<藤原氏>北家 御堂流 ― 中御門流

F768:持明院基宗  藤原道長 ― 藤原頼宗 ― 藤原俊家 ― 持明院基家 ― 持明院基宗 ― 大沢基秀 F770:大沢基秀

リンク F974
大沢基胤 大沢基宿

 浜名湖の東岸に位置する堀江城を有し、今川氏に従っていた。
 永禄11年(1568年)、徳川家康による遠江侵攻を受けるが、堀江城への攻撃は後回しにされていたようである。だが、曳馬城を攻め落とし、引き続き掛川城を攻めたてる家康は軍の一部を割いて、永禄12年3月12日(1569年4月8日)、基胤の属将が守る堀川城を一日で攻め落とした。
 同25日(4月21日)には井伊谷衆(近藤石見守康用と登之助秀用親子,鈴木三郎大夫重時とその婿・菅沼次郎右衛門忠久)に命じて引き続き、基胤の堀江城を攻撃させた。渡辺図書高綱,菅沼定盈を正・副の目付けとした堀江城攻撃軍に対し、基胤は中安兵部,権太織部泰長らを率いて、数度に渡り徳川勢に逆襲をかけるなど頑強な抵抗を示し続けた。そのため、攻城軍は鈴木重時を始めとする多大な犠牲を払いながら、陥落させられずにいた。
 今川氏真が籠る掛川城への攻撃に専念したい家康は、いっこうに朗報の入らない堀江城の戦況に業を煮やすと、渡辺成忠を使者として遣わし、徳川方への帰順を条件として大沢氏の本領安堵を約束する誓書を与えた。基胤もその勧告を受け入れた。
 永禄12年4月12日(1569年5月8日)、堀江城の北に在った堀川城に於いて徳川方の石川数正,酒井忠次、大沢方の中安兵部,権田織部泰長の4名によって和議が成立。以後は、徳川配下として、小牧・長久手の戦いなどに従軍した。設楽原合戦には酒井忠次に従って参戦した。

 永禄12年(1569年)、父・基胤が徳川家康による遠江侵攻の一端で居城堀江城を攻められた。頑強な抵抗を示し続けた末に、勧告を受け入れて服属。幼かった基宿は、徳川配下の子として成長し、のちに小牧・長久手の戦いなどに従軍する。
 天正16年(1588年)3月、従五位下侍従・兵部大輔に叙任される。関ヶ原の戦い後、遠江国敷知郡堀江村など6ヵ村で1550石を賜る。慶長6年(1601年)、従四位下に昇進する。慶長8年(1603年)2月12日、徳川家康の将軍宣下に際し、その式典のことを公家二条康道と相談する。事実上、高家として働いたものと考えられており、職務としての「高家」の始まりといえる。その後も朝鮮や琉球からの使者の謁見に際し、披露の役割を担当する。なお、江戸幕府が「高家」という職名を使用し始めるのは、元和・寛永期頃のようである。一説には、慶長13年(1608年)12月24日、吉良義弥と大沢基宿は高家職に就任したという。なお、高家的な役割を担うようになった要因としては、基宿の生母の家柄に理由がある(木寺宮とは、後二条天皇の子・邦良親王を始祖とする皇族である)。
 慶長14年(1609年)9月23日、右近衛少将に昇進する。その後、正四位下・左中将にまで昇進する。寛永9年(1632年)9月12日、隠居し、長男・基重に家督を譲る。隠居後は真松斎と号する。寛永19年(1642年)1月25日、堀江において死去、享年76。


大沢基重 大沢基将

 慶長15年(1610年)従五位下侍従・右京亮に叙任する。同年、部屋住ながら、将軍徳川秀忠に召し出されて、近侍することになる。また、遠江敷知郡内で1000石を賜る。慶長19年(1614年)大坂冬の陣に際し、水野忠清の部隊に所属し参加する。元和元年(1615年)大坂夏の陣に参加し、首一級を得る戦功を挙げる。
 寛永9年(1632年)9月12日、父・基宿の隠居により、家督を相続する。寛永17年(1640年)、父の死去により、父の遺領と合わせて2550石余を領有する。寛永18年(1641年)3月,同年7月,正保2年(1645年)5月と三度にわたって朝廷に対する幕府の使者として上洛する。実質的な高家職の役割を果たす。正保2年(1645年)6月10日、従四位下に昇進する。慶安2年(1649年)7月にも朝廷に対する幕府の使者として上洛する。慶安3年(1650年)5月26日死去、49歳。

 寛永10年(1633年)2月19日、将軍・徳川家光に拝謁する。正保元年(1644年)、従四位下・兵部大輔に叙任され、奥高家に抜擢され、正保3年(1646年)12月1日、侍従に昇進する。
 慶安3年(1650年)、養父が没したため家督を継ぐ。その後は、度々京への遣いの任を果たした。明暦元年(1655年)10月9日、朝鮮通信使の日光参拝の準備に日光に出向いた。寛文2年(1662年)、京都を襲った大地震が起こり、朝廷への気嫌伺いの遣いとして上洛した。寛文3年(1663年)3月25日、霊元天皇即位慶祝の為、松平直政と京都に上洛し、6月3日に従四位上左少将に昇進した。
延宝6年(1678年)相模国箱根塔ノ沢温泉で病の療養をした同所で没した。子がなく伊勢国津藩主藤堂高次の4男の基恒を養子にした。墓所は宿盧寺。 

大沢基恒 大沢基隆

 寛文7年(1667年)10月23日、将軍・徳川家綱に御目見し、寛文11年(1671年)12月23日より奥高家に列した。翌年(1672年)12月28日、従四位下侍従・右京大夫に叙任された。延宝6年(1678年)7月20日、養父・基恒が死去したため、その跡を継いで12月6日大沢家の遠江敷知郡2550石の所領を相続した。21日には父の遺品二字国俊の刀を献上している。延宝7年(1679年)3月7日に霊元天皇痘瘡御回復の幕府の慶賀使としてはじめて京都に派遣、天皇に謁見した。また延宝8年(1680年)7月9日に徳川綱吉の将軍就任に備えた官位転任の交渉のため上洛して参内している。この時に大沢自身にも従四位上が下賜された。天和2年(1682年)12月、五宮(のちの東山天皇)への親王宣下の際にも幕府の使者として京都へ派遣された。 高家として幕府に仕え、天和3年(1683年)3月7日には、吉良義央,畠山義里とともに最初の高家肝入に就任した。貞享4年(1687年)4月7日、大沢は東山天皇即位に際し幕府の慶賀奏上使者の副使として、正使松平正容とともに京都へ派遣された。この際の5月25日、左近衛権少将となっている。
 元禄7年(1694年)4月、将軍・綱吉とその生母・桂昌院が本庄因幡守宗資邸へ「将軍お成り」した際、大沢も本庄邸へ随行している。元禄10年(1697年)閏2月29日死去。享年42。 

 元禄10年(1697年)7月11日、養父の没後家督を継ぐ。8月28日に将軍徳川綱吉に拝謁する。元禄15年12月18日、従五位下侍従に叙任、右衛門督を兼ね、奥高家となる。宝永2年(1705年)3月23日、遠江国豊田,山名,敷智三郡内高塚村など7村、1000石を加増された。宝永5年11月23日、江戸城西の丸の御側高家となり、宝永6年4月15日従四位下に昇進した。正徳2年(1712年)10月7日、織田信門とともに諸事を勤める。だが正徳3年6月、不行跡とのことで、免職の上出仕を留められ、雉子橋にあった邸も没収、寄合に落とされたが、同年10月3日許され元の地位に復した。享保15年(1730年)、42歳で没した。