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| 竹中重元 | 竹中重治(半兵衛) |
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土岐氏、斎藤氏の家臣として仕えた。1556年(弘治4年)4月、斎藤道三と子の斎藤義龍が戦った長良川合戦では道三方に味方した。そのため戦後、重元留守中の大御堂の屋敷に義龍勢が来襲したが、妻の妙海大姉,子の重治,重矩が奮戦してこれを退けた。 |
永禄3年(1560年)、父の死去または隠居により家督を相続し、美濃の国主斎藤義龍に仕え、斎藤義龍が死去すると、その後を継いだ斎藤龍興に仕えた。 |
| 竹中重門 | 竹中重矩 |
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父の竹中重治が死去すると一族の竹中重利に後見される。羽柴秀吉の家臣として、小牧長久手の戦い,小田原征伐などに従軍する。この間に天正17年(1589年)に美濃国不破郡に5千石を授けられた。文禄の役では名護屋城に駐屯、慶長の役では軍目付として朝鮮にわたった。朝鮮出兵の戦功により、河内に千石加増される。 |
後世、竹中重治の智謀の代名詞と伝えられる永禄7年(1564年)2月の稲葉山城奪取の際には、稲葉山城に人質として入っていた重矩が病気を装い、兄・重治は、見舞いと称して安藤守就ら十数名とともに城内に入り、主君・斎藤龍興を油断させた隙に稲葉山城を占拠したといわれる。 |
| 竹中重利 | 竹中重義 |
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1579年(天正7年)、半兵衛重治が死去した後に独立し、直に秀吉に仕える。独立の当初は美濃国長松城3000石を領していた。娘が関白豊臣秀次の側室となって、豊臣家の男子をもうけている。 |
元和元年(1615年)に父の後を継いで藩主となり、配流された松平忠直を府内に迎えている。寛永6年(1629年)、前任である水野守信に代わり長崎奉行に着任。彼を長崎奉行に推したのは土井利勝であり、それまでの長崎奉行は幕府の3000石級の旗本から選ばれるのが慣例であり、大名クラスの彼が抜擢されたのは異例であったとされる。彼の時代に壮絶なキリシタンの弾圧が行われた。穴吊りなどの拷問や踏絵が初めて雲仙で行われたという記録が残っている。 |
| 竹中重明 | 竹中重固 |
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竹中重治の子孫で竹中主悦助の長男。外国奉行、神奈川奉行を歴任し、安政6年(1859年)には安政の大獄で、水戸藩の茅根伊予之助に引導を渡す。文久元年(1861年)、病気を理由に隠居し、家督を分家の竹中重固に譲る。郷里美濃岩手(現岐阜県垂井町)の師弟教育にも尽力し、菁莪堂を開設した。出身者にはのちの衆議院議員、神田孝平がいる。 |
父元幸の死後に家督を相続するが、のち、本家である旗本交代寄合(美濃不破郡岩手5000石)竹中重明の養嗣子となる。元治元年(1864年)に大番組入りし、幕府陸軍創設後は陸軍奉行として天狗党征伐や長州征伐で活躍する。慶応3年(1867年)、若年寄並陸軍奉行に就任した。 |