<藤原氏>北家 為光流

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赤尾清綱 赤尾清冬

 浅井三将の一人。赤尾氏は近江の国人で、元々は京極氏の傘下であったが、後に海北氏や雨森氏と並ぶ「浅井三将」に数えられた。清綱は近江浅井家初代・浅井亮政の頃から浅井家に仕え、浅井家と興亡をともにした人物である。当主からの信頼がとりわけ厚く、小谷城内の防衛の要所に赤尾曲輪と呼ばれる居館をもち、そこに在番していた。通常、家臣は城下に武家屋敷を持ち、そこを居館とするが、城内に居館を持つのを許されていたことから、相当信頼のおける人物であったことが窺われる。
 亮政の子・久政の代には、浅井家重臣・遠藤直経らとともに長政への家督委譲と久政の隠居を計画、久政が城を出た隙に小谷城を占拠し、長政への家督委譲を認めさせた。この家督交代劇は、武田信虎から家督を奪い取った武田晴信らの行動と似てはいるが、信虎が生涯躑躅ヶ崎館への帰還が叶わなかったのに対し、久政は長政や家臣らと和解し、すぐに小谷城へ戻っている。長政が当主となった頃には老齢で合戦の表舞台に出ることはなかったが、軍目付的な存在として陣中に赴いていたという。亮政が六角氏との攻防により一時越前に退避、朝倉氏と同盟を結び再起を図ったという経緯から、家中では朝倉寄りの立場を取りつづける。浅井家3代にわたって仕えてきた人物だけに、朝倉との関係も非常に深かったのであろう。
 天正元年(1573年)、小谷城の戦いで切腹したと、『信長公記』巻六に記されている。

 永禄4年(1561年)、浅井長政に従い、六角義賢に属する太尾城の攻略に従軍した。天正元年(1573年)、織田信長との戦いに敗れ小谷城の戦いで父・清綱は切腹したが、嫡子の虎千代(後の清冬)の命は、清綱のそれまでの働きと忠義に免じて織田信長直々に助命したといわれている。
 浅井氏の滅亡後は宮部継潤に仕え、因幡国諸磯城代となる。継潤の隠居後はその子・長房に仕えた。

赤尾伊豆守
 諱は不詳。天正元年(1573年)、織田信長の小谷城攻撃で父の清綱は捕虜となり斬首されるが(浅井長政とともに自害とも)、清綱のそれまでの働きと忠義に免じて信長直々に助命され、多賀法印の弟子とされる。のちに人を斬り、赤尾の地に隠れ住んだのち、京極高次に仕官し、赤尾伊豆守と名乗る。慶長5年(1600年)、大津城の留守を黒田伊予守とともに預かる。高次の帰還ののちの大津城の戦いで山田大炊良利らとともに奮戦したため、西軍はなかなか城を落とせなかった。関ヶ原の戦いののち、新しい封地の小浜城の築城に際して、縄張りをして石垣の基礎を築いた。