<藤原氏>北家 秀郷流

KH02:清原光方  藤原魚名 ― 藤原秀郷 ― 清原光方 ― 藤原清衡 F902:藤原清衡


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藤原清衡 小館惟常

 父・経清は前九年の役にて安倍氏に味方し、源頼義に反旗を翻したが厨川の戦いで敗れ、安倍氏と最後をともにした。この時、清衡は7歳であった。敵将の嫡男であったので本来は処刑される運命にあったが、母が安倍氏を滅ぼした敵将である清原武則の長男・清原武貞に再嫁することになって危うく難をのがれ、連れ子の清衡も清原武貞の養子となった。
 清原家には、清衡の異父異母兄になる武貞の長子・真衡,清衡,異父弟になる家衡があったうえに、吉彦秀武が清原武則の従兄弟にして娘婿であるなど複雑な血縁関係で結ばれた一族が存在しており、ややもすると血族の間で内紛が起こり易い状態にあった。秀武が真衡に背くと清衡,家衡はこれに同調したため、真衡は陸奥守であった源義家の支援を受けて清衡,家衡を攻めた。清衡,家衡は大敗して逃走するが、直後に真衡が死亡する。清衡,家衡は義家に降伏し、義家の裁定で清原氏の所領を分割相続する。
 義家の裁定は清衡に有利なものであったと推測されており、義家が清原氏弱体化を意図し対立を煽ったとする見解が多数存在している。当然、家衡は裁定に不満を持ち、応徳3年(1086年)に清衡の屋敷を襲撃し、妻子眷属を皆殺しにする。義家は難を逃れた清衡に助力し、家衡を滅ぼした。後三年の役は清原氏の私闘とされ、何の恩賞もなく清衡にも官位の賞与も無かったが、一族最後の残存者として奥六郡を領する勢力者となった。時に寛治元年(1087年)清衡32歳。その後、実父の姓である藤原に復し、奥州藤原氏の祖となった。

 父は初代当主・藤原清衡、母は清原氏の娘とされている。初名は家清、または惟衡と推測されており、小館惟常の名で知られている。父の死後、奥州藤原氏の当主の座を巡って異母弟である藤原基衡と争い、敗死した。
 当時、家の長子は親元を離れて独立した屋敷を構えるという慣習があり、またその屋敷は「小館」と呼ばれ、その屋敷の主も跡継ぎを意味する「小館」の尊称で呼ばれていた。惟常もこの慣習に倣い、独自の屋敷を構える立場にあった。対して異母弟の基衡は「御曹司」と称され、清衡と同じ屋敷に住んでいたといわれている。「御曹司」、当時は「そこに住まう人」や「居候」という意味だった。後に平泉に身を寄せた源義経が「御曹司」と称されたのも後者の意味合いによるものである。この観点から言えば、正当な家督相続者は惟常で、基衡は簒奪者だった。
 源師時の日記『長秋記』には、清衡死後の大治4年(1129年)の出来事として、惟常と基衡との争乱が記録されている。それによると、基衡は惟常の「国館」を攻め、異母弟の圧迫に耐えかねた惟常は小舟に乗って子供を含め二十余人を引き連れて脱出し、越後国に落ち延びて基衡と対立する他の弟と反撃に出ようとするが、基衡は陸路軍兵を差し向け、逆風を受けて小舟が出発地に押し戻されたところを惟常父子らを斬首したという。大治5年(1130年)6月8日のことである。この争乱の詳細は『長秋記』が記すのみで、平泉側(奥州藤原氏側)からの記録は発見されていない。またこの内乱の背景には単なる兄弟間の家督争いだけでなく、清原氏の娘を母に持つ惟常を担ぐ家臣団と、安倍氏の娘を母に持つ基衡を担ぐ家臣団、この二つの勢力の争いがあったということが第一に考えられている。 

藤原基衡 藤原秀衡

 大治3年(1128年)の清衡の死後、兄である小館惟常ら兄弟との争乱が記録されている。基衡は惟常の「国館」を攻め、惟常は越後に落ち延びるが、基衡と対立する他の弟と反撃に出る。基衡はこの合戦に勝ち、奥州藤原氏の当主となる。
 康治元年(1142年)、陸奥守・藤原師綱が信夫郡の公田検注を実施しようとしたところ、地頭大庄司季治がこれを妨害し、合戦に及ぶ事件が発生する。師綱は季治の主人である基衡を糾弾する。季治は師綱の元に出頭し、審議の結果処刑された。基衡は師綱に砂金一万両献上し、季治の助命を誓願するが、師綱はこれを拒否したという。基衡はこれに懲り、翌康治2年(1143年)に師綱の後任の陸奥守として下向した院の近臣・藤原基成と結び、その娘を嫡子・藤原秀衡に嫁がせた。基成と結ぶことで基衡は国府にも影響を及ぼし、院へもつながりを持った。
 また、左大臣・藤原頼長が摂関家荘園12荘のうち、自分が相続した出羽遊佐荘,屋代荘,大曾根荘,陸奥本吉荘,高鞍荘の年貢増額を要求してきた。基衡はこれと粘り強く交渉し、仁平3年(1153年)に要求量を大幅に下回る年貢増徴で妥結させ、頼長を悔しがらせている。これにより、奥羽にあった摂関家荘園は奥州藤原氏が荘官として管理していたことがわかる。
 久安6年(1150年)から6年にかけて、毛越寺に大規模な伽藍を建立した。また、基衡の妻は観自在王院を建立している。

 父祖の偉業を引継ぎ、「北方の王者」としてその勢力を磐石のものとした。しかし、秀衡はその財力により奥州だけではなく中央政権にも繋がりを持ち、嘉応2年(1170年)には鎮守府将軍に任命されている。
 承安4年(1174年)頃には鞍馬山を逃亡した源氏の御曹司である源義経を匿って養育する。治承4年(1180年)、源頼朝が平氏打倒のために挙兵すると、源義経はその軍に加わるため鎌倉へ向おうとする。秀衡は義経の身を案じ、佐藤継信・忠信兄弟を義経に付けて奥州から送り出した。
 養和元年(1181年)には、平氏の掌握する朝廷より陸奥守に任じられ、源氏討伐を命じられるが、形勢を静観し動くことはなかった。文治3年(1187年)、頼朝と不和になり、逃亡の身となった義経を再び平泉に匿うが、同年10月、義経が平泉入りをしてからわずか9ヶ月で病に倒れ、子の泰衡,国衡,忠衡に義経を主君となして仕えるよう遺命して没した。その遺骸は中尊寺金色堂に納められ、現在も中尊寺に眠っている。

藤原国衡 藤原泰衡

 長男であったが、庶子であったために後継者からは除外される。文治3年(1187年)、鎌倉の源頼朝から追われた源義経が平泉へ落ち延びると、父の遺命に従って忠衡とともに義経を保護し、鎌倉との対決を主張。義経追討の院宣が下ると、4代・泰衡は衣川の屋敷を襲撃し、忠衡も滅ぼされる。
 文治5年(1189年)8月、頼朝は義経を匿ったことを口実に奥州藤原氏に対して征伐軍を派遣し、国衡は泰衡から大将軍に任命され、伊達郡阿津賀志山で防戦。阿津賀志山の戦いでは寡兵ながら三日間にわたって抗戦するが、幕府御家人の和田義盛の矢で射られて深田に倒れ、畠山重忠の家臣・大串次郎に討ち取られた。 

 兄の国衡は母親が蝦夷の出身であったために、泰衡は嫡男として扱われる。文治3年(1187年)に父・秀衡が病死したため、家督を相続した。秀衡は死去の際に源義経を盟主として従うように遺命を残しており、平家滅亡後に頼朝と対立した義経は奥州藤原氏に匿われていた。頼朝は義経討伐を促していたが秀衡は拒絶し、泰衡も遺命に従い度重なる義経討伐要求を拒否していた。しかし、朝廷から義経追討令が出たことなどで要求に屈し、文治5(1189年)2月、義経派であった弟の頼衡を殺害。そして同年4月、衣川館の義経を殺害し、その首を鎌倉へ送った。さらに同年6月、同じく義経派であった弟の藤原忠衡も殺害した。
 一方、義経が死んだ直後、頼朝は勅命を待たずに奥州藤原氏の討伐軍を起こして奥州合戦が行われる。奥州藤原氏は阿津賀志山の戦いなどでことごとく敗北し、平泉に火を放ち、三代の栄華は灰燼に帰した。
 泰衡は、平泉から脱出して蝦夷地へ逃れようとした逃亡の途中で、家臣の河田次郎(安田とも)の謀反により殺害された。なお、泰衡の遺体(首のみ)も中尊寺金色堂の父・秀衡の棺内に保存されている。その首には晒した際に打ち付けられた釘の痕が明瞭に残っており、『吾妻鏡』の記述と一致することから、泰衡のものであると確認された。

藤原泰高 藤原忠衡

 庄内の郷土史家・土岐田正勝の『最上川河口史』によると、万寿(泰高)は、酒田に逃れてきた当時は10歳に満たず、元服するまで徳尼公(泰衡の生母)の元にいた。その後、泰高と名乗り、家来数人とともに津軽の外ケ濱に行き、『牧畑』を開拓した。やがて泰高は京都に出て、平泉藤原家再興を企図したがならず、紀州日高郡高家庄の熊野新宮領に定住した。その子孫が南北朝の天授3年(1377年)には瀬戸内海の因島に移り住み、巻幡姓を名乗っているという伝承が残っている。
 だが、時衡,秀安,泰高はいずれも同時代史料では確認できないうえに、『愚管抄』や『吾妻鏡』といった後世の編纂物にも記述はなく、実在したかは疑わしい。

 文治3年(1187年)に父・秀衡が没し、平泉に逃げ込んでいた源義経を父の遺言通り保護する。義経を立てて源頼朝に対抗するべきだと主張するが、意見が対立した兄の泰衡に攻められて殺害された。 
本吉高衡 藤原清綱

 父・秀衡存命時においては、陸奥国桃生郡の本吉荘の荘司を務めていたとされる。秀衡死後、四代目となった兄の泰衡は源頼朝と奥州合戦を戦い滅亡するが、その際、高衡は下河辺行平を通じて降伏し捕虜となった。鎌倉に護送された後、相模国に配流されたが、後に赦免され、暫くは鎌倉幕府の客将のような存在であったと言われる。
 建仁元年(1201年)、城長茂らが幕府転覆を図った建仁の乱においては、謀叛の一味に加わり京に潜入する。長茂の決起が失敗すると、一味からの離脱を図り藤原範季の邸宅に逃げ込むが、結局仲間によって連れ戻され、最後は幕府の追っ手によって討ち取られた。

 通称は亘理権十郎。樋爪氏の祖とされる。当初は祖父の藤原経清と同じく亘理郡を拠点とし、中嶋舘に居城して亘理権十郎を名乗り、その後平泉へ移った。子の俊衡の代には紫波郡日詰の樋爪館(比爪館)に居を構えていた。「樋爪」はアイヌ語のピッツ・ムイ(河原の港)が転訛したものとされる。
 同氏の支配地域は、現在の紫波町から矢巾町,盛岡市厨川柵に達し、平泉の北に本拠を構え、奥州藤原氏一族の中でも要所を成したが、清綱の子孫は源頼朝の奥州攻めに屈して降伏した。『吾妻鏡』によれば、1189年(文治5年)9月15日、樋爪俊衡と息子の太田師衡・兼衡,河北忠衡,樋爪季衡と息子の新田経衡が降伏したとある。頼朝は俊衡の所領を安堵したが、他の者は関東各地に流罪とした。また、清綱の娘である(乙和子姫?)は佐藤基治の後妻となり、源義経の家臣となる佐藤継信・忠信兄弟を産んでいる。 

樋爪俊衡

 奥州藤原氏の傍流ではあるが、北方の守りの要として紫波郡日詰の樋爪館(比爪館)に居を構え、樋爪氏を名乗った。同氏の支配地域は平泉の北に本拠を構え、奥州藤原氏一族の中でも要所を成した。最新の発掘調査では、平泉初代の清衡の頃から同地に居を構えていた可能性が高くなった。
 『吾妻鏡』によれば、源頼朝が奥州攻めを行った1189年(文治5年)の9月4日、頼朝軍が紫波郡に差し掛かったと聞いた樋爪俊衡(比爪法師)は、居館(樋爪館)を焼き払って逃げ落ちた。これを追うために頼朝は三浦義澄・義連・義村などを遣わし、同日に陣岡蜂杜に陣を構えた。11日、頼朝は陣岡を引き払い厨川柵へ向かったが、15日に樋爪太郎俊衡入道が弟の五郎季衡,息子の太田冠者師衡,次郎兼衡,河北冠者忠衡,季衡の息子の新田冠者経衡などを連れて厨川の頼朝陣所へ降伏の意を示して訪れた。年老いた俊衡の姿を見た頼朝は彼を哀れに思い、家臣の八田知家に預けたが、俊衡は法華経を唱える以外は一言も話さなかった。翌16日、信心深かった知家から俊衡の様子を伝えられた頼朝は、それまで処置を迷っていたが、本領の比爪を安堵することに決め、18日に頼朝は俊衡などの処置について京に伺いの使者を向かわせた。10月19日、頼朝は鎌倉への帰途に宇都宮二荒山神社へ立ち寄り、戦勝祈願のため荘園を一つ寄進することを誓ったといい、樋爪の一族をその職に就けた(誰がその職に就いたかは記されていない)。12月6日、頼朝は俊衡以外の者についての配流先の案を立てると京に飛脚を向かわせ、同月26日、18日付で京の朝廷より案の通り宣下が下された。平泉の藤原高衡と俊衡の息子・師衡と俊衡の弟である季衡の息子・経衡,隆衡(系図に無い)は相模国、景衡(系図に無い)は伊豆国、樋爪兼衡は駿河国、樋爪季衡は下野国へと流された。