江戸時代前期から中期の大奥女中。単に右衛門佐とも。 初め霊元天皇の後宮で中宮・鷹司房子に仕えていた。延宝年間(1673~81年)には仙洞御所へ異動し、後水尾上皇にも仕えた。この仙洞御所での呼称が、後に大奥での名となる右衛門佐であったという。延宝8年(1680年)、上皇が逝去したのを機に奥勤めを退き、兄(または甥)の町尻兼量の屋敷に身を寄せた。 貞享元年(1684年)、5代将軍・徳川綱吉と側室・お伝の方との間に生まれた鶴姫付きの上臈に抜擢され、同年6月25日に支度金100両が渡された。肝煎は鷹司家諸大夫・庭田祐宣で、綱吉の御台所・鷹司信子が、妹の鷹司房子、または実家の鷹司家に依頼して人選したという。この頃は常盤井と称していたが、江戸下向を機に名を右衛門佐に戻し、貞享2年(1685年)、鶴姫が紀州藩主世子・徳川綱教に輿入れする際に随行して紀州徳川家へ入った。 貞享4年(1687年)に江戸城へ戻り、綱吉付きの筆頭上臈御年寄として大奥の総取締を担った。その後は大典侍(寿光院)や新典侍(清心院)といった公家の姫を綱吉の側室として迎え入れることに奔走した。また、正親町大納言家の弁子も右衛門佐の紹介で大奥に入り、その斡旋により柳沢吉保の側室となり、町子と改名した。晩年は、東山天皇の後宮で勾当内侍として仕えていた平内侍を大奥に招聘し、豊原と改名させ、自分の後継者の上臈御年寄とした。 なお、近衛基煕と常子内親王の息子・家煕は上臈(事実上の側室)に町尻兼量の娘・量子を迎えている。右衛門佐と町尻量子が叔母と姪の間であることから、東山天皇即位後に急激に進んだ近衛基煕父子と徳川綱吉の関係改善の背景として右衛門佐の存在が指摘されている。 宝永3年(1706年)、57歳で死去。墓所は東京都新宿区の月桂寺にある。 出自については2つの説があり、1つは水無瀬氏信の娘、もう1つは水無瀬兼俊(氏信の父)の娘。
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