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大和国の国人・越智氏の越智家令の子として誕生。幼名は春竹。 永正4年(1507年)、父・家令が赤沢朝経の大和侵攻の最中に死去したとされ、跡を継いだ。同年、永正の錯乱で細川政元が暗殺され、赤沢朝経も丹後国で戦死した。 しかし、翌年に前将軍・足利義稙が大内義興の後ろ盾で上洛し、それに伴い大和に影響力を持つ細川氏と畠山氏も再び2派に分かれ、大和国人一揆も崩壊、家教と古市澄胤は足利義澄・細川澄元・畠山義英に、筒井順賢,十市遠治らは足利義稙・細川高国・畠山尚順についた。永正13年(1516年)、筒井党に勝利するも翌14年(1517年)に死去。
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越智家広の弟として生まれる。一時楢原家に入ったが、越智家へと戻った。 越智氏では、天文14年(1545年)に当主・家頼が死去した後、養子としていた細川晴元の猶子(細川元常の子)が家督を継いでいた。天文15年(1546年)9月、貝吹山城が筒井軍に攻められ、10月に落城している。この時の貝吹山城主が家増だったかどうかは不明。その後も貝吹山城の奪還を図るが失敗に終わっいる。 永禄2年(1559年)8月、三好氏重臣・松永久秀が大和へ侵攻し、筒井順慶や十市遠勝らを攻めた。すると、筒井氏と敵対していた越智氏は三好氏に味方したのか、永禄3年(1560年)11月に三好方へ城を明け渡した沢氏と三好氏の間を家増が取り持っている。しかし、その後、三好氏とは敵対し、永禄6年(1563年)7月、松永久秀により高取城を攻略された。永禄8年(1565年)に三好氏が松永久秀方と三好三人衆方に分裂した後は、久秀との対立を続ける。永禄9年(1566年)1月、同じく反松永方となった筒井氏から譲られたためか、貝吹山城を回復し、家増が入城を果たした。 永禄11年(1568年)になると、織田信長に奉じられた足利義昭が上洛し、大和一国の支配を認められた松永久秀は、幕府や織田氏の援軍を得て、反松永方への攻勢を強めた。永禄12年(1569年)11月、貝吹山城が松永方の手に渡り、松永方となっていた甥・家高(家増の次兄・楢原某の子)が入り、越智氏の家督は家高が継いだ。元亀2年(1571年)に松永久秀が足利義昭・織田信長から離反すると、家増は信長に従うようになったとみられる。 また同年9月、当主である家高が市尾深介により妻子もろとも殺害されたが、家増が黒幕であるとされている。これにより家増が家督を継いだが、まもなく布施氏より養子を迎えて家督を譲ったと考えられる。天正5年(1577年)8月24日、死去した。
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