| F782:那須資隆 | 藤原道長 ― 藤原長家 ― 那須資隆 ― 千本為隆 | F784:千本為隆 | ● |

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| 千本為隆 | 千本資俊 |
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那須七騎千本氏の祖。治承・寿永の乱では9人の兄達は皆、平氏方に付いたが、弟の与一と共に源頼朝の源氏方に加わった。しかし、後に頼朝の弟の義経の命に背き罪を得たため、一時期、信濃に逃れ戸福寺氏を称していたが、罪を許されると、下野国千本の地を賜り、千本氏を称するようになった。建久年間(1190~99年)に千本城を築城した。 |
那須七騎千本氏の当主であり、本家である那須氏を主家として仰ぐ立場であったが、天文20年(1551年)、宇都宮氏の家臣・芳賀高定の謀略にかかり、主君・那須高資を千本城に誘殺した。そのため一時、那須氏を追われたが、高資の死によって当主の座についた那須資胤に許され帰参、腹心として権勢を振るった。大関高増らが下那須衆を扇動して佐竹義重に寝返った時は呼応せず、資胤の元に残った。 |
| 千本資政 | 千本義定 |
| 永禄4年(1561年)、那須七騎の1人・千本資俊の子として生まれる。そのため、資俊の養子となっていた茂木三郎の次男・千本義政は廃嫡された。やがて、父と共に那須氏に仕え、政略により同じく那須七騎の1人である大関高増の娘を正室に迎えている。しかし、父と大関高増による那須氏の主導権をめぐっての争いは続き、さらに正室と資政の母の嫁姑争いで正室である高増の娘と離縁されたことに高増が激怒し、これに巻き込まれる形で天正13年(1585年)に父と共に太平寺で大関高増や大田原綱清によって殺害されたのである。享年25。これにより、千本氏は廃嫡されていた千本義政が再び跡継ぎに浮上し千本義隆と称し名跡を継いだが、千本氏の旧領は高増らが分配した。 |
天正18年(1590年)、小田原征伐には豊臣方に属し、父とともに参戦し下野国芳賀郡内2,070石を賜る。また、文禄の役でも父とともに名護屋城に在陣したが渡海はしなかった。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、母らを江戸に人質に差し出し、東軍に属して下野に着陣した徳川家康の元に参じ郷義弘の刀を与えられた。その後も上杉景勝の備えとして、大関資増,岡部長盛,服部保英と黒羽城を守り所領を安堵され、同年に300石を加増された。 |
| 千本義昌 | 千本資勝 |
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慶長6年(1601年)3月2日、京の伏見において徳川家康に拝謁。翌慶長7年(1602年)には徳川家より父とは別に采地として500石を与えられた。しかしながら体が弱く、病がちであったことから旗本としての勤仕を果たせず、このことを本多正信へと言上し旗本の職より離れると江戸に移る。ただ、解任されたわけではなく時折は登城し徳川秀忠の気色伺いをしていたという。 |
天正18年(1590年)、小田原征伐に際して関東に着陣した豊臣秀吉の元に父や養父と共に参じ、大谷津千本氏は530石の所領を安堵された。 |
| 千本長勝 | |
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元和7年(1621年)12月に徳川秀忠に初めて拝謁。寛永7年(1630年)に父・資勝が死亡したため家督を相続し、寛永17年(1640年)には4月に徳川家光が日光社参を行うということで、それに先立って同年1月26日に日光東照宮の社殿の修理を福原資盛と共に行った。 |