<藤原氏>北家 兼通流

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本多忠義 本多忠平

 慶長7年(1602年)、本多忠政の3男として生まれた。祖父・忠勝の血を受け継いだ勇将で、慶長19年(1614年)からの大坂の陣では年少であるにもかかわらず出陣して功を挙げた。元和元年(1615年)閏6月19日、従五位下能登守に叙位・任官する。
 寛永8年(1631年)、父・忠政が死去すると、播磨姫路藩の所領のうち4万石を分与された。寛永8年(1631年)に兄・政朝から1万石を分与され計5万石となり、寛永16年(1639年)3月3日には遠江掛川藩7万石に加増移封された。正保元年(1644年)3月8日、越後村上藩10万石に加増移封され、慶安2年(1649年)6月9日に陸奥白河藩12万石へ加増移封された。
 寛文2年(1662年)11月25日、隠居して鈍斎と号した。延宝4年(1676年)9月26日に死去。享年75。家督は長男の忠平が継いだ。 

 寛永9年(1632年)、本多忠義の長男として生まれる。 寛文2年(1662年)11月25日、父の隠居により家督を継ぐ。弟・本多忠利に1万石(陸奥石川藩),弟・本多忠以に1万石(陸奥浅川藩),弟・本多忠晴に新田2500石,弟・本多忠周に新田2500石を分与し、都合10万石となる。
 天和元年(1681年)、宇都宮藩に移封された。宇都宮藩では年貢を減税するなど善政を布いたため民から慕われ、わずか4年後の貞享2年(1685年)に大和郡山藩へ移封された後も宇都宮との領民との交流が続いた。
 大和郡山に12万石で移されると、藩政においては城下町の新設や藩札の発行を行なっている。また、松波良利や上島鬼貫を登用して財政改革も行なったが、失敗に終わった。
 元禄8年(1695年)10月15日、江戸で死去した。享年66。実子が無かったため、実弟で養嗣子の忠常が跡を継いだ。 

本多忠常 本多忠烈

 寛文元年(1661年)、本多忠義の6男として生まれる。初代藩主・本多忠平の実弟。延宝5年(1677年)閏12月26日、従五位下・能登守に叙位・任官する。元禄8年(1695年)、兄の死去によりその養嗣子として家督を継いだ。
 元禄12年(1699年)、城下町の大火、江戸屋敷の火事、京都御所の造営などによる再建・造営費用などで出費が重なり、藩財政が窮乏化した。宝永4年(1707年)10月10日、4兄・忠晴の長男の忠直を養子とした。宝永6年(1709年)4月17日、49歳で死去し、忠直が跡を継いだ。忠常の墓碑は大和郡山市の指定文化財となり、林信篤によってその墓碑には忠常一代の経歴が刻銘されている。

 正徳6年(1716年)、郡山で生まれる。享保7年(1722年)、兄で先代藩主の忠村の夭逝により跡を継いだ。しかし幼少であることを理由に、所領を5万石にまで減らされた。このため、家臣団280人(306人とも)の解雇が行なわれている。また、屋敷などの大々的な取り壊しも行なわれた。享保8年(1723年)11月27日、江戸で死去した。享年8。継嗣がなく、郡山藩本多家は断絶し、改易となった。墓所は東京都文京区湯島の麟祥院。 
本多忠次 本多忠央

 延宝7年(1679年)10月21日、長門長府藩の第3代藩主・毛利綱元の次男として江戸で生まれる。初名は毛利匡英。元禄5年(1692年)7月26日に挙母藩の初代藩主・本多忠利の婿養子となって本多忠次を名乗り、元禄13年(1700年)の忠利の死去により家督を継いだ。
 元禄14年(1701年)以来、領内で風水害が相次いで被害が大きく、年貢収入は減少して藩財政が逼迫する。このため、有能な人材登用や養蚕業,綿などの産業振興に尽力して藩政改革を行なった。正徳元年(1711年)11月20日、挙母で死去した。享年33。跡を長男の忠央が継いだ。
 死因は病死といわれているが、尾張藩の記録では10月に藩内で抗争が起こり、それによって忠次は近臣を誅殺したが、自らも近臣によって殺され、正室も自害したとされている。このような事情で改易を恐れた家臣団が、忠次の死因を偽り、時期をずらしたというものである。 

 宝永5年(1708年)、挙母藩の第2代藩主・本多忠次の長男として生まれる。正徳元年(1711年)11月20日、父・忠次の死去により、家督を継いだ。享保7年(1722年)12月18日、従五位下・兵庫頭に叙位・任官する。後に長門守に遷任する。 寛保2年(1742年)6月に大番頭となる。
 寛延2年(1749年)2月6日に遠江相良に移封され、寺社奉行となった。しかし宝暦8年(1758年)、郡上一揆が原因で美濃郡上藩主の金森頼錦が悪政を理由に改易されると、その縁戚であったことから連座して改易され、松平長孝預かりの身となった。代わって相良藩には事件を審判した田沼意次が入った。
 明和5年(1768年)に罪を許されて赦免された後は、江戸にいる舅の忠統や養子の忠由のもとで余生を過ごしながら、享和2年(1802年)に95歳の長寿をもって死去した。天明8年(1788年)6月24日に81歳で没したという説もある。 

本多忠周

 寛永19年(1642年)、本多忠義の5男として生まれる。初名は忠当。寛文2年(1662年)11月25日、陸奥白河藩主である長兄・本多忠平から2500石を分与され、別家をたてる。
 天和元年(1681年)に三河加茂郡に5000石で移封された。翌天和2年(1682年)には、丹波氷上郡に2000石を加増される。天和3年(1683年)2月2日に寺社奉行に任じられるのと同時に3000石を加増され、合計1万石となり大名に列した。
 しかし、貞享4年(1687年)5月14日に将軍徳川綱吉より、同じく寺社奉行であった旗本出身の相模深見藩主・坂本重治とともに勤務怠慢として寺社奉行を免職され、2年後の元禄2年(1689年)6月4日には加増分の3000石を没収されて旗本に戻った。当初には小普請役だったが、元禄15年(1702年)に寄合となった。
 正徳2年(1712年)7月5日に死去した。享年71。嫡男の忠職が早世していたため、家督は養子の忠貞(松平直矩の7男、初名:松平知隆)が継いだ。以後、忠周系本多平八郎家は、7000石の旗本寄合として明治維新を迎えた。