<藤原氏>北家 秀郷流

F967:伊賀朝光  藤原房前 ― 藤原魚名 ― 藤原秀郷 ― 藤原千常 ― 伊賀朝光 ― 伊賀光宗 F968:伊賀光宗

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伊賀光宗 伊賀兼光
 姉妹である伊賀の方が2代執権・北条義時の後室となり、自身も政所執事を務めるなど、有力御家人として重用されたが、元仁元年(1224年)、義時が急死すると、妹と共に藤原頼経を廃して一条実雅を将軍、甥の北条政村を執権に据えようと画策。政村の烏帽子親である三浦義村にも支援を求めたが、計画は未遂に終わり、信濃国に流された(伊賀氏の変)。しかし、北条政子の死後、罪を許され、所領を回復。寛元2年(1244年)には、評定衆に就任した。康元2年(1257年)1月25日、80歳で死去。

 鎌倉時代末期に六波羅探題の引付頭人兼評定衆となっている。兼光は建武の新政以前から後醍醐天皇に内通し、更に後醍醐天皇と楠木正成とを仲介したとする見解もある。
 建武の新政が始まると若狭守護と国司を兼任し、更に図書頭兼土佐守,大蔵少輔に任ぜられる。一方で雑訴決断所(五畿内担),窪所,記録所,恩賞方を兼任し、新政の役職の中枢を占める幹部として活躍した。しかし新政は2年半で瓦解し、兼光のその後の消息も不明となる。

伊賀久隆 伊賀家久

 久隆の名が現れるのは天文13年(1544年)に清水寺の本堂の再建を行ったという記録からである。この頃から既に家督を継いでいたと考えられる。はじめ松田氏に仕え、後盾である出雲国の尼子氏の下、安芸国の毛利氏に従う備中国や美作国の国人らと争った。だが、尼子氏の衰退により松田氏は次第に東からの浦上氏の圧力に抗えなくなり、永禄5年(1562年)、松田元輝は宇喜多直家との和議に応じ、その際に元輝の子・元賢は直家の娘、久隆は直家の妹をそれぞれ妻に娶り宇喜多氏と婚姻関係を結んだ。この縁により久隆は宇喜多氏との親密になる一方で、日蓮宗への傾倒から領内の統治を混乱させ、諫言を聞き入れなくなった松田親子とは次第に不仲になっていく。
 永禄11年(1568年)、宇喜多直家から邪魔になった松田親子の排除と西の三村氏や毛利氏に備え、松田氏の居城である堅牢な金川城の乗っ取りを打診されると、久隆はこれを承諾する。同年7月5日、松田親子をはじめ松田元脩などの重臣が多く金川城に招かれたこの日を狙い、金川城を包囲。これに呼応して事前に城内に忍ばせていた手勢に拠点を抑えさせて元輝を討ち、金川城を正門の守りを残すのみという状況まで追い込むことに成功。その後、城兵の抵抗に合いつつも7月7日には城を落とし、翌日には城を脱出していた元賢も討ち取り、直家の金川城攻略に大きく貢献する。この戦いによって松田領の一部を加増された久隆の所領は15万石程にまで達し、宇喜多氏に従う諸将の中でも最大級の所領を誇る実力者となる。
 その後は、浦上宗景と断交し毛利氏と結んだ直家に従い、天正6年(1578年)の上月城の戦いに参加するなど活躍した。しかし、翌年に宇喜多氏が毛利氏と敵対する織田氏方へと転じたことにより取り巻く状況は急変。虎倉城は毛利氏との領地の境界を間近に置く最前線となり、侵攻の脅威に晒されることになる。
 天正8年(1580年)3月13日、毛利軍は15000の兵で岡山城の西に位置する辛川口に侵攻し惨敗(辛川崩れ)した後に南下し、本陣を虎倉に程近い備中竹ノ荘へと移すと、備中と美作との連絡路を確保するために虎倉城攻略の準備を始める。これに対する久隆は、あえて地の利を生かせる虎倉周辺まで毛利軍をおびき寄せて結集した兵力で迎え撃つ作戦に出る。そして同年4月14日、緒戦に快勝を収めた毛利軍の先鋒部隊は虎倉城への進軍を開始(虎倉合戦)。伊賀勢は下加茂の山中でこれを強襲、現地の地理に疎い毛利軍を弓隊や遠藤兄弟の指導を受けた精鋭の鉄砲隊が狙い撃ちし、毛利方の先鋒部隊の大将である粟屋元信を始めとする有力武将らを討ち取った。さらに久隆は逃げる毛利軍を追撃し250余人を討ち取りながらも伊賀勢の死者はほぼ皆無という大勝を収める(加茂崩れ)。度重なる大敗にこの遠征に行軍していた毛利輝元もやむなく後事を小早川隆景に任せて安芸へと帰還した。
 これらの活躍を見せていた久隆であったが、天正9年(1581年)4月、突如として謎の急死を遂げた。『桂岌円覚書』に寄れば、宇喜多直家の家臣である河原四郎右衛門尉に毒を盛られたという。これは織田氏への寝返りに不満を持つ宇喜多家臣の流言に騙された直家によって毒を盛られた等いくつかの記述が残っている。また、直家はこの頃「尻はす」という出血を伴う悪性の腫物を患いかなり弱っており、自分の死に際して広大な所領を持つ久隆の存在を危惧したという説もある。

 永禄5年(1562年)の金川城攻めに父と共に出撃した時は与三郎の名乗りである。元服してからは家久を名乗る。
 天正9年(1581年)4月、父・久隆が宇喜多直家に盛られた毒が原因で死去すると、家久は同年8月に小早川隆景の誘いに応じて宇喜多氏を離反し毛利氏に寝返る。隆景以下、穂井田元清,福原元俊,口羽春良,福原貞俊らの毛利氏重臣が名を連ねる連判状が発給され、これまでの知行を安堵された。毛利氏に属し虎倉城に籠城した家久は宇喜多氏に対して徹底抗戦の構えを見せ、小早川隆景から虎倉に程近い勝山城の修造を命じられている。
 同年、毛利氏が宇喜多方の忍山城を攻めた際、家久は勝尾山に陣を敷き救援に来るであろう直家の背後を狙うものの、直家は姿をみせなかったため、近隣の宇喜多春家の守る金山城に攻め込み、制圧こそ叶わなかったが宇喜多方の将数人を討ち取り、武功を挙げる。
 天正10年(1582年)、備中高松城の戦いでは忍山城で中筋の押さえにあたった。翌天正11年(1583年)、毛利氏と羽柴秀吉の間で和議が成立し領地の境界が決定すると、伊賀領は宇喜多氏の区分に組み込まれてしまい、これに難色を示した家久は、虎倉城に籠もり徹底抗戦の構えを見せるが、岳父・明石行雄の説得で天正12年(1584年)秋頃までに虎倉城を退去し毛利氏を頼った。同年9月には小早川隆景より新領が与えられ、備中国大井荘5ヶ村,吉,山内に加えて備後国神辺に一所を与えられたが、これも毛利氏と宇喜多氏の領分が高梁川を境にして分断が決定したことで備中の所領は全て失った(中国国分)。
 天正13年(1584年)2月、毛利輝元から周防国・長門国に新たに300石が与えられ、天正15年(1587年)、小早川隆景が筑前国名島に移封されると、それに従って同地へと渡り、間もなく痢病により没したという。『大日本史料』では、輝元は家久の娘を井原元歳に娶らせて家久の遺領を継承させたと記載されている。『萩藩閥閲録』では没年は文禄3年(1594年)であり、幼少の嫡子・才法師を残して死んだといい、才法師の行く末を案じた母方の祖父である明石行雄が当時の筑前名島の領主である小早川秀秋の家老である山口宗永に宛てた書状が収録されている。