<藤原氏>北家 秀郷流

F953:波多野経範  藤原房前 ― 藤原魚名 ― 藤原秀郷 ― 藤原千常 ― 波多野経範 ― 河村秀高 F961:河村秀高

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河村秀高 河村秀清

 相模国余綾郡波多野荘を中心に栄えた波多野氏の惣領・波多野遠義の次男として生まれる。秀高は父より所領のうち足柄上郡河村郷を譲られ、河村三郎を称した。波多野氏は相模の在地武士として発展しつつも在京して朝廷に出仕する一族だったが、秀高もまた摂家の藤原忠実に仕えて侍所勾当となり、昇殿を許されていたという。
 秀高は河村氏の祖と扱われ、河村城や山北町の般若院の開祖と伝承されている。河村氏は3男の義秀が治承・寿永の乱で源頼朝に従わなかったため河村郷を奪われたが、4男の秀清が頼朝に出仕して旧領に復帰。子孫はさらに陸奥国,越後国に分布、室町時代には常陸,甲斐,三河,伯耆,石見にも分流した。支族に茂庭氏,荒河氏などがいる。 

 治承元年(1177年)に河村秀高の4男として生まれる。母は源頼朝の御所の女官である京極局
 源頼朝が挙兵した際、兄の義秀はそれに応じず平家側につき、治承4年(1180年)の石橋山の戦いでも大庭景親に同調したが、富士川の戦い後に景親らとともに捕縛された。河村郷を中心とする義秀の所領は没収され、本来ならば斬罪に処されるべきところを、以前より頼朝方であった景親の兄・景義の計らいによって罪を赦されている。9月には本領であった河村郷を安堵され、以後御家人として活動することとなる。義秀が捕縛された時、その弟である千鶴丸は浪人となり母・京極局のもとにいたようである。
 『吾妻鏡』によれば、文治5年(1189年)、若年の千鶴丸は13歳にして奥州合戦に参加、三浦義村らとともに、藤原泰衡の異母兄・藤原国衡がまもる陸奥国阿津賀志山の堡塁を攻めて武功を挙げ(阿津賀志山の戦い)、これに感激した頼朝は、8月12日、船迫駅において、自らの御前で元服させたという。この時の烏帽子親は頼朝からの指名により小笠原長清が務め、「清」の字を与えられて秀清と名乗った。加えて秀清は戦後の論功行賞により、岩手郡,斯波郡の北上川東岸一帯と茂庭の地、そして摩耶郡の3ヶ所に所領を賜った。確証はないが、秀清自身はその中間地である茂庭に居を定めたとする説が有力視されている。また、秀清は備中国川上郡の成羽の地に所領を得て鶴首城を築き、さらに所領の1つである斯波郡の大巻にも大巻城(大巻館)を築いたとも伝えられている。
 以後、河村氏は本家筋の波多野氏とともに北条氏に従い、承久3年(1221年)の承久の乱では兄・義秀とともに幕府方について宇治川で戦い、武功を挙げた。その後は没年を含め不明である。 

茂庭政秀

 文治5年(1189年)の奥州合戦にて武功を挙げた河村秀清は、源頼朝から恩賞として名取,斯波,岩手,耶麻の各郡に所領を与えられると、陸奥国府に近い名取郡茂庭に居館を設けた。秀清没後の遺産分割の際に名取一帯の所領を相続した子・豊宗の子孫が、同地に土着して茂庭氏を称するようになったのが起こりである。
 戦国時代に入り、伊達稙宗が名取郡を支配下に収めると茂庭氏も伊達氏に臣従し、茂庭定直・義秀兄弟が伊達政宗に仕えて数々の戦に従軍した。その功により江戸時代に入り仙台藩が成立すると、茂庭氏は召出の家格を与えられた。元和年間、青葉城近辺を藩主直轄地とするために栗原郡八樟へと移封されて茂庭の地を離れることになったが、元禄16年(1703年)に知行702石を与えられて旧領に復帰し、以後、幕末に至るまで茂庭を治めた。