<藤原氏>南家

F079:高倉範季  藤原武智麻呂 ― 藤原巨勢麻呂 ― 藤原貞嗣 ― 藤原永頼 ― 藤原季綱 ― 藤原範兼 ― 高倉範季 ― 藪 嗣良 F080:藪 嗣良

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藪 嗣良 高倉篤麿

 藪家は高倉範季を祖とする。家格は羽林家。家業は神楽,筝。
戦国時代の天文15年(1546年)に参議・範久の時に中絶する。以後、複雑な経緯を辿る。まず下冷泉為豊の次男・範信(後の甘露寺経元)が当主となるが勅命で甘露寺家を継承したために中絶、次に勧修寺晴秀の次男・範将が当主になるも出奔して動向が不明となり、永禄8年(1565年)に高倉資政(元の中御門宣将・東坊城季長)が高倉家継承を命じられるも同年11月に急死して中絶、柳原淳光の子・範国が入るが、天正12年(1584年)に賊に殺害されてまたも中絶、四辻公遠の3男・範遠が継いだが後に山科家を継承する。しかし、弟にあたる公遠の5男・嗣良がようやく再興を果たした。
 その後、嗣良は家名を「高倉」から「藪」と改名する。その背景として前当主であった範遠が朝廷内の事情で山科家の当主を追われて「猪熊教利」と改名した後に猪熊事件を起こして処刑されたことを憚ったこと、加えて藤原南家流で参議を事実上の極官とする高倉家を放棄して、藤原北家閑院流四辻支流で権大納言を極官とする四辻家の庶流になることで家格上昇を図ったものであったとみられる(「藪」は元々四辻家の別名の1つであったと言われる)。これによって、朝廷では藤原南家の旧家・高倉家は断絶して、閑院流の新家・藪家が創設されたとみなされた。だが、寛延3年(1750年)に桜町上皇と一条兼香が制定した官位御定に旧家・新家の家格を昇進基準として導入され、権大納言まで昇り得た藪家は一転して寛永期創設の新家として三位への昇進も事実上不可能とされてしまった。

 1936年(昭和11年)2月、高倉に復姓した。
 東京府で華族・藪実休の2男として生まれ、1882年(明治15年)10月7日、祖父・藪実方の隠居に伴い家督を相続した。1884年(明治17年)7月8日、子爵を叙爵。1907年(明治40年)明治大学政治科を卒業し、さらに東京外国語学校仏語専修科で学んだ。
 1890年(明治23年)侍従職出仕となり、1898年(明治31年)主猟官に転じた。1914年(大正3年)1月24日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に所属して活動し1940年(昭和15年)2月20日に辞任した。同年、伊勢神宮大宮司に就任し、1951年(昭和26年)まで在任。その他、旧堂上華族保護資金調査委員を務めた。