<藤原氏>北家 御堂流

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持明院基家 持明院保家

 父の通基より持仏堂の持明院(祖父の基頼が創建)を継承する。久安元年(1145年)11月、叙爵(従五位下)。能登守,美作守,左近衛中将などを歴任した後、承安2年(1172年)正月、従三位に叙された。更に治承三年の政変の後に右京大夫に任じられ、寿永元年(1182年)10月、参議に任ぜられる。平頼盛の娘を妻とし、守貞親王の乳母人となってその養育にあたっていたが、寿永2年(1183年)に守貞親王が平家一門に伴われて都落ちした際には供奉せず都に留まる。寿永3年(1184年)、木曾義仲によるクーデターにより解官、義仲上京による政治的混乱を避けるため、舅の頼盛や甥の一条能保の後を追って関東に亡命した。
 義仲,平家が滅亡した後には再度都に戻り、妻とともに西海から戻った守貞親王に再び仕える。持明院を守貞親王の居所として提供し、また娘の陳子をその妃とした。文治6年(1190年)には正二位まで昇り、建仁元年(1201年)に出家して引退(法名は真智)。建保2年(1214年)2月26日、83歳で死去した。
 承久3年(1221年)、承久の乱の後に仲恭天皇が廃立されると、陳子が生んだ茂仁王が後堀河天皇として践祚した。基家の子孫は羽林家の持明院家として発展した。

 嘉応3年(1171年)従五位下に叙爵。承安4年(1174年)従五位上・加賀守に叙任され、安元元年12月(1176年2月)侍従に任ぜられる。治承5年(1181年)正五位下・紀伊守に叙任。元暦2年(1185年)には淡路守に任官し、文治5年(1189年)右近衛少将に遷る。文治6年(1190年)従四位下に叙せられると、建久6年(1195年)従四位上、建久9年(1198年)正四位下・右近衛権中将と順調に昇進し、建仁2年(1202年)従三位に叙せられて公卿に列した。この間の建久10年(1199年)三左衛門事件により出仕を停められている。元久元年(1204年)正三位に進み、元久3年(1206年)に参議に任ぜられた。
 建永2年(1207年)に讃岐権守・左衛門督を兼帯。承元2年(1208年)に検非違使別当に補され、権中納言に任ぜられるが、承元3年(1209年)辞退して従二位に至る。同年按察使に任ぜられるが、翌1210年に出家、同年3月に腫物により薨去した。享年44。

持明院保冬 持明院陳子
 応安7年(1374年)、従三位・右衛門督となり公卿に列せられる。直後参議となるも、翌年には辞し、出雲権守・左兵衛督を経て永徳2年(1382年)に参議に還任、至徳2年(1385年)まで在職したが、この間永徳3年(1383年)に正三位に昇り、また丹波権守を兼ねている。嘉慶元年(1387年)には権中納言となるも、康応元年(1389年)には辞職した。明徳の和約による南北朝合一直前の明徳3年10月16日(1392年11月1日)に薨去。享年64。持明院家は元々家行系が嫡流だったが、保家系では最後の公卿となった。

 後高倉院の妃で、後堀河天皇の生母。父は正二位権中納言持明院基家、母は平頼盛の女(宰相局、後高倉院乳母)。同母兄に持明院保家がいる。准三宮。女院号は北白河院。
 貞応元年(1222年)4月13日、従三位・准三宮となり、同年7月11日、院号宣下をうけた。同年出家し、如律と号する。嘉禎4年(1238年)10月3日、66歳で薨去した。