<藤原氏>北家 秀郷流

F914:内藤信成  藤原房前 ― 藤原魚名 ― 藤原秀郷 ― 内藤行俊 ― 内藤重清 ― 内藤信成 ― 内藤信照 F915:内藤信照

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内藤信照 内藤信良

 文禄元年(1592年)伊豆国韮山に生まれる。多病のため弟の信武が嗣子となっていたが、元和5年(1619年)に信武が夭折、再び嗣子となった。元和7年(1621年)、従五位下豊前守となる。寛永3年(1626年)に家督を継ぎ、同4年采地を陸奥国白川・菊多および常陸国多賀の3郡に移されて、棚倉城を居所とした。寛文4年の「内藤信照宛領地朱印状」では5万90石となっている。
 棚倉においては正保4年(1647年)8月からの大規模な検地を行なって、藩政の基礎を固めた。また寛永6年(1629年)紫衣事件で配流となった玉室宗珀の身柄を預かっている。慶安2年(1649年)から承応元年(1652年)まで大坂城代も務めた。
 寛文5年(1665年)1月19日に死去。享年74。跡を子の信良が継いだ。
 葬地は福島県棚倉町の光徳寺、のち小石川無量院(廃寺)に改葬され、現在は新潟県村上市の光徳寺に墓所がある。 

 寛永2年(1625年)江戸に生まれる。同10年(1633年)に徳川家光に拝謁し、18年(1641年)に従五位下摂津守となった。寛文5年(1665年)に襲封し、豊前守に改める。同11年9月、弟の信全に新田5000石を分与し、このため棚倉藩の所領は4万5000石となった。
 寛文13年(1673年)、嫡男の信貞が早世した。後嗣として再従弟の弌信を迎え、延宝2年(1674年)に家督を譲った。元禄8年棚倉において死去、享年71。
 葬地は棚倉町の光徳寺、のち小石川無量院(廃寺)に改葬されたと伝えられる。現在は新潟県村上市の光徳寺に墓所がある。
 棚倉藩内藤家は浄土宗の熱狂的な帰依者と推測し、また念仏講が盛んに行なわれたとしている。

内藤信庸 内藤信親

 正徳4年(1714年)、村上藩主内藤弌信の7男として生まれる。元文3年(1738年)12月7日、8代将軍・徳川吉宗に披露され、延享4年(1747年)5月3日、養父・信朋の遺領を継いだ。宝暦6年(1756年)2月28日、西の丸弓頭となり、同年12月18日、布衣の着用を許される。同11年(1761年)西の丸小姓組番頭を経て本丸付となり、12月18日に従五位下越前守に叙任された。
 明和2年(1765年)8月15日より書院番頭に転じ、安永4年(1775年)に職を辞した。
 天明元年(1781年)12月11日、江戸において死去。享年68。葬地は三田魚籃寺とされている。養嗣子の信智は明和4年(1767年)5月26日に死去したため、家督は信智の子信義が継いだ。娘は久世広景に嫁いでおり、幕末の旗本・筒井政憲は外孫に当たる。 

 幕府の要職を務めた父と同様、幕閣では寺社奉行,大坂城代,京都所司代,老中を歴任した。嘉永4年(1851年)から11年にわたり老中を務め、幕政の中枢を担ったが、文久の改革で公武合体の失敗の責任などを問われ、お役御免となる。
 実子の信任が早世していたため、岩村田藩内藤家から信民を養子に迎え、元治元年(1864年)に隠居して家督を譲る。戊辰戦争では奥羽越列藩同盟に加わり、明治新政府軍に抵抗した。ちなみに、対応に苦慮した信民は自害している。そのため岸和田藩岡部家から信美を改めて養子に迎えた。
 戦争終結後の明治元年(1868年)、明治政府から罪を問われ謹慎処分を受けた。明治7年(1874年)に63歳で死去した。 

内藤信民 内藤信美

 初名は正民という。万延元年(1860年)5月2日に遠縁に当たる越後村上藩主・内藤信思の養嗣子となる。文久3年(1863年)12月19日、将軍徳川家茂に拝謁する。元治元年(1864年)1月27日、従五位下豊前守に叙任する。後に紀伊守に改める。同年4月26日、養父・信思の隠居により家督を継いだ。幕末期の動乱の中では終始、佐幕派として行動し、第2次長州征伐においても功績を挙げている。
 慶応4年(1868年)2月15日、病気を理由に重臣を上洛させる。同年3月、新政府に恭順を申し入れる。しかし、藩論を勤王にまとめることはできなかった。同年5月、村上藩は奥羽越列藩同盟に参加し、新政府と交戦状態となる。一時期は善戦したが、越後長岡藩が新政府軍によって破られ、村上藩が危機的状況に陥ると、失意に暮れて7月11日(異説として7月16日)深夜、城内にて自殺した。享年19。墓所は新潟県村上市本町の光徳寺。
 信民には嗣子がなかったため、後に信思の養嗣子・信美が跡を継いだ。また、信民が自殺したことで村上藩は大混乱となり、家老である佐幕派の鳥居三十郎が主導権を把握した。信民の死から1ヶ月後の8月11日、村上城は新政府軍によって落城している。 

 慶応4年(1868年)7月11日に先代藩主の内藤信民が自害すると、村上藩は大混乱となり、8月11日には村上城も新政府軍によって落城した。それでも信民の遺志を継いだ家老の鳥居和祚が抗戦したが、鳥居も9月末には降伏した。その後、第7代藩主であった内藤信思は長美を養嗣子として「内藤信美」と名乗らせ、明治2年(1869年)2月3日に信民の跡を継がせた。
 同年6月24日、版籍奉還により藩知事となる。藩内で版籍奉還への反発が強く、藩知事就任が遅れた。同年6月28日、従五位下豊前守に叙任する。同年11月9日、戊辰戦争の影響が収まらず、藩内の対立は続き、信思を政務の補佐に迎える。明治3年(1870年)6月9日、藩内の対立により、政府に進退伺を提出する。明治4年(1871年)7月15日、廃藩置県により罷免されて、東京に移った。明治12年(1879年)10月、隠居して彼の長女と結婚した婿養子に家督を譲った。その後、内藤家を去って岡部家に戻ったという。そのため信美の子孫は岡部姓に戻ったという。
 大正14年(1925年)正月20日、69歳で死去した。墓所は東京都渋谷区広尾の東北寺。