<藤原氏>北家 御堂流 ― 御子左流

F782:那須資隆  藤原道長 ― 藤原長家 ― 那須資隆 ― 那須資氏 F785:那須資氏

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那須資之 那須氏資

 那須資氏の子として誕生。応永21年(1414年)頃より弟・資重と対立し、那須家の分裂を招いた。
 応永23年(1416年)に上杉禅秀の乱が勃発すると、義父である禅秀方に与し、鎌倉公方・足利持氏の討伐を受けた。このような事情もあり、資重が持氏を頼って資之に抵抗を続けたため、資之は那須家の統一を果たすことはできず、資之の上那須家(居城・福原城)と資重の下那須家(居城・沢村城、後に烏山城)が以後暫く併存することになった。 

 正長元年(1428年)8月8日、父・資之が没すると家督を継ぐ。4代鎌倉公方・足利持氏と対立したため、同年8月18日には、結城氏朝と共に黒羽城に拠る。また、氏朝や足利満貞の要請を容認した室町幕府から、越後国・信濃国・駿河国守護の助力を受けた。永享7年(1435年)6月13日には、持氏の命を受けた一色直兼に佐竹義人と共に軍勢を差し向けられている。
 享徳3年(1455年)からの享徳の乱では、父の代で分裂した下那須氏の那須資持が古河公方・足利成氏方に与し結城氏と協力して成氏の古河城入城を支援すると、氏資は堀越公方・足利政知方に与し、下野宇都宮氏14代当主・宇都宮等綱に娘を娶わせるなどして対抗した。下那須氏・那須資持との抗争に明け暮れたが、分裂した那須家の統一は果たせなかった。 

那須資永 那須資重

 上那須の資氏(資親)には男子がなかったため、白河結城義永の2男・資永を婿養子に迎えた。ところが、のちに実子・資久が生まれたため資永を廃して、資久に家を継がせたいと思うようになった。『那須記』によれば、資親は実子・資久に家督を継がせたいということを、大田原父子に遺言したという。それにより、大田原備前守は資永を討つことにし、この策謀に大関・芦野・井王野氏らが同調したとある。
 大田原氏らの策謀を察した資永も対策を講じ、実家の白河結城氏に援軍を頼んだが間に合わず、ついに永正11年(1514年)、資久を擁する大田原勢が資永の拠る福原城に攻め寄せた。両軍激しい攻防を繰り返したが、資永軍の必死の防戦によって勝敗は一日で決しなかった。その夜一計を案じた資永方は、資久を奪い取る奇策に出て、山田城から資久を奪取することに成功した。そして、福原城において資久を切ると、大田原勢に対して勝目はないと悟った資永は自刃し、翌日、大田原氏らの攻撃によって福原城は落城した。
 大田原勢は資永を討ち取ったものの幼主・資久をも失う結果となり、上那須氏は滅亡ということになった。その結果、下那須家の資房が後を継いで両家を統一、上下那須氏は百年ぶりに統一されることとなった。 

 下那須家当主。下野国沢村城、のち烏山城主。那須氏11代当主・那須資氏の子として誕生。当初は沢村氏を継承したが、応永年間(1394~1427年)に兄で那須氏12代当主・資之に疎まれ、攻撃を受け沢村城を退去、稲積城に移った。応永23年(1416年)、上杉禅秀の乱が勃発すると、資重は鎌倉公方・足利持氏方に与する。兄・資之は室が上杉禅秀の娘であった関係で禅秀方に与したが、持氏の勝利後はその後ろ盾を得て結果的に那須氏の分裂を恒常的なものにした。応永25年(1418年)、烏山城を築き居城とした。
 地元では、資之が資重の器量の方が優れていたことに嫉妬したためこれを排斥した、また沢村城を脱出した資重が烏の導きにより烏山の地に城を築いたという伝承がある。 

那須資房 那須政資

 那須氏17代(公称上では20代)当主。寛正4年(1463年)、宇都宮義員らと岩城常隆と交戦し敗北するが、縄釣原の戦いでは勝利を収めた。明応3年(1494年)、父・資実が没すると下那須家の当主となる。永正6年(1509年)6月3日、塩谷城主・塩谷孝綱の家臣である大貫増長,油井利宗,印西成展らの謀反を誘発させようとするが失敗した。
 永正11年(1514年)、那須氏15代(上那須家)当主・那須資親の死後、資親の実子・山田資久と養子・那須資永の間で家督争いが生じる。資房は資久を支持するが、内紛の最中に資久が資永に殺害されて上那須氏が断絶、資房は大田原資清らと共に資永を攻め自刃に追い込み、子・政資を上那須家の当主に据え、那須氏を事実上統一して実権を握った。この資房の行動に対して資永の実兄・結城顕頼を中心に岩城氏,下野宇都宮氏など近隣の諸勢力が那須氏に攻め寄せることとなる。永正17年(1520年)、岩城由隆が白河結城氏と共に資房の子・政資を攻めるが、資房は宇都宮忠綱から援軍を得て政資を支援し、縄釣原で岩城軍を破っている。翌大永元年(1521年)、岩城由隆が宇都宮忠綱や小田政治を誘い、資房の上川井城を攻めるが、資房が烏山城に退くと撤兵した。資房はこの局面を打開するため、常陸国の佐竹氏の仲介で岩城常隆の娘を子・政資に娶わせ和睦を結んだ。その後、家督を政資に譲り隠居したが、子・政資や孫・高資よりも長生きした。もう一人の孫・資胤が当主になった後の天文21年(1552年)、死去。 

 那須氏17代当主・那須資房の子として誕生した。元服に際して、2代古河公方・足利政氏より偏諱を受け政資と名乗る。
 下那須家の出身であるが、永正11年(1514年)に上那須家が内紛により断絶すると、祖母が那須明資の娘だった縁もあり上那須家の当主として大関氏や大俵氏といった家臣達に擁立される。下那須家の父・資房の隠居後は統一された那須家の当主を務めた。断絶した上那須家・那須資永の実兄・結城顕頼やそれを支援する岩城常隆、さらに資永の養父・那須資親の縁者で上那須家の継承権を主張する下野宇都宮氏など近隣の勢力と対立し、しばしば戦いを繰り広げた。
 鎌倉以来の名家・那須氏の戦国大名化を目指したものの、永正6年(1509年)からの永正の乱による古河公方家の内紛(政氏・高基父子の争い)は那須氏にも影響を及ぼし、高基の偏諱を受けた嫡男・高資を擁立した大関宗増らの勢力と対立し、烏山城を上杉氏と結んだ高資に奪われ家督を強奪されたが、上那須地方に拠って抵抗し、結果として那須家の再分裂を招いてしまった。
 永正17年(1520年)、岩城由隆や白河結城氏に攻められるが、父・資房が宇都宮忠綱から援軍を得て政資を支援し、縄釣原で岩城軍を破っている。翌大永元年(1521年)、岩城由隆が宇都宮忠綱や小田政治を誘い、資房の上川井城を攻めるが、資房が烏山城に退くと撤兵した。同時に政資は父の意向に沿い、常陸国の佐竹氏の仲介で和睦の印として岩城常隆の娘を正室に迎えている。
 天文8年(1539年)9月21日には宇都宮尚綱や佐竹義篤,小田政治の援軍を受け、子・高資の拠る烏山城を攻撃した。
 晩年ははっきりしないが、天文13年(1544年)頃には高資との和睦が成立して隠居し、天文15年7月23日(1546年8月19日)に没したとする説が有力である。また、天文18年(1549年)に宇都宮尚綱と組んで高資を攻撃したものの、天文18年(1549年)の喜連川五月女坂の戦いで大敗を喫して自害に追い込まれたとする説もある。

那須高資 那須資胤

 3代古河公方・足利高基より偏諱を受けて高資と名乗る。永正6年(1509年)からの古河公方家の内紛・永正の乱の影響は下野の諸氏にも及び、那須氏においても高資を擁立する大関宗増らが当主・政資と敵対、宇都宮尚綱や常陸国の佐竹義篤・小田政治と結んだ父に対抗するため、母の実家である陸奥国南部の岩城氏や結城晴綱、下総国の結城政勝・下野小山高朝兄弟と手を結んだ。
 天文8年(1539年)9月21日、烏山城をめぐり宇都宮尚綱や佐竹義篤,小田政治の援軍を受けた父・政資の攻撃を受けた。天文11年(1542年)には大関宗増が大田原資清の攻撃を受けている。天文13年(1544年)頃には父より正式に家督を譲られたと見られ、独立心の強い那須家中の統制の強化を図るも失敗に終わっている。
 後に足利高基の子で4代古河公方・足利晴氏の命により侵攻してきた下野宇都宮氏と抗争し、天文18年(1549年)の喜連川五月女坂の戦いで小勢でありながら伊王野資宗らの奮戦により、大軍を率いて侵攻した宇都宮尚綱を討ち取るという大勝を収め、当主を失った宇都宮氏の混乱に乗じ版図を塩谷郡の一部まで拡張することに成功した。
 天文20年(1551年)、宇都宮氏に復讐の的とされた高資は宇都宮氏の家臣・芳賀高定の謀略にかかり、最終的には家臣の千本資俊に誘殺された(『関東古戦録』といった軍記物では、鴆毒を盛られたとする)。なお、これ以前より高資と重臣・大田原資清の娘を母とする異母弟・資胤とは家中で対立しており、高資は資胤を圧迫して追放する一方で佐竹義昭の子との養子縁組を進めていた。高資の死後家督を継いだ資胤は下手人である千本資俊を却って側近として重用するなど、高資の横死は資胤を支持する大田原資清を筆頭とする上那須衆(大関氏・千本氏)らの意向にも沿うものであった。

 森田氏を継いだが、異母兄で19代当主の高資と対立し、一時逐電する。しかし、天文20年(1551年)、高資が芳賀高定の調略により千本資俊に殺害されると、帰参して家督を継いだ。
 当初は常陸国の佐竹氏と組み、結城氏や蘆名氏と戦っていたが、弘治元年(1555年)に北条氏康,足利義氏と手を結んだ。永禄3年(1560年)、佐竹義昭が結城晴綱と争うと蘆名盛氏が晴綱を、資胤は義昭を支援した。3月26日の小田倉の戦いで、資胤は自身が負傷する程の苦戦を強いられ、その際に家臣の大関高増・大田原綱清兄弟を叱責し責任を追及したのを機に、大関氏・大田原氏らとの対立が表面化。資胤は同年5月15日、大関高増の家臣・松本通勝に働きかけ高増の暗殺を謀るも、高増が佐竹義昭と通じ自分を討とうとするのを知ると、興野義重に備えさせた。高増は資胤を排斥するため、佐竹義重の弟・義尚(那須資綱)の擁立を画策する。以後、佐竹義重の援軍を得た高増と永禄6年(1563年)から永禄10年(1567年)まで戦いを繰り返し、烏山城下まで侵攻されたこともあったが、いずれも撃退した。永祿9年(1566年)8月24日には、大関高増を支援した佐竹義重の家臣・佐竹義堅と下野神長で戦い大勝している。永禄11年(1568年)、高増・綱清兄弟は、資胤の隠居を条件に和睦した。
 元亀元年(1570年)、佐竹義重が下野大山田城を攻め落とすが、元亀3年(1572年)には佐竹氏とも和睦した。この際に資胤の娘と当時3歳の佐竹義宣の婚約を成立させ、武茂地方と茂木地方を佐竹氏に割譲し、那須領に佐竹氏の所領を許す形となった。
 天正2年(1574年)には、白河義親の陸奥赤館城を巡って義親と佐竹義重が争った際、蘆名盛氏らと共に義親に助勢する。天正6年(1578年)には、佐竹氏を中心に宇都宮氏・結城氏・江戸氏・大掾氏と常陸小川台で盟約を結び、後北条氏に対抗した。死去の年については天正14年(1586年)説もある。 

那須資晴 那須資景

 天正6年(1578年)、小川台の戦いで父と共に出陣した。天正11年(1583年)、父の資胤が死去した直後、常陸国の佐竹義重が宇都宮国綱と共に那須領に攻め寄せたが、これを撃退した。資晴の代から那須氏は親北条の姿勢を強め、反北条連合の佐竹・宇都宮と対立を深めることになる。
 天正13年(1585年)には塩谷義綱攻撃のため薄葉原に進出して、宇都宮氏・塩谷氏の軍を破っている。同年暮れには大関高増による千本資俊暗殺計画を了承して、千本氏の勢力を解体した。その後、資晴は佐竹氏や結城氏・宇都宮氏らと敵対しながら、後北条氏や伊達政宗などと手を結び、那須氏は寡兵ながらも奮戦した。豊臣秀吉の勢力が東に伸びてくると、これに敵対姿勢を見せた。その結果、天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐に参陣しなかったため改易となったが、那須家重臣の大田原晴清の陳謝により、資晴の子の資景に5千石の所領が与えられ、家名存続は許された。改易が覆った理由として、一説には奥州における一揆勢力と那須氏再興の動きが連携することを、豊臣政権が危惧したからだとも言われている。
 その後、秀吉より罪を許され、資晴自身にも5千石が与えられた。文禄の役においては名護屋城を守備しており、朝鮮に渡海はしていない。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは子の資景が東軍に属したことにより、加増を受けた。慶長7年(1602年)には資晴も徳川家康の御伽衆に抜粋され、1千石を加増されて所領は6千石となった。慶長15年(1610年)、死去。

 天正18年(1590年)、父の資晴は小田原北条氏や伊達政宗などと手を結んでおり、豊臣秀吉には反抗的で小田原征伐の参陣要請に応じなかったため、一度は改易された。しかし、那須氏重臣の大田原晴清が秀吉に陳謝誓願したことにより、当時5歳であった藤王丸(資景)に5000石の所領が与えられ、那須氏は存続を許された。資晴も後に赦され、資景とは別に5000石を与えられた。
 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍に属し、伊王野資信らと共に会津の上杉景勝に備えた。政権を奪った徳川家康により、資景は同年に300石を加増された。慶長7年(1602年)にも1000石を加増され、さらに一族の高瀬弥六に200石,大田原周防守に200石,那須八郎に880石,大田原弥次郎に440石が加増され、那須家の所領は計8080石となった。慶長11年(1606年)12月25日、従五位下左京大夫に叙任された。
 慶長15年(1610年)に父の資晴が没すると、遺領の6000石を継ぎ、合計で1万4080石の大名として那須藩を立藩した。慶長19年(1614年)・翌元和元年(1615年)の大坂の陣では本多正信隊に属し、落人の首75級を挙げた。
 寛永元年(1624年)に資景は隠居し、家督を長男の資重に譲った。しかし、寛永19年(1642年)、資重は嫡子がいないまま父に先立って死去したため、那須藩は無嗣改易となった。ただし、資景はいまだ存命していたため5000石を与えられ、旗本として那須家の存続は認められた。
 承応元年(1652年)2月18日、青木利長の次男を養子に迎え、資弥を名乗らせた。資弥と那須家の間には、血縁や所縁はない。資弥の姉のお楽の方(宝樹院)は、江戸幕府3代将軍・徳川家光の側室であり、4代将軍・家綱の生母であった。将軍の縁者である資弥はこのため、養子縁組以前に既に将軍近習の小姓として取り立てられており、俸禄として蔵米2000俵を支給されていた。この将軍家の縁者を、資景は那須氏の養子とした。資弥が那須氏の家督を相続し旗本となった後も、この蔵米2000俵の支給は続いた。明暦2年(1656年)1月25日、死去。享年71。

那須資弥 那須資徳

 寛永5年(1628年)、青木利長の次男として誕生した。父・青木三太郎利長は、農民として生まれたが、江戸に出て旗本の朝倉家に仕官する。しかし、主君の金の使い込みが発覚し、江戸を追われ鹿麻村で蟄居となり、のち禁猟とされていた鶴を撃ったため死罪となった。母・紫は、古河藩主・永井尚政の屋敷に仕え女中頭となり、元永井家家臣で古着商の七沢清宗と再婚した。姉のお蘭(のちの宝樹院)は、母に従い同居していたが、13歳の時、店の手伝いをしていたところを浅草参りからの帰路にあった春日局の目にとまり、大奥に上がった。姉・お蘭(お楽の方に改名)は、徳川家綱の生母となる。
 その縁で正保4年(1647年)11月5日、小姓として召し出され幕臣となり、蔵米2000俵を与えられた。12月5日に家光に御目見し、12月27日に右衛門尉に叙された。慶安4年(1651年)8月16日には、従五位下・右衛門佐に叙任された。
 承応元年(1652年)2月18日、旗本・那須資景の養子となった。那須藩の那須家は資景の実子の代に無嗣改易となっていたが、隠居の資景に5千石が与えられて大身旗本として御家再興していた。明暦2年(1656年)に資景が没すると遺領5千石を相続し、諱を資弥,官途名を遠江守に改めた。旗本となった後も、小姓時代の蔵米2千俵は引き続き支給された。寛文4年(1664年)12月8日、下野那須郡内で5千石を加増されると同時に、蔵米2千俵の俸禄は新規の采地2千石に改められ、所領は合計1万2千石となった。那須氏は大名となる石高に達したため、那須藩を再び立藩し、福原に陣屋を構えた。天和元年(1681年)2月25日、下野那須郡内で8千石を加えられ、烏山藩2万石となり、烏山城を居城とした。
 長男の増山正弥は寛文2年(1662年)9月に死去した兄の三河国西尾藩主増山正利の養嗣子として増山家を継いでいたため、資弥には後継者がいなかった。天和3年(1683年)閏5月1日、津軽信政の3男の資徳を養子に迎えた。しかし、この養子縁組に際し資弥は、次男の福原資寛の存在を幕府に隠していた。貞享4年(1687年)6月25日、死去、享年60。
 貞享4年(1687年)8月25日、養子の資徳が那須家の家督を相続したが、実子で次男の資寛とその生母が、資徳の家督相続を不当であると幕府に訴えたことより、藩領内に隠されていた次男の存在が幕府が発覚した。これは先の養子縁組の際の、幕府に対して虚偽の申請を行ったということであり、同年10月14日に幕府は那須家を改易処分とした。資徳は生家の津軽家に預けられ、津軽信政は叱責処分を受けた(烏山騒動)。十数年後の元禄13年(1700年)5月20日、幕府に対する津軽家の長きにわたる嘆願により、資徳は旗本1千石として再度取り立てられて、那須氏の家名は復活した。さらに後の宝永5年(1708年)4月5日、那須家は交代寄合となった。預けといえどそもそも実家であり、資徳は軟禁されていたわけではなく、元禄7年(1694年)に津軽家江戸屋敷に預けられていた資徳を津軽信政が参勤交代の際に同行させ、津軽藩領内の温泉などに連れ出した、という記録が残る。 

 陸奥国弘前藩4代藩主・津軽信政の3男として誕生した。天和3年(1683年)閏5月1日、母方の大叔父・那須資弥の養子となった。同年7月11日、江戸幕府5代将軍・徳川綱吉に御目見する。貞享4年(1687年)8月25日、資弥の死去により家督を相続したが、同年10月14日、烏山騒動により改易となり、実父・津軽信政の許に預けられた。元禄7年(1694年)閏5月から翌年3月にかけて、信政に従って弘前城に赴き、寺社参詣・湯治などをした。
 元禄13年(1700年)5月20日、信政の運動により旗本に取り立てられて、小普請に所属する。後に寄合に所属した。元禄14年(1701年)12月25日、下野那須郡内1000石を与えられた。宝永2年(1705年)6月3日、津軽家より合力米3000石を得た。宝永5年(1708年)4月5日、交代寄合となった。同年6月25日、死去、享年37。
 その後も交代寄合那須衆の那須家と津軽藩は関係を保ち続け、明治維新を迎えたのち、那須家は津軽氏を頼って青森県に移住している。