永長2年(1097年)叙爵。左兵衛佐・近衛少/中将等の武官や、堀河・鳥羽両天皇の蔵人を経て、大治5年(1130年)蔵人頭に任ぜられる。天承元年(1131年)、参議に任ぜられ公卿に列す。天承2年(1132年)従三位、長承3年(1134年)権中納言、保延5年(1139年)正三位次いで従二位に叙任される。崇徳朝において、極官は権中納言かつ天皇の外戚でもないにもかかわらず、政治に強い影響力を持ち「わきの関白」の異名で呼ばれた。 康治2年(1143年)正二位、久安5年(1149年)権大納言。保元元年(1156年)には、重篤となっていた鳥羽法皇に対し、その死後予想される兵乱に備えるよう奏上した。実際に、同年7月の鳥羽法皇崩御後まもなく保元の乱が発生している。同年9月大納言に昇進したのちは、摂関家の近衛基実・松殿基房兄弟や閑院流の三条公教・徳大寺公能らに大臣の座を巡って次々と先を越されるが、応保元年(1161年)77歳にして内大臣に任ぜられる。長寛2年(1164年)、子息の宗家の正三位叙位と引き替えに内大臣を辞任する。仁安3年(1168年)6月12日出家。 有職故実に明るく、その教えを受けていた九条兼実は日記『玉葉』の中でに宗能の死を惜しんでいる。また、催馬楽の名手でもあり、声が非常に美しかったという。日記に『中内記』がある。物事の道理に明るく、はっきりした性格であったという。 『今鏡』に宗能が有職故実に詳しかったことを示す逸話がある。崇徳天皇が成人して、初めて五節の帳台の試みに出御する際、出御自体が非常にまれであったことから、その際に着る指貫の模様が何であるか、蔵人がはっきりわからず不安に思っていたところ、当時蔵人頭であった宗能は「霰地に窠の文」であると滞りなく答えたという。
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初名は信能、長寛2年(1164年)まで。永治元年(1141年)に従五位下に叙され、久安5年(1149年)に従五位上・侍従に任官。久安7年(1151年)に正五位下に進む。久寿2年(1155年)に右近衛少将に任ぜられ、翌年に従四位下・左近衛少将に任じられ、続いて従四位上に進む。保元3年(1158年)に正四位下・左近衛中将、翌年には蔵人頭を兼ねて頭中将となり、更に中宮権亮を兼ねる。永暦元年(1160年)に参議に任ぜられ、応保2年(1162年)に従三位に進み、長寛2年(1164年)に正三位となる。 永万2年(1166年)に六条天皇が即位すると、権中納言に任ぜられ、仁安3年(1168年)に中納言に転じる。承安2年(1172年)に従二位、安元2年(1176年)に正二位に進み、治承3年(1179年)に権大納言に任ぜられる。 文治5年(1189年)、内府(九条良通)の法事に参会、祈年穀奉幣の上卿を務めるなど活動をしていたが、閏4月に腹病のために薨去。享年51。出家したともいわれる。 父より神楽・和琴の秘伝を継ぎ、松木家(中御門家)を楽道の家として発展させる基礎を築いた。
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