<藤原氏>北家 秀郷流

F910:内藤重清  藤原房前 ― 藤原魚名 ― 藤原秀郷 ― 内藤行俊 ― 内藤重清 ― 内藤忠興 F911:内藤忠興

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内藤忠興 内藤義概(頼長)

 天正20年(1592年)2月1日、徳川家康の家臣・内藤政長の長男として生まれる。
 慶長19年(1614年)、大坂冬の陣のときに父と共に安房国の留守を命じられたが、血気盛んで武勇に優れていた性格の持ち主である忠興は、兵を率いて伏見城にまで参じ、家康の側近中の側近であった本多正信に参陣を頼み込んだという。正信は家康に相談し、家康はこれを喜んで許し、井上正就配下のもとで参陣させている。
 慶長20年(1615年)3月、父が1万石の加増を受けたとき、忠興も冬の陣における功績で1万石の所領を与えられた。同年の大坂夏の陣では酒井家次に従って参陣して武功を挙げ、この功により1万石を加増された。元和8年(1622年)、政長が磐城平藩7万石に移封されたとき、忠興は陸奥泉藩に2万石を領する大名となった。寛永11年(1634年)、父が死去すると家督と所領を受け継ぎ、それまでの所領であった泉は弟の内藤政晴に相続させた。
 その後、忠興は藩政に力を注ぎ、新田開発や検地などの農業政策、厳格な税徴収などを行ない、平藩の石高を実質的に2万石も増加させた。寛文10年(1670年)、長男の義概に家督を譲って隠居する。延宝2年(1674年)10月13日に死去した。享年83。

 寛文10年(1670年)12月3日、父の隠居により家督を継ぐ。このとき、弟の遠山政亮に1万石を分与して湯本藩(のちの湯長谷藩)を立藩させた。藩政においては領内に防風林を植樹したり、仏閣や寺社の再建に励んだ。また、奥州俳壇の始祖と呼ばれるほどの教養人であり、和歌の方面では「夜の錦」,「桜川」,「信太の浮鳥」,「六百番俳諧発句集」,「六百番勝負付」,「七十番句会」など、多くの著作を残している。また、儒学者の葛山為篤に命じて磐城風土記の編纂に当たらせた。また近世箏曲の父と言われる八橋検校を専属の音楽家として五人扶持で召し抱えたこともあり、八橋の作品には義概の作詞になる曲もあるという。
 『土芥寇讎記』の息子・義孝の項目に拠れば、「父(義概)は酒宴を好み、女色に耽る」とされている。
 義概の跡継ぎ候補には次男の義英、3男の義孝がいた(長男の義邦は早世)。晩年の義概は俳句に耽溺して次第に藩政を省みなくなり、藩政の実権を小姓出身の家老・松賀族之助(木下重堅の孫)に任せていた。しかし松賀は己の権勢だけを考えた藩政を行い、領民に対して重税を強いて苦しめた。野心旺盛な松賀はさらに、自分の息子を藩主にすることを画策し、美貌の妻を義概の側室として差し出した。松賀の妻はこの時既に妊娠していたが、松賀はこれをひた隠し、義概は大した疑いも持たずに彼女を側室にした。
 病弱だがそれなりに有能であった藩主候補の義英は、松賀にとっては邪魔な存在であったため、松賀は義英の排除を画策した。義英を酒色で堕落させようとしたが、これに失敗した松賀は次に、義概に対し義英を讒言した。義英と親しい浅香十郎左衛門は、松賀の専横を憂慮してその排除を企んだが、計画が漏れて捕らえられた。これを好機と見た松賀は義概に対し、「義英が義孝を殺して、自分が跡継ぎになろうとしている」と讒言した。もともと義孝は義概が50歳を越えてから生まれた息子だったため、義概はこの息子を溺愛しており、義英を差し置いて跡継ぎにしたいと考えていたこともあり、義概はこの讒言を鵜呑みにすることで、浅香を切腹に処し、義英も病弱を理由に廃嫡して蟄居処分にした。
 松賀はさらに義孝も暗殺し、義概の側室が生んだ、つまり自分の子を義概の跡継ぎにして藩主に据えようと画策したが、延宝8年(1680年)4月、松賀の専横を憎む小姓衆の大胡勝之進,山本金之丞,山口岡之助,井家九八郎,篠崎友之助らの5人によって、松賀の腹心であった山井八郎右衛門夫婦が殺害されたため、この計画は失敗に終わった。これら一連の事件の通称を「小姓騒動」といい、小姓の5人も後に切腹・自殺した。松賀の主家乗っ取り計画は頓挫したものの、この騒動の影響はその後も続いた。
 貞享2年(1685年)9月19日に死去した。享年67。跡を義孝が継いだ。

内藤義英 内藤義孝

 明暦元年(1655年)、磐城平藩の第3代藩主内藤義概の次男として生まれる。母は松平忠国の娘。長兄の義邦が早世したため、本来なら世子に指名されるはずだった。しかし父の寵臣である松賀族之助の讒言に加え、父・義概は50歳近くになって生まれた弟の義孝を溺愛していたことにより、病弱を口実として父に廃嫡され、一時幽閉された。このため、貞享2年(1685年)に義概が死去すると、義孝が家督を継ぐこととなった。
 義英は藩政には口出しせず、江戸麻布の屋敷で隠居生活を送った。もともと父の義概も風虎という俳号を持つ俳諧大名であり、義英もその影響を受けたものと思われるが、義英は「露沾」という俳号を名乗って松尾芭蕉や榎本其角らと交遊し、元禄4年(1691年)に刊行された芭蕉七部集のひとつである『猿蓑』の春の巻の冒頭では、義英の句が採用されている。
 享保3年(1718年)に第5代藩主・義稠が死去すると、第6代藩主の座を義英の長男の豊松(政樹)が継ぐこととなり、義英は幼少の政樹の後見人として藩政を代行した。そして父の代から藩で続いていた政治的混乱「小姓騒動」の鎮静化に努め、政樹が成長すると実権を譲って藩政から引退し、再び俳句活動に専念する。また、義英の影響で家中より福田露言,水間沾徳など俳人としても知られる家臣を輩出した。
 著作として、『露沾公句集』という句集がある。享保18年(1733年)に死去した。享年79。

 第3代藩主・内藤義概の3男。長兄の義邦は早世し、次兄の義英も松賀族之助による讒言や病弱を理由に廃嫡されたことに加え、父が義孝を藩主に据えたいという希望もあったことから世子に選ばれた。貞享2年(1685年)に父が死去したため家督を継いだ。
 父や次兄と同じく、俳諧に興味を示して「露江」と呼ばれる俳号を持つ優れた俳人として知られた。しかしその一方で、父のように俳句に耽溺せず、松賀一派の専横を抑えることにも努めた。藩政においては湯本神社の建設(元禄8年(1695年))など、藩政の安定化に努めたことから、初代藩主・内藤政長に次ぐ名君とまで称された。ただし『土芥寇讎記』に拠れば、義孝当人は「文も学ばず武も学ばず、武芸にも励まず、朝夕猿楽にのめり込んで浪費している」と書かれており、その影響か「家人ども、猿楽を好みて、謡・仕舞・囃子等にのみ心をとられ、武芸に励む人一人もなし」という藩状態であったとされており、「主将の器とするには足りず」と断されている。
 正徳2年(1712年)に病死した。享年44。跡を次男の義稠が継いだ。義孝が所要した具足と言われる「紺糸素懸縅二枚胴具足」が、宮崎県延岡市の文化財として現在も保存されている。

 

内藤義稠 内藤政樹

 元禄12年(1699年)9月16日生まれともされる。兄の義覚が早世したため嫡子となり、正徳2年(1712年)に父の義孝が病死したためその跡を継いだ。しかし藩政に見るところもなく、享保3年(1718年)に早世した。嗣子がなかったため、従弟にあたる政樹(伯父・内藤義英の長男)が跡を継いだ。
 死因は病死とされるが、松賀族之助・松賀孝興父子による毒殺説もある。 

 父の義英は祖父の義概によって廃嫡され、政樹が生まれた当時は江戸で隠居生活をしていた。享保3年(1718年)に先代の藩主・義稠が22歳の若さで嗣子もなく早世したため、義英の子である政樹が跡を継いだ。しかし若年のため、しばらくは義英が藩政を後見することとなった。
 翌年正月、政樹の新藩主就任祝いとして、松賀族之助・松賀孝興親子から饅頭が献上された。これを怪しんだ義英が饅頭を犬に食わせてみたところ、たちまち犬は死んでしまった。若年の藩主のもとで藩政を牛耳り、あわよくば藩主の座をも狙っていたものの、政樹の後見人としてかつての政敵であった義英がいる以上、それは不可能であると判断した松賀が、政樹の毒殺を謀ったものといわれる。義英は松賀族之助・孝興親子とその一派を全て捕らえた。取り調べの結果、主犯は老齢の族之助自身ではなく、息子の孝興であると判明した。義英は孝興を投獄し(のち獄死)、族之助とその孫の松賀稠次に対し永蟄居を命じた上、松賀家を断絶処分とした。さらに、松賀親子の腹心・島田理助をも処刑するなどの厳しい処断を下した。こうして、延宝8年(1680年)から始まった(実際の騒動の始まりはこの年以前からともいわれる)一連の政治的混乱「小姓騒動」は完全に沈静化した。
 その後、義英は再び俳句に専念したため、政樹が藩主として親政を行うようになる。ところが当時の磐城平藩では、小姓騒動などの混乱や松賀一派の悪政などによる重税で苦しめられた領民の不満、洪水や凶作などの天災と藩財政破綻などが相次いでいた。このため、元文3年(1738年)9月に元文百姓一揆と呼ばれる大規模な百姓一揆が発生する。この一揆では2万人もの群衆が城下に押し入って役宅や町役所を破壊したりしたが、政樹はこれを力によって弾圧し、百姓の要求を退け、指導者28人を捕らえてそのうち7人を鎌田河原で処刑した。しかし、この百姓一揆発生などの懲罰として延享4年(1747年)、日向延岡に転封された。なお、陸奥国磐城平から日向延岡への転封は、江戸時代を通じて最も長距離の大名の転封である。転封すると三福寺を藩主家の菩提寺とする。
 宝暦6年(1756年)、養嗣子の政陽に家督を譲って隠居した。明和3年(1766年)、61歳で死去した。 

内藤政陽 内藤政脩

 藩の財政悪化のため、家臣の半知借上や俸禄制の改定を行ったが、明和3年(1766年)の時点で借金は10万5563両という莫大なものであり、焼け石に水程度の改革でしかなかった。
 明和5年(1768年)、本小路「川手口」(現社会教育センター)に学問所(学寮)と武芸所(武寮)を設立し、学寮では、朱子学の山本与兵衛を監督、白瀬道順を講師、佐久間左膳を儒学執行に命じた。全国的に見ても比較的早い時期(全国280藩中50番目くらい)、日向諸藩では最初の藩校開設である。学寮は嘉永3年(1850年)に「廣業館」と改称された。
 明和7年(1770年)10月29日、家督を婿養子の政脩に譲って隠居する。天明元年(1781年)閏5月24日、江戸で死去した。享年43。

 宝暦2年(1752年)10月25日、尾張名古屋藩主・徳川宗勝の14男として名古屋で生まれる。幼名は徳十郎、元服時に、次兄で尾張藩主を継いだ徳川宗睦より偏諱を与えられて松平睦精と名乗る。明和7年(1770年)に延岡藩の第2代藩主・内藤政陽の養子となり、内藤政脩に改名した。10月29日に政陽が隠居すると家督を継いだ。
 天明の大飢饉による大被害で農村は荒廃した。このため、藩財政がさらに悪化したため、御用金・献上金などで急場をしのいだ。安永2年(1773年)からは新田開発を行い、倹約令を出し、文武を奨励し、風紀粛清のために「延岡若蓮中議覚書」を出しているが、いずれもほとんど効果はなかった。寛政2年(1790年)8月20日、養子の政韶(養父・政陽の長男)に家督を譲って隠居する。
 文化2年(1805年)7月24日、延岡で死去した。享年54。 

内藤政順 内藤政義

 寛政8年(1796年)2月15日、江戸で生まれる。文化3年(1806年)に先代藩主の政和が若死にしたため、その跡を継ぐこととなった。蝋・和紙・菜種などの生産にも力を注ぎ、物産方役所や紙方会所を開設し、専売制を強化した。一方で自らの倹約には熱心ではなく、当時延岡に滞在した佐藤信淵から批判を受けたとされる。1812年(文化9年)、宮崎神宮の社殿を造営した。
 天保5年(1834年)8月21日に39歳で死去した。嗣子がなく、繁子の実弟で養嗣子の政義が跡を継いだ。墓所は神奈川県鎌倉市の光明寺。
 政順の没後、髪をおろし充真院と称した繁子は、紀行記である「五十三次ねむりの合の手」,「海陸返り咲ことばの手拍子」,「三下りうかぬ不調子」,「午のとし十二月より東京行記」、延岡の日常を記した随筆である「色々見聞きしたる事を笑ひに書」など多くの著を残した。

 近江彦根藩主・井伊直中の15男。井伊直弼(直中の14男)の異母弟に当たる。
 文政3年(1820年)3月3日に生まれ、彦根での元服後の初名は直恭といった。天保5年(1834年)7月、藩主であった兄・直亮(直中の3男)の招きで、兄・直弼とともに彦根から江戸へ赴く。嗣子のいなかった延岡藩主・内藤政順の養子候補者に挙げられたためである。その結果、選ばれた直恭は政順と養子縁組し、政義と改名した。なお、直弼は翌年8月に彦根へ帰国し、以後は長らく部屋住みとなった。
 天保5年(1834年)10月13日、養父・政順の死去により、家督を相続した。同年12月、従五位下能登守に叙任された。藩政においては天保12年(1841年)、嘉永元年(1848年)の相次ぐ飢饉における救済対策,軍制改革,学制改革,新田開発などの改革に従事している。嘉永3年(1850年)、藩校学寮を「廣業館」と改称した。
 文久2年(1862年)10月24日、養嗣子の政挙に家督を譲って隠居した。明治21年(1888年)11月18日に69歳で死去した。 

内藤政挙

 嘉永5年(1852年)5月10日、遠江掛川藩主・太田資始の6男として江戸で生まれる。万延元年(1860年)に延岡藩の第7代藩主・内藤政義の養子となり、文久2年(1862年)10月24日に政義が隠居したため家督を継いだ。
 幕末の動乱の中で、政挙は実家の太田家、養子先の内藤氏ともに徳川家譜代の家臣だったことから、佐幕派として行動し、元治元年(1864年)の第1次長州征伐、慶応2年(1866年)の第2次長州征伐では幕府軍の一員として参戦した。
 慶応4年(1868年)1月の鳥羽・伏見の戦いの際には政挙は在国していたが、大坂駐在の藩兵が旧幕府軍の命令を受けて警備の任を受けていたことから、新政府より朝敵と認定される。政挙の代わりに京都に詰めていた重臣の小林祐蔵は直ちに弁明を行うとともに、薩摩藩や熊本藩に周旋を依頼している。政挙も2月7日に新政府に従う旨の誓約書を薩摩藩に提出している。その後、上京して弁明することを命じられた政挙は4月5日に入京して新政府による糾問を受けた後、5月10日になって部下(大坂駐在の藩兵)の不行届を理由に謹慎100日余の処分を受けたものの、責任者とされた部隊長2名は釈放され、これによって事実上の赦免とされた。戊辰戦争では甲府城勤番など後方警備のみを命じられた。
 明治2年(1869年)6月の版籍奉還で延岡藩知事に任じられ、明治4年(1871年)7月の廃藩置県で藩知事を免官された。その後、東京へ移り慶應義塾に学ぶが、眼病のため退塾した。しかし、原時行など多くの旧藩士を慶應義塾で学ばせている。明治9年(1876年)に宮中勤番に任じられ、さらに明治14年(1881年)には宮中祗候に任じられる。明治17年(1884年)の華族令で子爵に列せられた。
 明治23年(1890年)に西南戦争や明治17年(1884年)の延岡大火で衰微した旧領の復興と教育振興のため延岡に戻って定住した。その後、小林乾一郎を家令に任命して家政を改革させた。また、藩校の系譜を引く亮天社を中学校として整備し、宮崎県立延岡中学校へとつなげた。加えて、女子教育のため女児教舎を設立し、延岡高等女学校へと発展させていくが、県庁所在地を除いた地方における女子中等教育の先駆的事例である。延岡中学の県立移管後も、高等女学校は昭和期まで内藤家が経営にあたった。さらに笠原鷲太郎を招聘して日平銅山の経営に着手した。明治29年(1896年)3月には銅山内に日平尋常小学校を設立して従業員子弟の教育に配慮している。
 明治43年(1910年)1月には延岡電気所を設立した。電力事業は築港とあわせ、今日の旭化成につながる日本窒素の工場誘致の呼び水となり、今日の延岡市の経済的基礎を築くこととなった。大正元年(1912年)9月には見立尋常小学校を設立するなど活躍した。近代の宮崎県における有数の資産家であり、なおかつ慈善事業や教育活動に熱心だった。延岡城には、政挙の偉業を顕彰する銅像が建てられている。昭和2年(1927年)5月23日に死去した。享年76。