことが功を奏して減封を免れ、32万石で因幡国・伯耆国に転封されることとなった。転封後は、伯耆倉吉領8000石を知行する。寛文元年(1661年)、平敦盛の真影(狩野安信筆)を摂津国須磨寺に寄附する。寛文2年(1662年)、嫡男の宣就に家督を譲り隠居し、藩主・光仲に隠居料1500石と合力米500俵を賜った。寛文9年(1669年)8月19日死去、享年78。 

 寛文2年(1662年)、父・嵩就の隠居により兄の宣就が家督相続すると、その養子となり藩主・池田光仲に御目見する。天和3年(1683年)5月、宣就の死去により家督相続し、倉吉荒尾家当主となる。
 貞享2年(1685年)3月、御職家老となる。元禄8年(1695年)、男子のいない藩主・池田綱清の後継者として、その甥の吉泰を養子に迎える。継嗣決定に当たっては、当初、藩主・綱清が希望する弟・清定に内定していたが、清定は側室の出生で、光仲正室で綱清の母・芳心院(徳川頼宣の娘)の子ではなかったため、家老の秀就と芳心院,実家の紀州徳川家,芳心院の産んだ綱清の弟・仲澄が協力して、仲澄の長男・長吉(吉泰)に継嗣を変更することに成功した。この件に不満を持った綱清は、元禄13年(1700年)、病を理由に隠居した。吉泰が藩主となると、擁立の功労者として藩政を主導した。
 元禄9年(1696年)、御蔵奉行・米村広治を西伯三郡の奥引奉行に抜擢し、定免制(請免制)を導入して藩財政の建て直しを図る。享保元年(1716年)、病身であった嫡男・常就の養子に分家・荒尾重就の嫡男の豊就を迎える。享保2年(1717年)、屋敷に一揆勢の強訴を受け、藩は2700石の救米の給付を行うことで一揆の沈静化を図った。享保3年(1718年)4月、常就が33歳で没したため、養孫・豊就を養子とする。享保10年(1725年)6月、志摩を美作と改名、豊就も右近を志摩と改名した。享保11年(1726年)4月、豊就が27歳で早世し、分家・重就が養子とした勝就を同年8月に養子に迎えた。享保13年(1728年)4月3日死去。享年77。 

荒尾勝就 荒尾甫就

 宝永5年(1708年)、戸田忠時の次男で西福釜松平家を継いだ旗本・松平隆欽の子として江戸にて誕生。始め、倉吉荒尾家の分家・荒尾重就の養子として家督を相続し、荒尾式部修就と名乗る。享保11年(1726年)4月、本家・荒尾秀就の嫡男・豊就が27歳で早世し、同年8月、秀就の養子として迎えられ、主計と改名する。同年9月、部屋住みのまま1500石を賜る。
 享保13年(1728年)4月、養父・秀就の死去により家督と知行1万1000石を相続し、倉吉荒尾4代当主となる。相続の際、自分知1500石を召上げとなったことで、養家への不面目を理由にしばらく出仕をしなかった。同年11月、勝就の本家相続により、空席となっていた分家の家督を実弟・仙就が相続する。享保16年(1731年)、主計を志摩と改名する。
 享保20年(1735年)7月21日死去、享年28。家督は分家・仙就の養子となって家督を継いでいた甫就が相続した。 

 宝永5年(1708年)、旗本・永井尚附の3男として江戸に生まれる。享保17年(1732年)11月、倉吉荒尾分家、荒尾仙就の養子となり遺跡を相続する。同年12月、藩主池田吉泰に初めて拝謁する。
 享保20年(1735年)閏3月、御職家老(執政家老)となる。同年11月、本家・勝就の死去により、その家督を相続する。元文元年(1736年)5月、江戸にて御勝手御根取作廻に任じられる。12月、御職を辞職する。寛保元年(1741年)2月、菩提寺の景福寺住職選定問題で閉門処分を受ける。景福寺住職選定は、先代住職の遺言をもって、当山開基の荒尾家が定める慣例であったが、先代住職・愚中の遺言を無視して、先々代萬林の弟子・萬国と定めたことから、憤った愚中の弟子や仕えていた僧侶達が幕府に訴えた。同年6月、処分が解かれるも再三にわたり隠居を願出て、寛保2年(1742年)2月、重病を理由として隠居が認められる。同年3月、分家の斯就が家督を相続する。甫就は通称を和泉から典厩に改め、さらに4月に内匠と改めた。明和4年(1767年)9月2日、江戸で死去。享年58。 

荒尾斯就 荒尾為就

 正徳4年(1714年)、旗本・佐々長元の次男として江戸に生まれる。元文元年(1736年)、荒尾仙就の遺跡を相続し、倉吉荒尾分家当主となる。元文2年(1737年)12月、御職家老となる。
 寛保元年(1741年)3月、当主・甫就が菩提寺の住職選定問題で、閉門・隠居となった倉吉荒尾本家を相続、6代当主となる。延享4年(1747年)、幼くして藩主家を相続した勝五郎(池田重寛)を家老として補佐し、江戸藩邸で権勢を振るう。寛延元年(1748年)、幕府より鳥取藩が甲州川々手伝普請を命じられ、その奉行を務めた。
 宝暦4年(1754年)、その乱行を憎んだ藩士・相野定右衛門が、紀州藩邸の門に訴状を貼り付けたため、藩主・重寛の外祖父の紀州藩主・徳川宗直より、支藩因幡鹿奴藩主・池田仲庸に指示があり、同年10月、華美で素行が修まらず、幼君勝五郎(重寛)の教育上好ましくない人物であるとして、勝五郎の後見を務める母・桂香院に家老職を罷免、隠居を命じられる。家督は嫡男の厚就が相続した。
 宝暦5年(1755年)2月20日に急死した。享年42。同月24日には、斯就を訴えた手段を咎められ、揚屋送りとなっていた相野定右衛門も切腹した。 

 明和8年(1771年)、鳥取藩家老・荒尾厚就の子として生まれる。天明6年(1786年)12月、父の死去により家督と知行1万1000石を相続し、倉吉領主となる。家老として池田治道から池田慶徳まで7代の藩主に仕えた。
 鳥取藩出身の歌人・香川景樹とは親友で、為就自身も和歌を嗜み、寛政4年(1792年)に『藤川百首題詠草』を編纂した。
 寛政5年(1793年)、御職家老となる。文化5年(1808年)5月、藩主・斉稷初入国の供をする。文化14年(1817年)10月、江戸に出府し、将軍徳川家斉の13男で藩主・斉稷の養子となった斉衆を藩邸に迎える。文政12年(1829年)、長年の勤労を賞され、1000石の加増を受ける。文政13年(1830年)11月、御職家老を辞任。
 嘉永元年(1848年)、隠居して家督を世就に譲る。嘉永6年(1853年)死去、享年83。