| F562:浅井重政 | 藤原公季 ― 藤原公実 ― 三条公教 ― 浅井重政 ― 赤尾教政 | F563:赤尾教政 | ● |

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| 赤尾清綱 | 赤尾清冬 |
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浅井三将の一人。赤尾氏は近江の国人で、元々は京極氏の傘下であったが、後に海北氏や雨森氏と並ぶ「浅井三将」に数えられた。清綱は近江浅井家初代・浅井亮政の頃から浅井家に仕え、浅井家と興亡をともにした人物である。当主からの信頼がとりわけ厚く、小谷城内の防衛の要所に赤尾曲輪と呼ばれる居館をもち、そこに在番していた。通常、家臣は城下に武家屋敷を持ち、そこを居館とするが、城内に居館を持つのを許されていたことから、相当信頼のおける人物であったことが窺われる。 |
永禄4年(1561年)、浅井長政に従い、六角義賢に属する太尾城の攻略に従軍した。天正元年(1573年)、織田信長との戦いに敗れ小谷城の戦いで父・清綱は切腹したが、嫡子の虎千代(後の清冬)の命は、清綱のそれまでの働きと忠義に免じて織田信長直々に助命したといわれている。 |
| 赤尾伊豆守 | |
| 諱は不詳。天正元年(1573年)、織田信長の小谷城攻撃で父の清綱は捕虜となり斬首されるが(浅井長政とともに自害とも)、清綱のそれまでの働きと忠義に免じて信長直々に助命され、多賀法印の弟子とされる。のちに人を斬り、赤尾の地に隠れ住んだのち、京極高次に仕官し、赤尾伊豆守と名乗る。慶長5年(1600年)、大津城の留守を黒田伊予守とともに預かる。高次の帰還ののちの大津城の戦いで山田大炊良利らとともに奮戦したため、西軍はなかなか城を落とせなかった。関ヶ原の戦いののち、新しい封地の小浜城の築城に際して、縄張りをして石垣の基礎を築いた。 |