<藤原氏>北家 秀郷流

F907:内藤行俊  藤原房前 ― 藤原魚名 ― 藤原秀郷 ― 内藤行俊 ― 内藤季定 F909:内藤季定


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内藤元貞 内藤国貞

 丹波内藤氏は代々丹波守護・細川氏に仕え、守護代を務めた。
 応仁元年(1467年)6月8日、応仁の乱の西軍・山名氏の領国の但馬・因幡・伯耆・備後の軍勢が丹波に攻め入ると、東軍であった内藤備前守元貞は国境の天田郡夜久郷でこれを迎え撃ったが敗北し、叔父の内藤貞徳らが討ち取られ、上洛を許した(井鳥野合戦之事)。応仁2年(1468年)3月20日には、元貞が但馬国朝来郡に攻め込み、太田垣氏と戦っている(但州合戦之事)。
 同年9月3日、元貞は、久下,永澤,荻野,本庄,足立,蘆田を率い、大江山(大枝山)を越えて谷ノ堂,峯ノ堂,梅津,桂に兵を進め、嵯峨の天龍寺に火を放った。挟撃される形となった西軍の山名宗全は宮田教言を派遣し、斯波義廉,畠山義就,大内政弘の兵も嵯峨に向かった(醍醐山科合戦之事)。細川勝元は西軍本陣を超えて援軍を送れず代わりに船岡山を攻め落としたが、元貞は宮田教言らの兵に押され、大江山に退却し守りを固めた(舟岡山合戦之事)。
 応仁の乱の終結後の文明11年(1479年)、一宮氏の年貢免除を守護代・内藤元貞が認めず、一宮方30人程が討たれたため、一宮宮内大輔が細川政元を拉致して、一揆を起こした。内藤元貞は政元の代わりに細川勝之を擁立し庄氏や安富氏と共に一宮氏討伐を行ったが、一宮賢長が一宮宮内大輔を討ち細川政元を解放したため、事無きを得た。
 文明14年(1482年)、内藤元貞は罷免され、次の丹波守護代には上原賢家が就任した。しかし、上原賢家・元秀親子は度々、丹波国人と諍いを起こしたため、明応4年(1495年)、内藤氏は丹波守護代に復任した。 

 丹波守護代。同国守護を兼ねる管領の細川高国より偏諱(「国」の字)を賜り、国貞と名乗る。
 内藤氏は代々丹波守護の細川氏に仕え、守護代を務めていた。国貞は当初細川高国に仕えていたが、波多野氏など有力国人豪族と手を組みこれに反抗した。高国が没落し阿波出身の細川晴元が台頭すると、高国の残党と結託して引き続き反抗、天文7年(1538年)に晴元に鞍替えした波多野稙通や三好政長の追討を受けて居城の八木城を落とされた。晴元の敵として細川氏綱が挙兵すると氏綱に呼応、天文14年(1545年)に三好長慶に世木城を落とされた。
 しかし天文17年(1548年)に晴元と長慶が対立すると長慶方につき独立した。天文22年(1553年)に丹波で勢力を伸ばしてきた波多野氏に対し、三好氏と組んで八上城を攻め込んだが、波多野氏の後援に現れた三好政勝,香西元成に八木城を落とされ戦死した。
 国貞の死後は三好方の松永長頼が八木城を奪還、長頼は国貞の娘を娶って内藤家の名跡を継ぎ内藤宗勝と称し、一時的に内藤氏の勢力を盛り返したが、やがて宗勝も敗れ没落していった。宗勝と国貞の娘との子がキリシタンとして著名な貞勝(如安)であるとされる。

内藤宗勝(松永長頼) 内藤貞弘(如安)

松永久秀の弟。兄・久秀と同じく三好長慶の家臣となった。
 天文18年(1549年)7月、江口の戦いに勝利した三好長慶が細川氏綱を擁して上洛すると、同年9月には長頼は細川氏綱より山城国山科七郷を与えられ、また同年、天龍寺領西岡長井荘の下司職に就任した。天文19年(1550年)7月、京都を追われた将軍・足利義輝や細川晴元が近江国の六角定頼とともに京都に攻め込んだが、戦線は膠着し、同年11月、長頼が近江国坂本に侵攻して放火、三好方の挟撃を恐れた義輝は中尾城を焼いて堅田に退いた(中尾城の戦い)。天文20年(1551年)2月、長頼は兄・久秀とともに近江に攻め込んだが敗北した。同年7月、細川晴元方の三好宗渭,香西元成が3,000の兵で京都に攻め込むと、久秀・長頼兄弟は摂津・河内・大和から40,000の軍勢を集め、相国寺で打ち破った(相国寺の戦い)。
 天文22年(1553年)9月、長頼は久秀とともに丹波国に出陣し、波多野元秀の一族で晴元方に付いた波多野秀親の居城・数掛山城を包囲。その際、晴元方の援軍として現れた香西元成,三好宗渭に背後を突かれ、長慶方の丹波守護代・内藤国貞が戦死した。落城の危機に瀕した国貞の居城・八木城には、国貞の娘婿となっていた長頼が急遽入り、守り抜いた。
 内藤氏の家督は、長頼の子で国貞の孫にあたる千勝(のちの貞勝)が継ぎ、長頼はその後見人として八木城に在城した。千勝の家督継承に当たっては、天文22年(1553年)11月、丹波守護格の細川氏綱が奉行人の茨木長隆を通じて、国貞と長頼の契約により長頼の子・千勝が内藤氏の家督を継ぐと丹波の国人らに伝えている。しかし、これでは決着が付かなかったためか、天文23年(1554年)3月、国貞との契約により長頼が家督を継ぐところ、長頼の配慮によりその子の千勝が継ぐと氏綱が説明し、氏綱を支える三好長慶や長頼自身も書状を発給している。長頼はこの直後「松永蓬雲軒宗勝」と名乗り、出家することで内藤家を乗っ取る意思がないと表明したものとみられる。
 晴元方の波多野氏との戦いを任された宗勝は、永禄2年(1559年)12月までに波多野秀親や波多野次郎を帰順させて、波多野元秀の八上城を奪っており、八上城には一族の松永孫六が入った。氷上郡黒井城の赤井時家・荻野直正父子も播磨国三木に追ったとみられ、宗勝は丹波のほぼ全域を席巻することとなった。
 宗勝は儒学者の清原枝賢と交流があり、その祖父・宣賢が記した『貞永式目抄』を枝賢から与えられている。そこには、永禄2年(1559年)3月付で枝賢が書き加えた奥書があり、「丹州太守蓬雲宗勝」とある。当時、独自の裁定で所領安堵を行うようになり、丹波国内の寺院へ禁制を発給するようになっていた宗勝は、丹波の太守とも称されていた。
 永禄3年(1560年)、波多野元秀の与党とみられる丹波牢人が若狭に逃れていたのを、逸見経貴の加勢もあり打ち破った。同年9月には丹後の金剛心院に禁制を出すなどしており、若狭や丹後で軍事行動を繰り返している。また、若狭では武田氏からの自立を目指す逸見氏が武田氏と争っていたが、宗勝は逸見氏に味方した。
 永禄4年(1561年)、子の千勝が備前守貞勝と名乗っているのが確認でき、貞勝は永禄3年(1560年)12月までに元服して、名実ともに内藤家当主の地位に就いたと考えられる。しかし、貞勝は何らかの理由で家督から外れ、永禄5年(1562年)には宗勝が備前守を名乗り、内藤家の当主となっていた。こうして内藤氏を継承した宗勝を三好長慶が後見することで、摂津守護代だった長慶は細川氏綱の下で同格だった丹波守護代家・内藤氏を従属させることとなった。
 丹波以外でも長慶の下で軍事行動を続け、永禄元年(1558年)5月、義輝・晴元らが近江から上洛を企てると兄と共に将軍山城・如意ヶ嶽で幕府軍と交戦(北白川の戦い)、永禄2年(1559年)と翌3年(1560年)の河内国遠征にも従軍、永禄5年(1562年)の畠山高政との戦い(教興寺の戦い)にも丹波国衆を率いて出陣しており、三好政権下の有力な軍団長であったといえる。
 永禄4年(1561年)6月、宗勝と逸見氏は若狭高浜の戦いで、武田氏とそれに加勢する越前の朝倉氏に敗れた。そのため、丹波の何鹿郡衆は、再興を目指す赤井氏,荻野氏方になったものとみられる。永禄5年(1562年)、波多野元秀も多紀郡内の土豪らに諸役免除の文書を発給し始めており、勢いを取り戻していた。
 永禄7年(1564年)7月に三好長慶が死去して、養子の義継が三好氏の家督を継ぎ、永禄8年(1565年)5月、軍勢を率いて上洛した義継が将軍・義輝を殺害するという永禄の変が起きた。同年8月2日、宗勝は荻野直正と戦って敗れ、700の兵(『言継卿記』によると260名)とともに討死した。場所は天田郡・何鹿郡のいずれかとされる。この後、永禄9年(1566年)2月に、松永孫六が波多野元秀により八上城を奪い返されており、三好氏は丹波を失うこととなった。内藤氏の家督は子の貞弘(如安)が継いだ。

 「如安」はキリスト教の洗礼名ジョアンの音訳名で、諱は貞弘,忠俊。小西飛騨守とも称す。熱心なキリシタンとして知られ、また茶人としても名高い。丹波国の在地領主としてはじまり、小西行長に仕えた後、浪人して最後はキリシタン追放令によりマニラへ追放された。
 天文19年(1550年)頃、三好氏重臣である松永久秀の弟・松永長頼の息子として生まれる。父・長頼は三好長慶の下、部将として活躍し、丹波守護代である内藤国貞の娘婿となっていた。国貞の討死後、長頼は内藤氏の居城・八木城に入り、子・千勝(貞勝)を内藤氏の家督として、その後見を務めた。この後、永禄5年(1562年)には長頼が内藤備前守宗勝と名乗って当主の座についていた。
 三好氏による丹波支配を任された長頼は、永禄2年(1559年)12月には波多野元秀の八上城を陥落させ、黒井城の赤井時家・荻野直正(赤井直正)父子も播磨国三木へと追って、丹波平定を成し遂げたが、永禄8年(1565年)8月、勢力を回復した荻野直正によって討ち取られた。また、この年の春、如安はルイス・フロイス、またはガスパル・ヴィレラによりキリスト教に入信している。
 長頼死後、内藤氏の影響力も低下した。永禄11年(1568年)9月、将軍・足利義昭を奉じて織田信長が上洛すると、永禄12年(1569年)4月、如安は織田信長の後ろ盾により姫宮岡御所領である佐伯荘の代官職を認められた。また同じ月に、宇津氏により押領されていた八木城周辺の10ヶ.村が、信長の命で如安の管轄とされている。この頃から、織田権力の後援の下で徐々に勢力を拡大していった。
 織田信長と足利義昭が対立するようになった元亀4年(1573年)3月、如安は2,000の兵を率いて義昭の警固のため上洛した。上洛した如安は「備前守」を称しており、この時には内藤氏の惣領の地位にあったと考えられる。信長との対決間近となった義昭は、如安に丹波の城を提供するよう求めたが、如安は義昭の軽挙をたしなめ信長の敵とならないよう助言したという。しかし、信長との戦いを選んだ義昭は槇島城へと移り、信長軍に敗れて追放された(槇島城の戦い)。この頃、如安は細川藤孝を通じて信長とも連絡を取っており、義昭とは行動を共にしなかった。
 この後、天正2年(1574年)には、如安はルイス・フロイスとロレンソ修道士を丹波に招いている。
 天正3年(1575年)6月、織田信長は元亀4年(1573年)以来出頭してこないとして内藤氏と宇津氏の討伐を掲げ、明智光秀を丹波に派遣している。この頃の如安の動静は不明だが、光秀による攻撃、あるいは退城勧告などにより八木城は光秀の手に渡ったと考えられる。
 如安はこの後、天正9年(1581年)4月には備後国鞆の足利義昭のもとにいた。その後、肥後国で小西行長に仕え、重臣に取り立てられた。天正18年(1590年)、肥前国有馬で行われたコエリョの葬儀に行長の名代として参加しており、この頃から小西姓を名乗っている。
 天正20年(1592年)に始まる文禄の役では、如安は明との和睦交渉の使者となり、北京へ赴いて万暦帝に拝謁した。この時、如安は小西飛騨守と名乗っており、当時の朝鮮の高官・柳成竜が記した『懲毖録』では「小西飛」と表記されている。
 慶長5年(1600年)9月、主君・行長は関ヶ原の戦いで西軍として戦い、処刑された。行長が支配した肥後南部は加藤清正の支配下に置かれ、キリシタンを含む小西旧臣たちも清正に召し抱えられたが、清正はキリシタンたちに棄教を迫った。このため、如安は肥後を離れることとなる。
 慶長8年(1603年)頃、如安は加賀前田家に客将として迎えられ、4,000石を与えられた。前田家にいたキリシタン・高山右近の執り成しによるとされる。
 慶長18年(1613年)12月、徳川幕府より伴天連追放令が出された。翌慶長19年(1614年)1月、如安は妻や4人の子、長男・トマスの子4人や高山右近らと共に近江国坂本へ移送され、その後長崎に移された。同年9月24日、如安は高山右近や妹のジュリアたちと共にルソン島のマニラに追放された。到着先のマニラでは礼砲とともに迎えられるなど、総督らによる手厚い歓迎を受けた。
 寛永3年(1626年)、如安は死去した。マニラの聖ヴィンセント・デ・ポール・パリシュ教会に終焉の地の記念碑が建てられている。如安が縁となり、八木城のあった旧・八木町とマニラは姉妹都市となり、八木町合併後の南丹市も姉妹都市提携を継続している。

内藤ジュリア 内藤貞勝

 父は松永長頼、母は内藤国貞の娘。兄に内藤如安。夫は丹波の国人という。1587年に夫は死去したという。一度は仏門に入ったものの、慶長元年(1596年)頃、洗礼を受け、ジュリアと名乗る。大名夫人たちへの布教活動を行い、主な人物としては豪姫を改宗させた。慶長11年(1606年)に日本で初めての女子修道会ベアタス会を京都に設立する。
 慶長19年(1614年)、禁教政策により兄・如安や高山右近らと共に呂栄(ルソン島)に追放される。配流後も日本女性13人と聖ミカエル会(旧・修道女会)を結成した。
 寛永4年(1627年)2月11日、死去(享年62)。

 天文22年(1553年)、内藤国貞が討死すると、国貞の居城・八木城には国貞の娘婿である松永長頼が入り、その後見のもと、内藤家の跡目は貞勝に継承された。永禄4年(1561年)6月には、「内藤備前守貞勝」の名で知行宛行の書状を発給している。しかし翌永禄5年(1562年)には、内藤蓬雲軒宗勝と名乗っていた父・長頼が「備前守」を称するようになっており、貞勝は何らかの理由で当主でなくなっている。以後の動静は不明である。
小西如清 小西主殿介

 小西家の家業は薬屋で、小西隆佐の長男として生まれる。養子としたという事実は確認されていないが、宣教師の残した文書の記述に混乱があり、古くから養子説もあった。現在の定説では、如清は、大名小西行長,小西行景の実の兄に当たり、小西主殿介は異母兄弟とされる。
 元亀4年(1573年)に将軍・足利義昭が織田信長によって追放された京都の動乱の際には、父と共にルイス・フロイスら宣教師の警固に加わった。天正7年(1579年)、洗礼を受けてキリシタンとなった。洗礼名はベントとされる。熱心な信者で、バテレン追放令に際しては、1588年、イエズス会のアクアヴィーヴァ総長に苦境を伝える手紙を出した信徒11名の連著の中に加わった。
 文禄3年(1594年)、隆佐の死後、豊臣秀吉より生前に父が歴任していた堺代官に任じられ、石田三成の兄・正澄と連携して職を果たした。
 関ヶ原の戦いの後、小西行長の妻ジュスタと共に捕えられ、行長の子息(氏名不詳)の裁判のために京都に送られたとする記録があるが、その最期は定かでない。

 小西行長の庶兄または弟(末弟)とされ、行長が肥後宇土城主となると、隈庄城を預けられ城代となった。一説には子であるとされる小西忠右衛門も後に城代となったという。『肥後国誌』では隈庄城主とされる。
 天正17年(1589年)天草五人衆の反乱では先鋒を任された。この時、水野勝成(当時小西家に仕官し千石を与えられていた)が副将として付いた。
 文禄の役当時は1万石を領して一門最高の禄高を有し、渡海して外甥にあたる宗義智とともに梁山城を攻略する手柄を立てた(梁山城の戦い)文禄2年(1593年)1月8日、平壌城の戦いで3倍以上という明の大軍に敗戦して城外脱出する際、行長らを逃がすために、数十名の手勢で殿軍を務めて、壮絶な戦死を遂げた。

 

小西行長 小西おたあ

 永禄元年(1558年)、和泉国堺の商人・小西隆佐の次男として京都で生まれた。はじめ備前岡山の商人の家に養子として入り、商売のために度々宇喜多直家の許を訪れていたが、その際に直家に才能を見出されて抜擢されて武士となり、家臣として仕えた。織田氏の家臣・羽柴秀吉が三木城攻めを行っている際、直家から使者として秀吉の下へ使わされた。この時、秀吉からその才知を気に入られ、臣下となる。
 豊臣政権内では舟奉行に任命され、水軍を率いた。天正13年(1585年)には摂津守に任ぜられ、また豊臣の姓を名乗ることを許される。同年の紀州征伐では、水軍を率いて参戦したが、雑賀衆の抵抗を受けて敗退したといわれている。また一方で、太田城の水攻めでは、安宅船や大砲も動員して攻撃し、開城のきっかけを作ったともいわれている。
 天正13年(1585年)小豆島で1万石を与えられた。 これに前後して、天正12年(1584年)には高山右近の後押しもあって洗礼を受けキリシタンとなる。小豆島ではセスペデス司祭を招いてキリスト教の布教を行い、島の田畑の開発を積極的に行った。また、天正15年(1587年)のバテレン追放令の際に改易となった右近を島に匿い、秀吉に諫言している。
 天正15年(1587年)の九州征伐、天正16年(1588年)の肥後国人一揆の討伐に功をあげ、肥後の南半国宇土,益城,八代の三郡20万石あまりを与えられた。天正17年(1589年)、肥後では宇土古城の東の地に新たな宇土城を築城し本拠とした。鎌倉時代末期に宇土氏によって築かれた宇土古城とともにみると、鶴が翼を広げているように見えたことから「鶴の城」の異名を持つ。この宇土城普請に従わなかった天草五人衆とは戦になり(天草国人一揆)、これを加藤清正らとともに平定。天草1万石あまりも所領とした。秀吉は、後の朝鮮出兵を視野に入れて、水軍を統率する行長を肥後に封じたという。
 この頃、天草は人口3万の2/3にあたる2万3千がキリシタンであり、60人あまりの神父、30の教会が存在したという。志岐氏の所領である志岐には宣教師の要請によって画家でもあるイタリア人修道士(イルマン)ジョバンニ・ニコラオが派遣され、ニコラオの指導下で聖像学校が営まれ、油絵,水彩画,銅版画が教えられ聖画・聖像の製作、パイプオルガンや時計などの製作が行われていた。学校は後の文禄3年(1594年)、有馬半島八良尾のセミナリオと合併し、規模を拡大したが、これらイエズス会の活動に行長は援助を与え保護した。
 行長の宇土城は水城として優れた機能を持っていたというが、秀吉の意を受け、相良氏統治時代からこの地域の海外貿易の中心地であった八代(徳淵津)にも、麦島城を築城して水利を強化し、重臣の小西行重を城代として配置した。行長は従来の山頂にあった古麓城を廃して、麦島城を球磨川と八代海に面する河口の島に建て、堀から外水を引き入れて浮城としたので、直接、船で出入りできた。このほか隈庄城,木山城,矢部城,愛藤寺城を支城とし、隈庄城に弟の小西主殿介、愛籐寺城に結城弥平次ら一族重臣を城代に任じている。また高山右近の旧臣(キリシタン)が多く家臣に取り立てられた。しかし、残りの肥後北半国を領した清正とは次第に確執を深めることになった。
 文禄元年(1592年)からの文禄の役に際しては、行長と加藤清正の両名が年来先鋒となることを希望していたが、秀吉は行長を先鋒として、清正は2番手とした。出陣に際して秀吉より大黒の馬を贈られている。戦端が開かれると釜山の攻略を皮切りに、次々と朝鮮軍を破り(釜山鎮の戦い,東莱城の戦い,尚州の戦い,忠州の戦い)、清正に先んじて漢城を占領し、さらに北進を続け平壌の攻略を果たす(大同江の戦い)。この間、行長は度々朝鮮側に対して交渉による解決を呼び掛けているが、何れも朝鮮側が拒絶または黙殺している。その後、平壌奪還を図った祖承訓率いる明軍の攻撃を撃退した。この平壌の戦いでは弟・小西与七郎と従兄弟・小西アントニオ、一門の日比谷アゴストのほかに著名な者の戦死者はなかった。その後、この明軍に対して講和を呼び掛け、50日間の休戦と講和交渉の同意を取り付けた。次に朝鮮軍が平壌を攻撃したがこれも撃退する。
 行長は休戦期日を過ぎても講和交渉の明側の返答を待ち続けていたが、この間、明では李如松率いる4万余の朝鮮派遣軍を編成し、平壌に向かって進行していた。文禄2年(1593年)1月に明軍による平壌攻撃が行われると、抗しきれず漢城まで退却する。同年5月に島津忠辰が仮病を使って出陣を拒否し改易された際には身柄を預かるなど、国内でも活動した。漢城周辺の日本軍は、進撃してきた明軍を碧蹄館の戦いで破った(このとき行長軍は漢城に駐留)。その後、戦意を喪失した明軍と兵糧不足に悩む日本軍との間に講和交渉が開始される。行長は石田三成と共に明との講和交渉に携わり、明側の講和担当者・沈惟敬らと共謀し、秀吉には明が降伏すると偽り、明には秀吉が降伏すると偽って講和を結ぼうとする。この時、行長家臣の内藤如安(明側の史料では小西飛騨)が日本側の使者として明の都・北京に向かった。
 この結果、明の使者が秀吉を日本国王に封じる旨を記した書と金印を携えて来日することになった。冊封の内容はアルタン・ハンのものを先例とし、順化王の王号と金印を授与するものであった(秀吉の王冊封以外にも行長、大谷吉継ら和平派諸将が大都督、行長家臣が都督指揮に任じられる)。これは明の臣下になることを意味するもので、秀吉が求めていた講和条件は何ら含まれないものだった。これを秀吉に報告する段階で行長は、書を読み上げる西笑承兌に内容をごまかすよう依頼したが、承兌は書の内容を正しく秀吉に伝えた。このため講和は破綻し、交渉の主導者だった行長は秀吉の強い怒りを買い死を命じられるが、承兌や前田利家,淀殿らの執り成しにより一命を救われる。
 慶長2年(1597年)からの慶長の役でも再び出兵を命じられ、特に講和交渉における不忠義の埋め合わせのため武功を立てて罪を償うよう厳命されて朝鮮へ進攻する。漆川梁海戦で朝鮮水軍を殲滅し、南原の攻略戦(南原城の戦い)に参加後、全州を占領し全羅道方面を制圧した後、順天倭城に在番。翌慶長3年(1598年)9月末から10月初めにかけて行われた順天倭城の戦いでは、戦いに先立って明将・劉綎から講和が持ちかけられ、行長はこれに応じて交渉に臨もうと城を出たが、これは行長を捕縛しようとする明側の謀略であった。この謀略は明側の不手際のため寸前のところで窮地を脱し城内に駆け込んで籠城することができた。続いて明・朝鮮軍による水陸からの攻撃が開始されたが、これを撃退する。その後、秀吉死去による帰国方針が伝えられ、明軍と交渉して円滑な帰国を認める旨の同意を取り付けた。しかし、朝鮮水軍の李舜臣の反対で、海上封鎖による帰国妨害が続けられたが、島津義弘等の救援により無事帰国することができた。
 慶長3年(1598年)8月に秀吉が死去すると、行長は12月に帰国する。その後は寺沢広高とともに徳川家康の取次役を勤めるなど、むしろ家康との距離を近づけているが、慶長5年(1600年)の家康による会津征伐に際しては上方への残留を命じられた。その後に起こった関ヶ原の戦いでは、石田三成に呼応し西軍の将として参戦する。
 9月15日の関ヶ原本戦では、東軍の田中吉政,筒井定次らの部隊と交戦して奮戦する。しかし小早川秀秋らの裏切りで大谷吉継隊が壊滅すると、続いて小西隊・宇喜多隊も崩れ、行長は伊吹山中に逃れた。9月19日、関ヶ原の庄屋・林蔵主に匿われた。行長は自らを捕縛して褒美をもらうように林蔵主に薦めたが、林はこれを受けず、竹中重門家臣の伊藤源左衛門,山田杢之丞の両名に事情を話し、共々行長を護衛して草津の村越直吉の陣に連れて行った。10月1日に市中引き回しの後、六条河原において石田三成,安国寺恵瓊と共に斬首された。その際、行長はキリシタンゆえに浄土門の僧侶によって頭上に経文を置かれることを拒絶。ポルトガル王妃から贈られたキリストとマリアのイコンを掲げて三度頭上に戴いた後に首を打たれたと伝えられる。処刑後、首は徳川方によって三条大橋に晒された。死に臨んで告悔の秘蹟を同じキリシタンであった黒田長政に依頼したが、家康の命もあって断られ、処刑当日も司祭が秘蹟を行おうとしたが接近できず受けることができなかった。遺体は改めて秘蹟を受けた上で絹の衣で包まれ、カトリックの方式で葬られた。教皇クレメンス8世は行長の死を惜しんだと言われる。 

 安土桃山時代の朝鮮人女性。文禄・慶長の役の際に日本に強制連行され、のちにキリスト教に改宗して、現代に伝わる洗礼名「ジュリア」を得て、日本名「たあ」と合わせて「ジュリアおたあ」と呼ばれる。
 彼女を猶子とした小西行長が関ヶ原の戦いに敗れて刑死した後、勝者である徳川家康の侍女となったが、禁教令が出てもキリシタンとしての信仰を捨てなかったため、伊豆諸島へ流刑となった。
 出自は戦乱の中で戦死または自害した朝鮮人の娘とも、人質として捕虜となった李氏朝鮮の両班の娘ともいわれる。生没年や実名,家系などの仔細は不明であるが、生き別れた弟と思われる人物が、朝鮮出兵に参加した毛利家の家臣として村田安政として一家を立て、長州藩士を経て現代まで家系が存続しており、おたあが送った書状3通、安政が家康に拝謁した際に下賜されたと思われる三つ葉葵(徳川家家紋)入り小袖が萩博物館に寄贈されて現存している。
 文禄の役において、朝鮮征伐軍により平壌近郊で保護されたのち、キリシタン大名の小西行長に身柄を引き渡され、小西夫妻のもとで育てられる。保護された際、名を聞かれ「オプタ(없다 無い)」と答えたのが転じて「おたあ」と呼ばれるようになったという説がある。行長夫人のもとでキリシタンの洗礼を受け、ジュリアの名がついた。行長夫人の教育のもと、とりわけ小西家の元来の家業と関わりの深い薬草の知識に造詣を深めたといわれる。
 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにて敗れた行長が処刑され小西家が没落すると、美しく聡明なジュリアの評判を聞いた徳川家康が大奥に召し上げ、伏見城で御物仕(正室の食事係)となった。昼に一日の仕事を終えてから夜に祈祷しキリスト教の教理書を読み、他の侍女たちをキリスト教信仰に導いたとされる。伏見教会のロドリゲス・ジラン神父は、1605年『イエズス会年報』の中で、高麗(朝鮮半島の意?)生まれでキリシタンの侍女、ジュリアについて報告し、熱心な信者としての様子を「茨の中の薔薇」と評した。
 慶長11年(1606年)春、家康は江戸城にジュリアを伴った。家康の許可を得て江戸城下につくられたフランシスコ会の天主堂(教会)の神父アルフォンソ・ムニョスは、1607年2月、スペイン領フィリピンの中心であるマニラの管区長への報告書の中で、天主堂のミサに通う侍女のジュリアについて触れている。
 家康は岡本大八事件を機にキリシタンを排除するようになり、慶長17年(1612年)にキリシタン禁教令を出した。ジュリアはキリシタン棄教の要求を拒否した上、家康の側室への抜擢に難色を示したため駿府より追放され、伊豆大島在島30日で新島に、さらに15日後に神津島へと流された。どの地においても熱心に信仰生活を守り、見捨てられた弱者や病人の保護や、自暴自棄になった若い流人への感化など、島民の日常生活に献身的に尽くしたとされる(おたあはその教化で島民からキリシタン信仰を獲得したとも言われるが定かではない)。また、3度も遠島処分にされたのは、そのつど赦免と引換えに家康への恭順の求めを断り続けたこと、新島で駿府時代の侍女仲間と再会して、一種の修道生活に入ったことなどが言及されている。セバスチャン・ヴィエラ神父の1613年『年度報告』、1619年度『イエズス会年報』のロドリゲス・ジラン神父の報告書には、ジュリアの消息が記載されている。1622年2月15日付『日本発信』のフランシスコ・パチェコ神父の書簡に、おたあは神津島を出て大坂に移住して神父の援助を受けている旨の文書があり、のちに長崎に移ったと記されている。その後の消息および最期については不明である。

 

小西行景

 小西隆佐の3男で母は小西マグダレーナ。兄に小西行長などがいる。兄・行長が南肥後半国を与えられると、5,000石を与えられ宇土城代とされた。天正17年(1589年)、天草国人一揆の鎮圧で活躍。
 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは留守居役として宇土城を任され、同じく家臣の南条元宅と内藤如安と共に守備した。加藤清正が来襲すると麦島城(八代城)の小西行重,薩摩島津氏に援軍要請の使者を発し、守りを固めた。この使者は加藤軍に捕らえられたため連携は阻止されたものの、加藤家重臣で水軍を率いた梶原助兵衛を海戦で撃破、討ち死にさせるなど善戦した。その采配は敵方からも高く評価されたという。
 行景は10月まで持ちこたえたが、20日、行長家臣の加藤吉成,芳賀新伍の両名が行長自筆の書状を持って宇土に到着し、西軍が大敗したことを伝えると、抵抗を諦めた。自分が腹を斬るから城中の家臣全員の助命して欲しいと訴え、これを条件に23日に開城し、翌24日、言葉通りに熊本城下の下河元宜の屋敷で小西若狭守と共に切腹した。墓は、行景の行為によって助命され、加藤清正家臣となった南条元宅により、後に禅定寺に造られて葬られた。現在も南条の墓と隣接して行景の墓がある。
 行景には、忠右衛門と七右衛門の男子2人がおり、忠右衛門は小西家臣・白井某によって宇土落城の際に鹿本へ落ちのびた。忠右衛門の子孫は小材氏を名乗り、七右衛門の子孫は津田氏を名乗り、それぞれ武家として存続した。