| F938:首藤助清 | 藤原秀郷 ― 藤原千常 ― 佐藤公清 ― 首藤助清 ― 鎌田通清 | F939:鎌田通清 | ● |

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| 鎌田政清 | 鎌田政近 |
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保元元年(1156年)7月の保元の乱で義朝に従って従軍し、源為朝に挑むがとても敵わぬと見て退いている。 |
肝付氏平定後の天正5年(1577年)に同氏の拠点であった大隅国志布志城に入って地頭となり、更にその翌年天正6年(1578年)に伊東氏が島津氏によって日向国から追われると、その本拠であった都於郡城に移った。この年に発生した耳川の戦いでは山田有信とともに大友軍を高城で防いで味方の来援まで持ち堪えさせた。その後、沖田畷の戦い,岩屋城攻城戦にも参加する。 |
| 鎌田政虎 | 鎌田政冨 |
| 鎌田政近の嫡子として誕生した。天正13年(1585年)、木脇祐昌が地頭として在城する肥後国花の山城への番を仰せ付かった。そこへ向かう途中の8月10日の晩に、花の山城下にて甲斐親英が阿蘇8千町の兵を率いて城を攻めていると聞き知る。政虎は急ぎ城を攻囲する敵勢を打ち破って入城すると、西ノ口の守りを請け負い祐昌と共に防戦に努めた。しかし、防戦虚しく手負いとなり、討ち死にを遂げた。 享年23。なお、この戦いにより城は落城、城主の木脇祐昌ならびに、祐昌を救援に来た相良氏の深水摂津介(深水長智の嫡子)らも討ち死にしている。 | 鎌田政近の次男として誕生、指宿の地頭を努めた。慶長2年(1597年)に慶長の役に参加し朝鮮国へ渡海する。翌慶長3年(1598年)、豊臣秀吉の死去に伴い、日本軍は11月15日を以って帰陣すると定めていたが、そんな折に順天に残る小西行長らが敵船により海上を封鎖される。島津義弘は小西らの安否を確かめるべく、泗川新城から政冨と敷根頼元を使いに出した。政冨らは敵番船の中を掻い潜り無事に順天へ入ったが、その帰路で逆風に遭い船が大破、敷根頼元共々溺死した。享年32。 |