<藤原氏>南家

F056:工藤景光  藤原武智麻呂 ― 藤原乙麻呂 ― 藤原為憲 ― 工藤景光 ― 内田正之 F057:内田正之


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内田正信 内田正偏

 慶長18年(1613年)、800石の御納戸頭である内田正世の次男として生まれる。寛永7年(1630年)から徳川家光の家臣として仕え、寛永12年(1635年)12月21日に奥小姓、寛永13年(1636年)6月4日に御手水番に任じられる。寛永14年(1637年)12月14日、相模国内で1000石を加増される。寛永15年(1638年)6月29日に叙任する。
 寛永16年(1639年)11月10日、下総名取郡や常陸鹿島郡などで8200石を加増され、合計1万石の大名となり、鹿沼藩主となる。同時に御小姓組番頭となった。慶安2年(1649年)8月11日、下野国内で5000石を加増され、御側出頭となる。慶安4年(1651年)4月20日、家光が死去するに従って殉死した。享年39。跡を次男の正衆が継いだ。

 元禄6年(1693年)、第2代藩主・内田正衆の長男・内田正勝の子として生まれる。翌年、父の死により嫡子となり、元禄12年(1699年)に正衆が死去したためその跡を継いだ。このとき、叔父の内田正長に1500石、同じく叔父の久世正広に500石を分与したため、鹿沼藩は1万3000石となった。
 宝永6年(1709年)3月7日に叙任する。しかし、享保9年(1724年)10月29日、狂気により妻女を傷つけてしまった罪を問われ、幕府より蟄居処分となった。江戸で見初めた町人の妻を正偏が鹿沼に連れて帰り、それを追って尋ねてきた父子を無礼と下の者に斬り捨てさせ、それから狂気に走るようになったという伝承がある。
 家督は子の正親が継いだが、所領を3000石減らされた1万石で下総小見川藩に移された。寛保3年(1743年)2月29日に死去。享年51。

内田正容 内田正学

 寛政12年8月13日(1800年10月1日)、大身旗本で留守居役を務めた石河貞通の3男として生まれた。貞通は備中岡田藩主・伊東長丘の5男である。
 文化13年(1816年)に、第5代藩主・内田正肥が早世したため、その養子となり家督を継いだ。同年12月には叙任された。幕府の役職として、和田倉門番,馬場先門番,半蔵門番,竹橋門番,田安門番,日光祭祀奉行などを歴任している。しかし、天保8年8月14日(1837年9月13日)、遊郭への出入りや屋敷に芸者を招くといった不行跡が理由で、幕府の命令により長男の正道に家督を強制的に譲らされ、隠居することとなった。この際、青山にあった江戸上屋敷も収公されている。その後は、長男・正道(享年24),次男・正徳(享年34),3男・正縄(享年31)の3人の息子が相次いで早世するという不幸に見舞われた。明治3年1月27日(1870年2月27日)に死去。享年71。
 大名でありながら刺青を施していたと言われている。この刺青も、遊郭への出入りや芸者を招いた行為と合わせて、隠居を命じられた「不行跡」の一因であったと伝えられている。

 下総小見川藩の第10代(最後)の藩主。小見川藩内田家13代。弘化4年(1847年)11月3日、内田家分家で1500石を領する旗本・内田正路の次男として生まれた。元治元年(1864年)に第9代藩主の正縄が若死にしたため、その養子として跡を継いだ。幕末期は佐幕派として芝増上寺の警護を務めていたが、慶応4年(1868年)の戊辰戦争では新政府に協力している。明治2年(1869年)6月24日の版籍奉還で藩知事となり、明治4年(1871年)7月14日の廃藩置県で免官された。
 明治10年(1877年)の西南戦争では、東伏見宮嘉彰親王に従って三等中警部心得として参戦する。明治25年(1892年)には陸軍大尉となり、明治27年(1894年)の日清戦争では歩兵第2連隊副官として参戦した。明治32年(1899年)には貴族院議員となる。明治43年(1910年)7月22日に死去。享年64。