<藤原氏>北家 秀郷流

F907:内藤行俊  藤原房前 ― 藤原魚名 ― 藤原秀郷 ― 内藤行俊 ― 内藤時信 F908:内藤時信

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内藤盛貞 内藤武盛

 肥後守盛貞のとき、はじめて大内氏に属した。盛貞は大内盛見,持世に属して活躍、大内氏の勢力拡大に尽力し、長門国守護代に任じられた。以後、内藤氏は陶・杉氏に次ぐ大内氏三家老の地位を確立していった。
 永享3年(1431)、大内盛見は少弐氏と結んで筑前に進出を企てる大友氏を討つため出陣、この陣に盛貞の嫡男盛賀も加わった。盛見は大友氏の拠点である立花城を攻略し、終始優勢に戦いを展開し、さらに筑前の西部に進攻した。ところが、筑前深江において少弐氏の反撃を受け、まさかの敗死をとげてしまった。盛見の戦死は幕府にも衝撃を与え、その死は「名将犬死」と惜しまれた。このとき、盛賀も盛見とともに戦死している。
 盛見の死後、大内氏では家督をめぐって持世と持盛の兄弟の争いが起こった。肥後入道盛貞は、盛見の意志として持世を家督にと願う上申書を幕府に提出し、幕府もこれを認めて持世に惣領職が認められた。一方の持盛には長門国ほかが安堵された。しかし、これに不満を抱いた持盛は従兄弟の満世と共謀し、さらに豊後の大友氏と結んで持世に反抗した。
 持盛らの攻勢に対して、持世はいったん石見に逃れ、国人らの支持を取り付けると周防に戻り持盛らを没落させた。さらに九州を平定して、大友・少弐氏らを追討した。かくして、持世は周防・長門・豊前・筑前の守護職を安堵され、大内氏の動揺も治まった。この間、内藤盛貞と次男の有定は終始持世に味方して、その体制確立に協力を惜しまなかった。 

 武盛のとき応仁の乱が勃発し、大内政弘は山名持豊に味方して上京、西軍の中心勢力として重きをなした。武盛の弟・弘矩は政弘に従って在京、諸所の合戦に活躍した。政弘が京都に滞陣していた文明2年(1470)、政弘の伯父・大内教幸(道頓)が東軍に通じて挙兵し、これに内藤武盛,仁保盛安,吉見・周布氏らが加担した。この乱に、京都滞陣中の諸将の間に動揺が走ったが、留守を守る陶弘護の活躍で乱は鎮圧され、翌年、教幸は滅亡した。乱ののちに帰国した弘矩は、陶弘護とともに政弘の留守をまもった。
 文明9年、11年間にわたって続いた応仁の乱も終息し、山口に帰ってきた政弘は領国経営に専念するようになった。政弘は在京の間、公卿・禅僧・学者らと交わって教養を深め、戦乱をさけて山口に逃れてきた文人らを保護し、山口に大内文化を発展させたのである。
 文明14年、大内政弘は山口を訪ねてきた津和野の城主・吉見信頼を山口館で宴をもうけてもてなした。ところが、酒宴の席で陶弘護と吉見信頼が争い、弘護が信頼によって刺し殺されるという事件が起こった。信頼は道頓の乱において弘護と対立し、加えて累年にわたる陶・吉見の領地争いが最悪の結果となったものだが、その場に居合わせた弘矩は即座に信頼を討ちとり面目を立てている。
 明応3年(1494)、大内政弘の病が篤くなり、家督を義興に譲った。翌年、政弘が死去すると、弘矩は政弘の子・高弘の擁立を画策したと陶武護から讒言され、嫡子・弘和とともに誅伐されてしまった。ここに、内藤氏は一時挫折の憂き目をみることになったが、その後、弘春が豊前・筑前における軍功により内藤家を興し、長門国守護代に返り咲いた。  

内藤弘矩 内藤弘春

 応仁の乱のため上京した大内政弘に従い、弘矩は在京、諸所の合戦に活躍した。長期にわたり上洛し不在だった政弘に対して、1470年(文明2年)に叔父の大内教幸(道頓)が謀反を起こし、それに兄の内藤武盛が加担する。しかし乱は陶弘護らの活躍により鎮圧されたため、弟の弘矩が武盛に代わって父の跡を継ぎ内藤家の当主となった。
政弘の代は、周防守護代陶弘護とともに大内家重臣として重きをなし、上洛した政弘の留守を守った。1482年(文明14年)に、宴席でその弘護が遺恨のあった吉見信頼に討たれる事件(大内山口事件)が起こるが、弘矩はその場で信頼を成敗し、事態を収拾する。その後は大内家随一の重臣として権勢を振るう。
 1494年(明応3年)に病態の政弘が義興に家督を譲ったあとは、若年の君主を補佐した。しかし翌年、義興への家督相続に際して兄弟の高弘の擁立を画策したと陶弘護の子・武護が義興に讒言し、それを信じた義興の命により、弘矩は大内氏館にて暗殺された。嫡男を弘和はそれを知って挙兵をしたものの、攻め滅ぼされた。
 のちに弘矩が無実であることが判明したため、義興は弘矩の娘を正室に迎えるとともに、弘矩の死後家督を継いだ弘春の嫡子・興盛に弘矩の娘を妻合わさせるなど、弘矩の名誉回復と内藤氏との関係修復に腐心した。讒言した武護は死を賜った。ただし、弘矩の死には異説もある。義興に嫁いだ娘は、義興の嫡男・亀童丸(のちの大内義隆)を産んでいる。
 陶弘護暗殺後の陶氏の家督争いには、弘矩が暗躍したともいわれている。一方で、弘矩が殺害された原因として弘矩を讒言したとされる陶武護とともに反抗を企てたとする逆の説も伝えられている。また、この説では弘矩を殺害したのは当主である義興ではなく、隠居していた先代当主の政弘であったと記されている。大内政弘は自らの権力を脅かす陶弘護を排除するために吉見信頼に殺害させたところを、内藤弘矩に口封じさせたのが本来の計画であったが、後日の陶武護の反抗をきっかけに更に内藤弘矩も殺害して真相を隠そうとしたという説もある(陶武護が弟の興明を殺害して陶氏の家督を奪ってから15日後に弘矩が殺されている)。
 また、文人としても活動しており、当代屈指の連歌師宗祇とも交流した記録がある。

 明応4年(1495年)讒言を信じた大内義興により、兄の弘矩とその子弘和が誅殺されたため、急遽家督を継ぐことになる。明応6年(1497年)義興の下で長門守護代となる。
 文亀元年(1501年)、前将軍・足利義尹を匿う義興を討つため治罰の綸旨が出され、それを受けた少弐資元,大友親治・義親父子らが豊前馬ヶ岳城を攻めた際には、義興の命を受け、救援のため豊前に出陣。大友親子を破った合戦に参加している。
 翌文亀2年(1502年)に没した時は、義興の肝煎りで先代・弘矩の娘を妻に迎えていた嫡子の興盛が家督を継いだ。

 

内藤興盛 内藤隆世

 伯父の内藤弘矩は大内氏重臣として権勢をふるったが、讒言により謀反の疑いがかけられ、その子・弘和と共に大内義興に誅殺された。冤罪と分かり、義興の意向で弘矩の弟で興盛の父・弘春が家督を継承することになる。興盛は弘矩の娘を娶り、内藤氏の当主となる。
 義興に仕え、宿老として長門守護代を務めた。義興の上洛にも参陣し、享禄元年(1528年)に義興が死去した後は子の大内義隆に仕える。義隆の時代には家中随一の大身の重臣となった。評定衆を務め、天文9年(1540年)の吉田郡山城の戦いには陶隆房(晴賢)らと共に援軍として派遣された。また、同11年(1542年)の月山富田城の戦いにも出陣し、菅谷口攻めを担当し毛利元就らと攻撃したが抜くことはできなかった。
 月山富田城の戦いでの敗北の後、軍事・政治に関心を失った義隆との関係は冷却化する。文治派と武断派の対立が深まるなか、興盛は義隆に嫡子・義尊に家督を譲り隠居するよう勧めるも拒否されている。
 天文20年(1551年)の陶晴賢の謀反(大寧寺の変)の時は消極的に晴賢を支持し、義隆からの和睦の仲介要請を拒否したが、直後に隠居した。隠居には、大内氏の継承を巡る陶隆房との意見の相違があったとも言われる。嫡子の隆時はこの時には既に亡くなっていたため(月山富田城の戦いの時とも)、家督は嫡孫の隆世が継いだ。天文23年(1554年)に死去。
 娘の嫁ぎ先の毛利氏と、孫娘の嫁ぎ先の陶氏との対立が鮮明となってきた矢先の病死だったため、内藤氏一族は自らの義兄・陶晴賢を支持する嫡孫・隆世派と、娘婿である毛利隆元とその父元就を支持する5男・隆春派が対立し、興盛の死んだ翌天文24年(1555年)の厳島の戦いを機に一族が分裂することとなる。
 墓所は山口県山口市の善生寺。また、同寺には肖像画も残されている。興盛の血筋は毛利氏家臣として存続し、毛利隆元の正室・尾崎局より生まれた外孫が毛利輝元として毛利氏を相続したことで、血筋は毛利家の外戚としても伝わっている。
大内家中では、武将・重臣としてとともに文化人,教養人としての信望が厚かったと言われている。近衛尚通に源氏物語の外題を請うたこともある。大内氏臣下の意見を当主に取り次ぐ役回りを務めるなど温厚な人柄で人望が高かったが、一方で大寧寺の変の時には義隆からの助命の要請を拒絶しており、乱世の厳しい主従関係がうかがわれる。
 また、興盛自身は熱心な仏教徒であったと言われているが、フランシスコ・ザビエルが天文19年(1550年)と翌20年(1551年)にキリスト教布教のため山口を訪れた時、ザビエルらを屋敷によく招き、尽力して2度ともザビエルと義隆の面会を実現させた。さらに大寧寺の変の時はザビエル一行を自邸に保護するなど、ザビエルの庇護者としても知られる。

 父・内藤隆時が早世していたため、天文20年(1551年)、陶晴賢が大内義隆に謀反(大寧寺の変)した直後に隠居した祖父・興盛の跡を継ぎ家督を相続した。変の後に大友氏から迎えられた大内義長の元で、実権を握る義兄の陶晴賢と共に大内家重臣となった。
 弘治元年(1555年)の厳島の戦いには参加しなかった。この戦いで晴賢が毛利元就により敗死すると、大内氏家中は激しく動揺する。そんな中、先に晴賢に誅殺されていた杉重矩の子・重輔が突如挙兵し、陶氏の居城・富田若山城を攻撃、晴賢の子・長房を攻め滅ぼす事件が起きる。
 晴賢の義弟であった隆世はこれを知ると義長の制止を振り切り、陶氏旧臣の求めに応じ翌弘治2年(1556年)に出陣、山口市街が灰燼に帰す激戦の末に重輔を死に追いやった。しかしこの内紛は大内氏家中をますます混乱、弱体化させてしまう結果となる。また、内藤氏も叔母・尾崎局が毛利隆元の正室だったことから、親陶氏の隆世派と親毛利氏の叔父隆春派に分裂してしまう。
 一方、毛利氏はこの混乱に乗じ周防に勢力を広げていく(防長経略)。各地で国人達による激しい抵抗を受けるも、弘治3年(1557年)には1年間にも及ぶ攻防を繰り広げた沼城が陥落、城主・山崎興盛は自刃し、大内氏の頽勢は覆いがたいものとなった。この間、隆世は義長に勧め、高嶺城築城、大内館の堀拡充など毛利氏防衛のため対策に努めるが、家臣の内応が相次ぎ、山口を維持できなくなる。
 隆世は義長と共に高嶺城を出て山口を脱出、長門に逃れ内藤氏の居城勝山城に入り抵抗する。毛利軍も長門に進軍したが、勝山城は堅固でなかなか落ちない。元就は家臣の福原貞俊に命じ、隆世が切腹、開城すれば義長を助命するという条件で降伏を勧告させた。隆世はこれを受け入れ、4月2日、毛利側の検使により自刃し、城は開城した。
 その後、義長と陶晴賢の孫・鶴寿丸は長府の長福寺(現・功山寺)に入ったが、毛利軍が寺を包囲し翌3日義長は自害を強いられ、大内氏は滅亡する。そして鶴寿丸はお守り役により刺殺された。
 こうして内藤氏の嫡流は断絶したが、隆春が毛利家に降ったため内藤家は毛利家家臣として存続した。

内藤隆春 内藤元盛

 姉の尾崎局が毛利元就の嫡男・隆元の正室であった関係もあり、毛利氏との関係が深かった。天文20年(1551年)の陶晴賢の大内義隆に対する謀叛(大寧寺の変)に際しては、父と共に静観の態度を取るが、甥の内藤隆世の積極姿勢に反発して家内が紛争となる。
 天文23年(1554年)に父が死去し、翌弘治元年(1555年)の厳島の戦い後に毛利氏に内通し、弘治3年(1557年)の元就の防長経略の時には、当主となっていた隆世と袂を分かち毛利氏に降り、元就らに従って転戦する。そして、大内義長の自害により大内氏が滅亡すると、義長と共に自害した隆世の跡目を継ぎ、新たに内藤氏当主として長門守護代に就任することを元就に認められる。
 同年、大内義隆の遺児で隆春の甥でもある亀鶴丸を擁した大内氏残党による蜂起が起こると直ちに鎮定に赴き、妙見崎の戦いで草場越中守らを討ち亀鶴丸を処刑。乱を殲滅する功をあげる。
 毛利氏では、当主・輝元の母方の叔父ということもあり、長門の政務を任され、荒滝山城,櫛崎城など大規模な山城を構え、重用されたという。永禄元年(1558年)には、元就・隆元父子から起請文を賜るなどの厚遇を受けた。
 しかし、義兄の隆元は永禄6年(1563年)に死去、さらに元就死後の元亀3年(1572年)には讒言に遭い、輝元の誤解を解くため毛利氏への忠誠を誓う起請文を提出している。背景には、内藤氏の影響力低下と毛利氏の外様に対する締め付けがうかがわれる。また、男子がいずれも早世し継嗣に恵まれなかったため、毛利氏一門衆の宍戸氏から宍戸元秀の次男元盛(甥にあたる)を婿養子に迎えた。
 天正19年(1591年)の検地では、隆春の所領は2,600石であった。同年、元盛に家督を譲る。最晩年には輝元の指示により上洛。周竹と号して大坂で大内氏以来の公家とのつながりを生かし、豊臣秀吉死後の激動する中央の情報収集を行う。その報告は毛利氏の文書として伝わっている。 

 慶長19年(1614年)、大坂冬の陣が勃発すると、毛利氏は徳川方に従って参陣するが、万が一、豊臣方が勝利したときに備え、輝元と執政の毛利秀元の密命を受けた元盛は名前を佐野道可と変え、軍資金と兵糧を持参し大坂城に入城する。元盛が選ばれた背景には、実母が輝元の叔母、養父にあたる内藤隆春が輝元の伯父であり、従兄弟にあたる輝元の代理になり得る立場にあったこと、当時内藤家が元盛の実兄・宍戸元続の仲介で主家から借財をしていたことが挙げられる。
 しかし、翌慶長20年(1615年)の大坂夏の陣で豊臣方は敗北し滅亡。道可こと元盛も毛利氏一門であることが露見してしまう。幕府の厳命を受けた毛利氏の厳しい捜索により逃亡中に京都で捕縛される。元盛は、取調べの担当である大目付の柳生宗矩に対し、あくまで豊臣氏に恩義を感じての個人的な行動で、主家とは関係ないと主張する。元盛の2人の息子・内藤元珍,粟屋元豊も父が勝手に取った行動と主張したので、幕府も毛利氏の陰謀を追及することができなかった。同年、元盛は山城国桂里大藪村鷲巣寺にて自刃し、事件は一応収束する。
 それにもかかわらず、事情を知る息子の元珍・元豊は、幕府の追及を恐れる輝元らにより密かに自刃させられる。これに激怒した綾木の大方(隆春の娘で元盛の妻)は輝元の振る舞いを非難するが、逆に元珍の子・元宣を幽閉して家名存続の約束を反故とした。このため、内藤氏はいったん断絶する。
 慶安元年(1648年)、元宣の子・隆昌(元盛の曾孫)が再び毛利氏の家臣となり、1,300石を与えられて復活する。

内藤元珍

 慶長5年(1600年)、関ヶ原の合戦後に家督を継ぐ。父・内藤元盛(佐野道可)が大坂の陣にて独断で豊臣方について大坂城に入城したが(主家の意向を受けたとも言われる)、落城して逃走中に捕らえられて切腹させられた佐野道可事件で、徳川氏により京都に呼び出された際、特に弁明できなかったが、大坂城に入城しなかったため許されて帰国した。
 だが、帰国した早々、吉川広家,福原広俊らの進言を受けた毛利輝元に切腹を命じられ、元和元年(1615年)10月19日に富海の龍谷寺で自害した。当時大目付であった柳生宗矩が、切腹を悼む旨の書状を伯父の宍戸元続,都野惣右衛門らに送ったとされる。
 事件後、長男・元宣は母方の志道姓を称し、隠忍の日々を過ごすが、孫の隆昌の代に内藤姓に復し、毛利氏の家臣として明治維新まで存続した。
 山口県宇部市の瑞松庵に墓所がある。