<藤原氏>北家 閑院流

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三条西実隆 三条西公条

 京都武者小路の邸で生まれる。長禄2年(1458年)に兄の実連が死去し、寛正元年(1460年)には父の公保が死去する。このため、母方の叔父である甘露寺親長の後見を受けて家督を相続する。応仁元年(1467年)には京都で応仁の乱が発生し、鞍馬寺へ疎開、乱により三条西邸も焼失している。文明元年(1469年)に元服。永正3年(1506年)に内大臣となる。永正13年(1516年)に出家。
 後土御門天皇,後柏原天皇,後奈良天皇の3代に仕えたが、後土御門天皇の寵妃や、後柏原天皇女御で後奈良天皇生母の勧修寺藤子は義姉妹に当たり、天皇家とは深い縁戚関係にあった。
 室町幕府将軍の足利義政や足利義澄、若狭守護の武田元信らと親交があったほか、文化人としての交流関係も多岐に亘り、一条兼良と共に和歌・古典の貴族文化を保持・発展させ、宗祇から古今伝授を受けている。また、武野紹鴎に茶道を教え、大和国人の十市遠忠に和歌を教えている。また、周防の大内義隆とも親交が深かった。なお、実隆には当時としては珍しく側室がいなかった。
 漢文日記『実隆公記』は、史料的価値もある。歌集に『雪玉集』『聞雪集』、著作に『詠歌大概抄』『高野山参詣記』など。源氏物語に関しては、系図として革新的な『実隆本源氏物語系図』を作った他、息子の公条が『明星抄』を著す基礎も作った。浄土宗を信仰していた。

 兄・公順が出家したために次男ながら家督を継ぎ、2歳で叙爵して侍従に任じられる。明応6年(1497年)12月に元服・加冠した後、永正2年(1505年)蔵人頭、同4年(1507年参議、同8年(1511年)権中納言を歴任し、大宰権帥や神宮伝奏を経て、同18年(1521年)4月には権大納言に昇進した。大永6年(1526年)1月正二位に叙され、天文10年(1541年)1月に内大臣、さらに同11年(1542年)閏3月に右大臣に任じられるが、同12年(1543年)7月57歳で致仕、同13年(1544年)2月に京都二尊院で落飾し、法名を仍覚という。永禄6年(1563年)12月2日に薨去。享年77。二尊院に葬られた。
 父実・隆から『源氏物語』の奥義を継承し、『明星抄』などの注釈を表した他、享禄元年(1528年)から翌年にかけて後奈良天皇に『古今和歌集』を進講するなど、当代一流の文化人として重用された。著書には、古典の注釈書『伊勢物語抄』『百人一首抄』、紀行文に『高野山参詣記』『吉野詣記』『三塔巡礼記』など、他撰の家集としては『称名院』がある。

三条西実枝

 天文13年(1544年)には長男・公世と妻を相次いで失っている。天文21年(1552年)以降は京都を離れ、駿河国へ移っている。永禄12年(1569年)に帰洛した後は、精力的に古典の講釈を行い、三条西家に伝わる『源氏物語』の学を集大成した『山下水』を著した。
 天正7年(1577年)には織田信長の推挙により大納言に任じられた(この時代には権大納言のみが任じられて正官の大納言は空席とされる慣習であったが、実枝は23年ぶりに任命された)。三条西家に代々伝わる古今伝授は一子相伝の秘事であったが、息子・公国が幼かったため、やむなく弟子の細川藤孝(幽斎玄旨)に初学一葉を与え、「たとえ細川家の嫡男の一人といえども、絶対に他人には伝授しないこと、三条西家に、もし相伝が断絶するようなことがあれば、責任をもって伝え返すこと」等を誓わせ、古今伝授を行った。後にこれは現実のものとなり、公国が早世すると、幽斎は実枝の孫の実条に古今伝授を伝えた。
 家集に『三光院集』がある。