<藤原氏>北家 道兼流

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氏家公頼 氏家直元(卜全)

 公頼の出自については諸説あり定かではない。宇都宮朝綱の子とし、氏家氏を創始したとする説は『下野国誌』を主として、これまで通説とされてきた説である。朝綱の何番目の子であるかについても系図や資料によって異なるが、この説においては、宇都宮氏の勢力基盤拡大のため、朝綱の子である公頼が氏家郷に根を下ろし、氏家氏を創始したとする。
 また、公頼を小山政光の子、宇都宮公重の子とし、氏家氏を創始したとする説もあり、長州藩の家臣団の古文書・系図を収録した『萩藩閥閲録』(1725年成立)の草刈文書の中に記されたものである。小山政光の4男に公重がいて、宇都宮朝綱の養子となり、元久元年(1204年)に47歳で亡くなったとするが、この公重の次男・安芸守基秀が公頼を名乗り、氏家氏を創始したという。この説を裏付けるものが『尊卑分脈』の宇都宮系図で、この宇都宮系図に公頼の名は見えないが、朝綱の子として公重の名が見える。しかしながら、これ以外に裏付ける資料はない。小山氏の系図を見ると、政光の子に公重の名は見えない(ただし、4男に重光という子はいる)ため、この説もあまり有力とはされていない。

 はじめ美濃国守護の土岐頼芸の家臣として仕えたが、斎藤道三によって頼芸が追放されると、道三の家臣として仕えた。道三死後も斎藤義龍,斎藤龍興に仕えたが、龍興とは折り合いが悪かったとされており、稲葉良通や安藤守就と共に永禄10年(1567年)、織田信長の稲葉山城攻めにおいて内応し、以後は織田氏の家臣として仕えた。なお、この頃に卜全と号した。
 信長上洛の際にはこれに従った。また、永禄12年(1569年)の北畠具教が籠城する大河内城攻めや、元亀元年(1570年)の姉川の戦いなどにも参加して活躍した。
 元亀2年(1571年)の伊勢国長島攻めで柴田勝家に従軍し、織田軍が撤退する際に殿軍を務めたが、5月12日に美濃石津で本願寺勢力と共に織田軍に抵抗していた六角一族の佐々木祐成に討ち取られた。享年38とされるが、『美濃国諸旧記』には59歳で死去したと書かれている。岐阜県海津市南濃町安江に「卜全塚」という供養塔がある。
 家督は、長男の氏家直昌が継いだ。また、次男の氏家行広(荻野道喜)は大坂の陣で活躍した。

氏家直昌 氏家行広

 西美濃三人衆の一人・氏家直元(卜全)の長男として生まれる。はじめは美濃斎藤氏に仕えるが、織田信長に降る。元亀2年(1571年)の伊勢長島一向一揆攻めで父が戦死したため、家督を継いで信長に仕えて美濃大垣城主となった。信長に従って各地を転戦し、天正元年(1573年)の一乗谷城の戦いではかつての旧主・斎藤龍興を討ち取るという武功を挙げた。
 その後も石山合戦や荒木村重討伐などに参加して武功を挙げている。天正10年(1582年)に信長が本能寺の変で横死した後は羽柴秀吉(豊臣秀吉)と誼を通じたが、天正11年(1583年)に死去。跡を弟の氏家行広が継いだ。

 

 本能寺の変後、氏家家は織田信孝に属したが、信孝が羽柴秀吉(豊臣秀吉)と対立すると秀吉方へ味方し、以降は秀吉に仕える。
 この前後に兄が病死し、天正11年(1583年)に行広が家督を継ぎ、美濃国三塚1万5,000石に移封される。天正16年(1588年)、従五位下・内膳正に叙任。その後、小田原征伐などで軍功を挙げ、天正18年(1590年)、伊勢国桑名2万2,000石に加増移封された。
 豊臣秀吉死後、慶長5年(1600年)の会津征伐では徳川家康軍に合流するため東上中であったが、道中で石田三成挙兵の報を聞くと家康に断りを入れた上で伊勢に帰還、豊臣秀頼が幼少であることを理由に家康方・三成方いずれにも呼応せず中立の立場を取った。しかし桑名に西軍勢力が及んできたため中立の立場を維持できず、やむなく弟の行継とともに西軍に与し、伊勢路を防衛した。このため関ヶ原の戦い後、家康の命で改易されて浪人となる。
 慶長19年(1614年)からの大坂冬の陣では荻野道喜と変名を用い、大坂城に入城し豊臣氏に与して活躍した。家康は行広の器量を惜しんで仕官を呼びかけたが応じなかったという。翌年の大坂夏の陣のとき、大坂城落城と共に自刃して果てた。彼の4人の子のうち3男以外は京に逃れたが、京都所司代の配下に捕らえられ、同年7月、妙覚寺にて自刃に追いやられている。3男のみは天海の弟子となっており助命された。 

氏家行継 氏家吉継

 西美濃三人衆の一人・氏家直元(卜全)の3男として誕生。天正10年(1582年)3月、織田氏の甲州征伐のために信濃国へ出陣しているのが資料上の初見と思われる。諱は複数伝わるが、文書で確認できるのは「定元」。同年6月の本能寺の変以降は羽柴秀吉(豊臣秀吉)に属し、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いや天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いに参加。近江国,伊勢国などに1万5000石の所領を与えられた。天正20年(1592年)からの朝鮮出兵では肥前国名護屋城に在陣、文禄3年(1594年)には伏見城の普請にも分担であるが参加している。
 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍に与し、兄・行広や寺西直次と共に桑名城に籠城した。戦後、高野山に上り、徳川家康によって改易されたが、翌年に許されて、細川忠興の家臣となり6000石を与えられた。没年は複数伝わるが、少なくとも慶長9年(1604年)8月までは細川忠興の書状で生存が確認できる。
 家督は嫡男・元高が継ぎ、子孫は熊本藩に仕えた。 

 陸奥国岩出山城主。奥州氏家氏12代当主。父・氏家隆継の隠居で家督を継いだ。天正15年(1587年)末、同じ大崎氏の家臣である新井田隆景と対立して伊達政宗と内通した。これが端緒となって天正16年(1588年)に伊達政宗が大崎領に大軍を侵攻させたが、黒川晴氏の裏切りで敗北し、吉継も大崎氏と和睦して帰参することとなった(大崎合戦)。

 天正18年(1590年)の小田原征伐の際、大崎氏は豊臣秀吉の下に参陣しなかったために改易され、同時に吉継も没落して伊達政宗の家臣となる。翌天正19年(1591年)5月21日に死去したとされるが、小田原征伐中に吉継の死を知った政宗が小成田重長を岩出山城の城代として派遣したとする記録もあるため、実際には天正18年5月に死去した可能性が高い。

 江戸時代、吉継の代で断絶した氏家氏は再興された。吉継の娘は富田守実に嫁ぎ、守綱を生んだ。その守綱の娘が伊達忠宗の小姓として仕えた中里清勝に嫁ぎ、忠宗は清勝に氏家の名跡を継がせた(13代目)。清勝は氏家主水と改めて、万治3年(1660年)に1,850石の禄となり、その子・清継(14代目)以降、子孫は明治維新に至った。