<藤原氏>北家 利仁流

F859:赤塚宗長  藤原魚名 ― 藤原利仁 ― 斎藤伊傳 ― 河合助宗 ― 赤塚宗景 ― 赤塚宗長 ― 斎藤経永 F862:斎藤経永

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斎藤経永 斎藤利明

 美濃の斎藤氏は、越前斎藤氏の庶流・河合系斎藤の赤塚氏が美濃目代として越前から移り住んだのに始まるといわれる。
 祐具は入道名である。越前守と称す。美濃国守護・土岐氏の重臣であり、土岐持益に仕えたが、持益も守護代である富島氏(又五郎か)も若年であったため、土岐家中で祐具の発言力が大いに高まったという。
 また、娘を揖斐郡の豪族・鷹司家に嫁がせるなど、美濃国内での斎藤氏の地盤固めに努めている。祐具が目指したであろう守護代職は息子の斎藤宗円(利明)による下剋上で実現することとなる。

 宗円は入道名。文安元年(1444年)閏6月19日、京都の土岐屋形において土岐氏の守護代である富島氏を殺害する。この時、逃亡に成功した富島八郎左衛門は、土岐氏被官3名を捕らえて殺害、守護代邸に放火した後、管領・畠山持国に事の次第を訴えたが、相手にしてもらえなかったため、一族郎党挙げて美濃に下国、7月10日、垂井で土岐軍と戦い勝利する。更に8月6日,10日の両日、斎藤氏の館に攻め寄せたが、守護・土岐持益及び宗円が着陣すると戦闘は小康状態となった。この後、富島氏に替わり美濃守護代となる。
 文安3年(1446年)7月5日、宗円は守護方の軍勢を率いて垂井付近の富島氏の陣を攻め、討死する者数百人という激戦を展開した。宝徳元年(1449年)9月10日にも再び富島氏との合戦が起きるが勝敗はつかなかった。
 宝徳2年(1450年)9月1日、京都の山名氏邸から守護代邸に帰る途中、近衛油小路で富島氏の手の者により暗殺された。享年62。下剋上を行った者として京都市民の間では評判が悪く、その死を悼む者は少なかったという。

斎藤利永 斎藤利藤

 文安元年(1444年)閏6月19日、父が守護代富島氏を殺害したことに始まる美濃の合戦に参加、翌文安2年(1445年)8月、美濃における斎藤氏の拠点として加納城を築城したという。守護代就任以前は在京することが多く、和歌をよくし、禅宗にも深く帰依したという。宝徳2年(1450年)9月、父が暗殺されると、暗殺の首謀者である富島氏,長江氏と戦い討ち滅ぼし、まもなく守護代となる。
 康正2年(1456年)、土岐持益の嫡子・持兼が亡くなると、後継者問題が発生した。持益の孫で持兼の庶子・亀寿丸(当時3歳)を推す声があったが、利永は拒否し、まだ壮年の持益を隠居させ土岐成頼を守護職に据えた。長禄4年(1460年)、中風を患い死去。武勇に優れて清廉な武将であったとされ、その死を惜しむ記録が残されている。

 

 父の死後、守護代職を継承するが、実権は叔父の斎藤妙椿に握られ、守護代として力を揮うことは出来なかった。妙椿が死ぬと、室町幕府に接近し幕府の権威を借りて、異母弟で妙椿の養子となった利国(妙純)と争い、文明12年(1480年)8月には遂に合戦を始める(美濃文明の乱)。利藤は墨俣城を拠点にして戦うが、同年11月には敗れて近江の六角氏の元に亡命、更に京都へ赴き幕府の庇護を受けた。長享元年(1487)5月、守護・土岐成頼と妙純との和議が成立し、美濃守護代職に返り咲く。
 しかし、成頼の後継を巡る争い(船田合戦)で土岐元頼,石丸利光に与したため、2人が戦死すると明応5年(1496年)6月に隠居させられ、失意の内に世を去った。
 利藤の嫡男・源四郎(帯刀左衛門尉)は船田合戦以前に早世し、嫡孫の斎藤利春(帯刀左衛門尉)は船田合戦で石丸利光に迎えられたものの、風邪のため明応4年(1495年)6月6日に没している。また、末子の毘沙童も利春没後に石丸方に迎えられたが、敗戦時、年少(13歳)のため助命され、仏門に入り日運と名乗った。
 実子の外に養子と思われる斎藤利為がいるが、船田合戦では勝者となった妙純に味方しているので、利藤没後にその名跡を継ぐよう命ぜられたものと思われる。 

斎藤利為 斎藤利茂

 土岐氏の三奉行職を務める家柄の出身で、土岐成頼,土岐政房に仕えた。船田合戦では政房,斎藤利国(妙純)に味方し、合戦後に敗れて隠居を余儀なくされた守護代・斎藤利藤の養子となり、墨俣城主となる。後に墨俣の明台寺に義父のため供養塔を建てている。

 

 斎藤妙純または斎藤利為の子。通称は帯刀左衛門尉と称す。斎藤又四郎とは同一人物とも。
 永正18年(1521年)頃より、斎藤利良に代わって美濃国守護・土岐頼武のもとで守護代を務める。大永5年(1525年)、守護の頼武と対立していた頼武の弟・頼芸を奉じた長井長弘と長井新左衛門が反乱を起こし、美濃守護所の福光館を占拠し、さらに利茂が拠る稲葉山城を攻め取った。享禄3年(1530年)には頼武が越前へ逃れたことにより、庶流の長井氏が美濃実権を握った。
 その後も頼芸方との対立は続き、長井氏の名跡を継いだ長井規秀(斎藤道三)と争うが、天文5年(1536年)7月、頼芸が美濃国守護となると、頼武の子・土岐頼純を見捨て、六角定頼の仲介により頼芸方に寝返り、頼芸のもとで守護代を務める。天文10年(1541年)までその動静が判明しているが、道三が頼芸を追放した際にともに、追放されて没落したと伝わる。

日運 斎藤利安

 明応4年(1495年)、父・斎藤利藤は斎藤妙純に敗れて既に実権を失っていた。しかし、美濃国守護の土岐成頼が嫡男の土岐政房より末子の土岐元頼を溺愛したため、斎藤妙純の重臣である石丸利光は土岐元頼と斎藤利藤の嫡孫・利春を擁立し斎藤妙純に対し反乱を起こした。しかし利春は対陣中に病により早世したため、利藤の末子である毘沙童が代わりに擁立されることとなった。
 この合戦は翌明応5年(1496年)、石丸氏が破れて滅亡、土岐元頼は自刃、土岐成頼と斎藤利藤は守護と守護代の座を失ってそれぞれ舎衛寺,明台寺で隠居、13歳であった毘沙童は助命されて僧とされた。
 毘沙童は南陽坊と名を変え、京都妙覚寺に入り日善上人に師事した。2歳年上の兄弟子には法蓮房(斎藤道三の父)が居たという。南陽坊は教養があり賢かったため高僧となり、永正13年(1516年)には長井豊後守利隆に招かれて美濃に帰国、日運と名乗り、妙覚寺の末寺であった常在寺の住職となった。松波庄五郎は日運を頼って美濃国に下向したとされる。没年は不詳。常在寺住職は斎藤道三の遺児である日饒が継いで5世となった。また、日饒は後に妙覚寺19世住職となった。

 延徳2年(1490年)、白樫城を築き、初めここに居住する。土岐成頼の後継をめぐる家督争いでは、明応4年(1495年)7月、妙純から土岐元頼方の古田氏討伐を命じられ、利綱とともに出陣した(船田合戦)。
 明応7年(1498年)に斎藤妙純・利親父子が戦死すると、まだ幼い利親の子・利良の後見のため稲葉山城山麓に移る。 永正年間(1504~20年)、長井長弘とともに長良天神神社の社殿を修復。
 『美濃明細記』の斎藤系の項によると長井長弘と同一人物とされ、美濃国池田郡白樫城から本巣郡文殊城に移り崇福寺を建立する。さらに稲葉山山麓の長井洞に移り、家臣筋の長井新左衛門尉(斎藤道三の父)に殺害されたとされる。法名は崇福寺桂岳宗昌。墓所は崇福寺。
 しかし、 同時代の香語・下火語の分析によると、利安の戒名は敬仲元粛であり、息子は利匡(桂岳宗昌)、孫は利賢となる。

長井利隆 長井長弘
 文明10年~明応5年(1478~96年)、竹ヶ鼻城主だったが、万里集九の漢詩文集『梅花無尽蔵』によると、守護代・斎藤利親が戦死したことにより、その跡を継いだ利親の子・利良が幼少のため、長井藤左衛門尉長弘とともに補佐した。『美濃明細記』によると、土岐政房,土岐政頼,土岐頼芸の執権であったという。明応6年(1497年)、利良後見のため、竹ヶ鼻城から加納城に移ったといわれる。永正13年(1516年)2月、京都妙覚寺の日善上人の法弟であった弟ともいわれる日護房(南陽房)を美濃に招き、美濃国厚見郡今泉の常在寺の住職とした。土岐政房の後継を巡る家督争いでは土岐頼芸方に付いた。その後、頼芸が川手城から大桑城に拠点を移したことにともない、川手城に城代として置かれた。永正12年(1515年)に死去。享年71または天正2年(1530年)に死去。墓所は汾陽寺。

 諱は利道・政利,長広,長張とも。父は長井秀弘または長井利隆とも。美濃小守護代。美濃関城主。一説には長井斎藤利安と同一人物とも。
 常在寺の住職・日運(斎藤利藤の末子)の推挙で油商人であった松波庄五郎(斎藤道三の父)を家臣として、さらに家老・西村三郎右衛門正元以後、断絶していた家臣筋の西村氏の名跡を相続させ、西村勘九郎(正利)と名乗らせた人物とされる。また後に長井姓を与え、この勘九郎は長井新左衛門尉(豊後守)と名を変え、長弘の推挙により、土岐頼芸の寵臣となっている。
 守護代・斎藤利親が死去したことにより、利親の子・利良が幼少のため、長井利隆とともに補佐したという。初め白樫城主であったが、このとき補佐のため稲葉山の麓に館を建てここに移った。その後、美濃守護・土岐政房の後継を巡り、家督争いが起こった。政房が嫡男・頼武を差し置いて、次男頼芸を後継者に推したことが原因である。守護代・斎藤利良は頼武を、小守護代であった長弘は頼芸を支持し、永正14年(1517年)合戦が起こった。この戦いでは頼武方が勝ったが、翌永正15年(1518年)には長弘ら頼芸方が巻き返して勝利する。頼武は妻の実家である朝倉氏を頼り、妻子とともに越前国へと逃れた。
 永正16年(1519年)、土岐政房が死去すると、朝倉氏は美濃に派兵して頼芸方を圧倒し、頼武を守護の座に就けた。長弘は政権奪取を画策し、大永5年(1525年)、長井新左衛門尉とともに挙兵。新守護代となった斎藤利茂ら頼武方と戦い、主家の斎藤氏の居城・稲葉山城を攻め取り、同年6月には美濃守護所の福光館も占拠し、反乱は成功した。その後も頼武方との対立は続いたが、享禄3年(1530年)、劣勢に陥った頼武が再び越前に逃れたため、頼芸が実質的な守護の座に就いた。これにより、長弘は守護代・斎藤氏に替わって、美濃の実権を握った。
 『斎藤系譜』によると、天文2年(1533年)2月2日、越前に追放された頼武と内通したとして上意討ちの名目で新左衛門尉(又はその子・長井規秀)に殺されたという。法名は桂岳宗昌。
 天文2年11月26日付けの文書には長弘の子・長井景広と新左衛門尉の子・長井規秀(後の斎藤道三)との連署状があり、主家を重んじる形式なため子の景広が継いだとされるが、天文3年(1534年)9月には規秀の単独署名の禁制があり、これ以降、景広の名が途絶えることから天文2年~3年の間に景広は規秀によって殺されたもしくは病死したと推定される。 

井上道勝 井上頼次

 美濃国不破郡今須城主で、初め、父または兄弟とされる長井道利とともに斎藤道三に仕え、弘治2年(1556年)、長良川の戦いでは道利とともに斎藤義龍側に付いた。『信長公記』によると、この戦いにおいて道勝は道三に組み付いて、義龍の前に引き据えるため生け捕りにしようとしたが、小牧源太(道家)の横槍が入り、この小牧が道三の脛を薙ぎ、押し伏せて首を切った。これに激怒したが、最初に組み付いた証拠として道三の鼻を削いで懐に収めその場を退いた。同年、道三方に組した明智光安の居城明智城を道利とともに攻める。
 義龍死後は斎藤龍興にも仕え、斎藤氏滅亡後は井上姓に改め、豊臣秀吉に仕えた。のち弟の頼次とともに黄母衣衆に加わったというが定かではない。 

 初めは、斎藤姓を名乗る。斎藤龍興が織田信長に滅ぼされると、井上姓に改めて信長に仕え、信長死後、豊臣秀吉・秀頼に仕えた。のち兄の道勝とともに黄母衣衆に加わる。慶長19年(1614年)、大坂の陣の鴫野の戦いで豊臣軍に属し、鉄砲隊長として2千の兵を率いて、鴫野の柵に徳川軍の備えとして置かれるが、徳川軍の猛攻に遭い、鴫野の柵崩壊によって討死した。 
井上時利 斎藤利賢
 初め織田信長に仕える。信長死後は豊臣秀吉に仕え、慶長4年(1599年)、美濃国と河内国の両国に760石を知行したが、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで織田秀信の西軍参加を受けてこれに従い、戦後、徳川家康から改易されて浪人する。慶長19年(1614年)大坂冬の陣で豊臣方に付き、幕府軍の備えで谷町口に置かれた。慶長20年(1615年)5月6日、大坂夏の陣で薄田兼相とともに大坂へ行き、徳川方の秋山右近を討ち取るが、幕府軍の猛攻に遭い討死した(道明寺の戦い)。享年50。のちに子の利中は罪を許され、幕府2代将軍・秀忠に仕えている。 

 父は斎藤利匡。軍記・史書・系図等では斎藤和泉守利胤(または長井斎藤利安)。室は前妻に足利義輝の重臣・蜷川親順の娘(蜷川親世の妹、後に離縁して石谷光政室)、後妻は明智光継(宗善)の娘。
 斎藤道三・義龍父子2代に仕え、美濃山県郡に居住する。晩年の動向は不明だが、天正14年(1586年)5月23日に死去。子らは明智光秀の重臣となったが、利三は本能寺の変後に戦死、石谷頼辰は土佐国に落ち延びて長宗我部氏に仕えた。

 

斎藤利綱

 連歌に優れ、作品が『新撰菟玖波集』に収められている。三条西実隆の日記『実隆公記』によれば『古今和歌集』『愚問賢注』の写本の奥書染筆を請うたり、十首歌を詠ずるなど文武両道の武将であった。故実にも通じ、『家中竹馬記』の作者であり、『土岐家聞書』の作者であるとも。
 明応4年(1495年)に土岐氏の家督争いにより船田合戦が起こり、正法寺の戦いでは利安とともに古田氏討伐に向かう。翌明応5年(1496年)城田寺の戦いで墨俣に布陣している。明応7年(1498年)連歌師宗祇より古今伝授を受け、宗祇から『古今和歌集』を譲り受けた。明応8年(1499年)、宗祇を介して三条西実隆より3月20日に『古今和歌集』の写本に奥書染筆を貰う。また小笠原元長と親交深く、『弓馬故実』を伝授されている。永正年間に日吉神社(岐阜県安八郡神戸町)の三重塔を再建。