<藤原氏>南家

F028:二階堂行政

 藤原武智麻呂 ― 藤原乙麻呂 ― 藤原為憲 ― 二階堂行政 ― 小出時氏

F036:小出時氏


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小出時氏 小出秀政

 小出氏の出自は、『藩翰譜』などでは藤原南家二階堂氏の流とされ、本貫の地は信濃伊那郡小井弖郷(小出郷)とされる。『吾妻鏡』によれば、寛喜元年(1229年)正月には、小井弖太郎兵衛尉と小井弖五郎が、嘉禎年(1236年)正月には、小井弖左衛門尉が、幕府の御成始の儀で馬曳きの役を務め、特に左衛門尉は以後度々登場する。
 安土桃山時代,江戸時代に大名となった小出氏は、上述の小出氏の子孫が尾張中村に流れてきたものとされる。他方、鈴木真年編の『百家系図稿』では同じ藤原南家でも工藤氏流とされるなど、系図上の流れは二つあり、小出秀政までの系譜も諸説あって定かではない。
 小出氏の祖である能綱の父が為綱といった点に着目すれば、三日祝と呼ばれた大祝二郎諏訪為継(一に為綱)の後裔であったと考える説もある。 

 天文9年(1540年)、尾張国愛知郡中村に、織田家の家臣・小出五郎左衛門正重(政重)の長男として生まれた。小出氏はもとは信濃伊那郡小出氐の庄に住んだことからこれを家号とし、尾張中村に移り住んで「小出」に改めたと伝わる。豊臣秀吉とは同郷で3歳年下。正室は秀吉の母大政所の妹・栄松院(俗名「とら」)であり、秀政は秀吉の年下の叔父(叔母婿)にあたる。甥の立身に伴ってその家人となった。はじめは甚左衛門を名乗り、秀政の「秀」は秀吉よりの偏諱である。
 天正10年(1582年)10月22日、播磨国姫路城の留守居とされた。天正13年(1585年)5月に岸和田から中村一氏を近江水口城に移し、7月、秀政に和泉岸和田城の所領が与えられた。この時点の本知は4,000石だったという。大名の城主ではなく城代・城番ないし代官だった。
 天正16年(1588年)の聚楽第行幸に供奉し、この頃から播磨守を名乗った。
 天正18年(1590年)、秀吉の小田原戦役に側近六人衆で従軍して、4月5日、大坂城留守居衆に戦況を報告。天正19年(1591年)8月3日、秀吉の世嗣・鶴松が危篤となり、各社寺に病気平癒の祈祷を命じた文書に、増田長盛,秀政,伊藤秀盛,寺沢広政,石川光重,前田玄以の側近六人衆で連署で署名。
 天正20年(1592年)3月26日、秀吉が文禄の役で肥前名護屋城に出陣するが、側近六人衆の内、秀政,玄以,光重は大坂留守居で、秀政の名代として吉政が名護屋城に従軍した。同年7月22日に秀吉の母である大政所が死去し、秀吉は急遽、上方に帰還。秀吉は8月4日に母の菩提を弔うために高野山に剃髪寺(青巌寺)の建立を決めて、聖護院道勝(興意法親王)を名代として登山させ、これに秀政と中村一氏を供奉させた。大政所の死により、親族代表は秀政から浅野長政に移り、これにより側近六人衆は解体されたという。
 文禄3年(1594年)6月5日、和泉国日根郡と南郡内で6,000石を加増され、併せて1万石となる。文禄4年(1595年)正月15日、北政所の知行地である摂津欠郡平野庄ほか1万5,672石の蔵入代官に任命された。同年8月3日、秀次事件で失脚した前野長康に代わって吉政は但馬出石城に移封され、同日、秀政にも2万石が加増されて併せて3万石となって、岸和田城主となった。また、この年に岸和田城の天守閣が着工し、2年後の慶長2年に竣工した。
 慶長3年(1598年)5月頃に秀吉は病に伏せるようになり、7月15日、生前に秀吉の遺産分配があり、秀政は「御用被仰候衆」の筆頭として、遺物・金子30枚を受領した。同年8月、秀頼の輔佐を命じられた。
 慶長4年(1599年)正月10日、豊臣秀頼が伏見城から大坂城へ移ったが、その際に大坂城の勤番体制が定められ、秀頼の面前に伺候できるものが、五大老と徳川秀忠,前田利長の7人と五奉行の5人を併せた「長衆」と、用人的役割の「秀頼四人衆」とされる石川光吉(貞清),石田正澄,石川一宗(頼明),片桐且元の4人となり、「詰衆」として二番に分かれる31名が指名された。閏3月に奉行衆と同盟関係にあった武断派領袖の前田利家が病死すると、武断派武将による襲撃を受けた石田三成が失脚して佐和山に隠居するが、これを機に小出秀政が秀頼のもとに出仕するようになった。石田派の秀頼の用人体制に秀政と且元という2人の徳川派が割り込むことになった。
 慶長5年(1600年)正月5日に三奉行が定めた城中法度では、石田派の3名は排除され、これにより実質的に小出・片桐両輪体制へ移行した。
 関ヶ原役では西軍に与したが、次男・秀家が一人東軍に属して関ヶ原本戦で戦功を挙げる活躍をしたため、秀家に免じて小出氏の所領は安堵された。また、12月、引き続き大坂城への出仕も許されることになった。なお、大坂城には家康の家臣である井伊直政と本多正信の2人が残されており「内府様衆」ばかりが幅を利かせて諸事を決定し、「秀頼様衆」の秀政・且元と寺沢正成(広高)の言い分は全く聞き入れてもらえなかったという。しばらくすると寺沢は天草で加増されて転出し、小出・片桐両輪体制に戻り、五奉行が担っていた算用奉行の役割も引き継いで、秀頼名代としての行動を担うようになった。慶長6年(1601年)4月、豊国社祭礼へは秀頼の奉公人を名代にする形に変わったため、片桐且元,片桐貞隆(且元弟)と秀政がほぼ交互に名代として務めた。
 秀吉の叔父である小出秀政は秀頼を支えるブレーンの1人として重要な役割を担っていたが、慶長9年(1604年)3月22日に没した。享年65。後任には片桐貞隆や大野治長らに担われた。秀政の亡骸は京都の本圀寺に葬られ、遺領の和泉岸和田城は吉政が継ぎ、吉政の但馬出石城は、吉政の嫡男である孫の吉英が継いだ。妻の「とら」は、夫よりも年長だったが、秀政よりも長命で、慶長13年(1608年)12月13日に没した。

小出吉政 小出吉英

 豊臣秀吉に仕え、天正18年(1590年)、小田原の役に従軍。文禄2年(1593年)、播磨国龍野城2万石の城主となる。次いで文禄4年(1595年)には、但馬国有子山城城主となる。慶長3年(1598年)8月、秀吉の死で国景(刀)を遺贈される。なお、秀吉が死の直前に記した『大坂御番之次第』と題する朱印状によると、吉政は大坂城の本丸裏御門および青屋口御門の門番という要職を与えられていたことがわかる。
 慶長5年(1600年)正月に長束正家,増田長盛,前田玄以の三奉行の連署で出された法度でも、吉政は片桐且元と2人で大坂城の破損・掃除等の保守責任者とされた。同年の関ヶ原の戦いでは、父・秀政と共に西軍に属し、大阪平野の野口・新堀を警備。細川藤孝(幽斎)が守る丹後国田辺城攻撃に参加したが、弟の秀家が東軍に属して関ヶ原本戦で活躍したため、戦後に6万石の所領を安堵された。
 皮肉な事に慶長8年(1603年)に秀家が父に先立って病死し、翌年に秀政が死去すると、吉政は父の遺領である岸和田3万石に移り、出石は息子の小出吉英が領することとなった。慶長18年(1613年)、大坂の陣の前年に49歳で死去。高野山(奥の院)庫蔵院に葬られた。京都市の大徳寺玉林院にも墓所がある。

 但馬国出石藩2代および4代藩主、和泉国岸和田藩3代藩主。天正15年(1587年)、豊臣秀吉の従弟である小出吉政の長男として、大坂で生まれた。秀吉の従甥にあたる。慶長9年(1604年)に徳川家康の命で父・吉政が和泉国岸和田藩に移った後、但馬国出石藩6万石を領した。この際、叔父に当たる三尹に所領の一部を分知して和泉陶器藩を立藩させている。慶長18年(1613年)、父が死去すると家督を継ぎ、岸和田に移ったため、出石は弟の小出吉親が継ぐこととなった。後に岸和田から出石に移封となり、弟の吉親は丹波国園部に移封されて、園部藩を立藩する。一方、吉英は新たに出石城を築城し、有子山城より居城を移転している。
 慶長17年(1612年)、大和守に任命された。慶長18年(1613年)、父が死去して3月に家督を継いで岸和田に戻ったため、出石城を弟の吉親に譲り、吉英は和泉国大鳥郡,日根郡,但馬国養父郡,気多郡,美含郡の5郡の内、5万石を領した。同年、将軍徳川秀忠より領知の朱印状を与えられる。
 慶長19年(1614年)、大坂の陣が始まる前、豊臣方より誘いをかけられた。豊臣秀頼から黒印を贈られ、大野治長,津田頼長からの書簡が添えられていたが、吉英はこれを受け取らず本多正純に事の次第を説明してくれるように頼んだので、これを聞いた家康は大変喜んだという。冬の陣では、吉親と共に出陣して天王寺口の攻撃に参加した。岸和田城は手薄となり、大坂城が近いため、援軍として本多政武,松平信吉が入城した。しばらくしてさらに北条氏重が加わった。和平交渉に際して、大野治長は嫡子信濃守治徳(長徳)を吉英の陣に送って人質とした。これは和議成立後に返還された。
 翌年の夏の陣でも吉親と共にあり、これに金森可重,伊東治明ら親族が加わって岸和田勢をなした。4月29日に豊臣方が出陣して大野道犬が岸和田城を押さえている間に、大野治房を主将に、塙直之,岡部則綱,淡輪重政らが紀伊国へ侵攻して浅野長晟を攻撃しようとした。これが樫井の戦いで敗れて退却すると、5月1日に道犬も撤収しようとしたので、吉英らは城より打って出て、首級62・捕虜6人と得る戦果を挙げた。7日、大坂落城ではその戦いに加わって数百を斬り、首級107を挙げた。これら首級をそれぞれ公儀に献じて褒美を受けた。8日、秀忠の命をうけて堺浦の警備にあたり、豊臣方の捕縛を行った。
 元和5年(1619年)、岸和田から出石の旧領への移封を命じられ、但馬国出石郡,養父郡,気多郡,美含郡,朝来郡の5郡からなる5万石となり、出石城に戻った。この時、吉親は丹波国園部に移封されて園部藩を立藩し、吉英は家督を次男・吉重に譲るとして一線を退いた。
 寛永10年(1633年)、出雲松江藩・堀尾忠晴が無嗣断絶で改易となると、古田重恒,池田長常と共に松江城の接収役となった。同14年に今度は堀尾領を引き継いだ京極忠高が没して同地が没収となると、再び古田重恒,亀井茲政と共に松江城に守衛として入った。寛永15年(1638年)、命を受けて高野山大塔を造営した。寛文3年(1663年)、出石郡矢根銀山を賜った。
 寛文6年(1666年)に没する。享年80。広徳寺に葬られた。 

小出英及 小出秀家

 元禄7年(1694年)11月29日生まれ。幼名は久千代。生後一ヶ月後の12月17日に父が死去したため、翌年2月14日に家督を継いで当主となった。とはいえ、わずかな幼児に政務を執れるはずも無く、後見人として一門で江戸幕府旗本である小出英直,小出英輝,小出英雄らがなった。しかし英及の相続には不審なところも多く、実は英及は家督相続直後に死去していたと言われている。領民の間にもそのような不審な噂があがるほどであった。
 通説では、英及の死去は元禄9年(1696年)10月22日となっている。わずか3歳で嗣子がいるはずもなく、ここに小出家の嫡流は断絶してしまった。死後、出石藩では藩主死去の混乱から11月1日に打ちこわし,焼き討ち,襲撃事件があちこちで起こり、丹波亀山藩の久世重之によってようやく鎮圧されるほどであった。

 小出秀政の次男。母・栄松院は大政所の妹で、豊臣秀吉の従弟にあたる。幼少の頃より秀吉に馬廻として仕える。天正19年(1591年)頃、和泉国大鳥郡に知行1,000石を与えられた。
 文禄元年(1592年)、文禄・慶長の役では、三ノ丸御番衆・御馬廻組に名があり、名護屋城に滞在した。文禄年間に従五位下遠江守に叙任された。
 慶長5年(1600年)、徳川家康が上杉景勝討伐に向かった際、父の名代として兵300を率いてこれに加わった。途中、小山にて石田三成が大坂で挙兵して父や兄が三成率いる西軍に加勢したことを知るが、家康にそのまま従って東軍として関ヶ原の戦いに参加した。さらに帰還して父の岸和田城を接収したところ、西軍の長宗我部盛親の兵船200艘余が同国石津浦に上陸したため、これを撃退。家康は秀家の功を高く評価し、河内国錦部郡1000石を加増させて合計2000石の知行とするとともに、西軍についた父や兄の所領安堵も許した。
 慶長8年(1603年)、秀家は大坂にて37歳で病死した。家康はその死を惜しんで改易にはせず、弟・三尹が養子となって家督を相続するのを許した。その翌年に秀政が死去すると、家康は吉政に命じて1万石を割かせ、秀家の後継である三尹に分けるように命じ、陶器藩として立藩させた。 

小出三尹 小出重興

 天正17年(1589年)、和泉岸和田藩主・小出秀政の4男として丹波国で生まれた。秀政の正室は、豊臣秀吉の母なか(大政所)の妹・栄松院であるが、三尹の母は側室のため、秀吉と血のつながりはない。
 はじめ豊臣秀吉に仕え、秀吉馬廻を勤めた。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは父や兄と同じ西軍に属し、『武家事紀』などによれば、吉政の養子の木下俊定らと大津城の戦いに参加し、少年ながら砲を操作していて敵弾で負傷した。親子共々処分されても仕方がない状況であったが、兄の秀家が一人東軍に属して各所で戦功を挙げたため、その功により小出家は皆助命されて所領もそのままとなった。
 慶長8年(1603年)、兄・秀家が死去したため、その養子となって家督を継ぎ、豊臣秀頼に仕えた。同年、徳川家康の推挙により、従五位下に叙される。慶長9年(1604年)の父・秀政の死より、遺領の一部が与えられることになって、甥の吉英の領地であった和泉国大鳥郡,河内国錦部郡,摂津国西成郡,但馬国気多郡,美含郡の5郡において、併せて1万石を分与されて大名となり、和泉陶器藩の初代藩主となった。なお、秀家より相続した旧領2000石はこの時に召しあげられた。
 慶長14年(1609年)、江戸に出て将軍徳川秀忠に伺候する。慶長19年(1614年)からの2度の大坂の陣に徳川方として参加した。
 寛永10年(1633年)、永井監物白元,乗山内匠一直らと尾張で奉行を務め、同12年には遠江でも奉行を務めた。また寛永11年(1634年)の将軍・徳川家光の上洛に供奉した。寛永17年(1640年)の池田輝澄改易の際の上使を務めるなどに功績があった。
 寛永19年(1642年)4月29日、播磨国山崎で死去した。享年54。跡を長男の有棟が継いだ。 

 陶器藩小出家5代。寛文3年(1663年)、第3代藩主・小出有重の次男として生まれる。元禄6年(1693年)8月3日、父の死去により跡を継いだ。元禄9年(1696年)4月9日、病により死去。享年34。
 重興には実子が無く、死に臨んだ元禄9年(1696年)4月2日に弟の重昌を養子にしたが重昌も病となり、6月13日になって16歳で死去。御目見を果たせずに17歳未満で死去したため、元禄9年(1696年)8月12日、陶器小出家は無嗣子を理由に改易となった。