<藤原氏>北家 秀郷流

F938:首藤助清  藤原秀郷 ― 藤原千常 ― 佐藤公清 ― 首藤助清 ― 鎌田通清 F939:鎌田通清

リンク
鎌田政清 鎌田政近

 保元元年(1156年)7月の保元の乱で義朝に従って従軍し、源為朝に挑むがとても敵わぬと見て退いている。
 平治元年(1159年)12月の平治の乱では、内裏占拠後の藤原信頼主導の除目で左兵衛尉に任じられる。待賢門の戦いでは義朝の長男・義平とともに平清盛の長男・重盛と戦い活躍。六条河原の戦いで源氏が敗れ、義朝が討死しようとするのを引き止めて義朝の子や大叔父の源義隆、従兄弟の源重成と共に東国を目指して落ちた。
 途中、近江国の落ち武者狩りの苦難に遭いながら義朝主従は政清の舅である尾張国野間内海荘の領主・長田忠致の館にたどり着く。だが、忠致の裏切りにあい義朝は風呂場で殺害され、政清は酒を飲まされて騙し討ちに遭い、忠致の子・景致の手にかかって殺された。享年38。『愚管抄』によると、罠を察知した義朝は政清に自らの殺害を命じたという。
 文治元年(1185年)9月3日、政清の首は義朝の遺児・頼朝によって義朝の遺骨と共に鎌倉の勝長寿院に葬られた。建久5年(1194年)10月25日、政清の娘が勝長寿院で父・政清と義朝の追善供養を行っている。政清に男子が無かったことから、頼朝はこの娘に尾張国篠木庄,丹波国名部庄の地頭職を与えている。政清夫妻の墓は、主君・義朝と同じ愛知県美浜町の野間大坊の境内に現存する。 

 肝付氏平定後の天正5年(1577年)に同氏の拠点であった大隅国志布志城に入って地頭となり、更にその翌年天正6年(1578年)に伊東氏が島津氏によって日向国から追われると、その本拠であった都於郡城に移った。この年に発生した耳川の戦いでは山田有信とともに大友軍を高城で防いで味方の来援まで持ち堪えさせた。その後、沖田畷の戦い,岩屋城攻城戦にも参加する。
 一方、鎌田氏の宗家では鎌田尾張守政年(政近の曽祖父の実兄で、永正生まれの鎌田尾張守政年とは別人)の死後、早世や病弱の当主が相次いだことから、主君・島津義久の命で政年の孫・鎌田政心、その猶子・政良の後継として宗家に入って当主となった。豊臣秀吉の九州平定後の天正19年(1591年)に家老に就任する。
 関ヶ原の戦いで西軍についた島津氏は改易の危機に晒されるが、慶長7年(1602年)、政近は、島津義久・家久(忠恒)の名代として伏見城で徳川家康と会見、その重臣・本多正信との交渉の結果、薩摩藩島津氏の存続と島津氏が匿っていた宇喜多秀家の引渡し、東軍に奪われた佐土原城の返還などで合意に達した。この功績によって慶長9年(1604年)に薩摩国指宿の地頭となり指宿城が与えられた。
 慶長10年(1605年)、京都伏見にて病死。伏見の泉融寺に葬られた後、招魂され薩摩国の福昌寺に墓所が建てられた。 

鎌田政虎 鎌田政冨
 鎌田政近の嫡子として誕生した。天正13年(1585年)、木脇祐昌が地頭として在城する肥後国花の山城への番を仰せ付かった。そこへ向かう途中の8月10日の晩に、花の山城下にて甲斐親英が阿蘇8千町の兵を率いて城を攻めていると聞き知る。政虎は急ぎ城を攻囲する敵勢を打ち破って入城すると、西ノ口の守りを請け負い祐昌と共に防戦に努めた。しかし、防戦虚しく手負いとなり、討ち死にを遂げた。 享年23。なお、この戦いにより城は落城、城主の木脇祐昌ならびに、祐昌を救援に来た相良氏の深水摂津介(深水長智の嫡子)らも討ち死にしている。   鎌田政近の次男として誕生、指宿の地頭を努めた。慶長2年(1597年)に慶長の役に参加し朝鮮国へ渡海する。翌慶長3年(1598年)、豊臣秀吉の死去に伴い、日本軍は11月15日を以って帰陣すると定めていたが、そんな折に順天に残る小西行長らが敵船により海上を封鎖される。島津義弘は小西らの安否を確かめるべく、泗川新城から政冨と敷根頼元を使いに出した。政冨らは敵番船の中を掻い潜り無事に順天へ入ったが、その帰路で逆風に遭い船が大破、敷根頼元共々溺死した。享年32。