清和源氏

G161:源 頼親  源 経基 ― 源 頼親 ― 源 頼遠 G173:源 頼遠

リンク G174・{F825}{NT36}
源 頼遠 石川有光

 通称は福原三郎で柳瀬氏を名乗ったとも。また、陸奥石川氏の祖である。
 父・頼親の土佐配流の原因となった興福寺との合戦に加わらなかったため、処分を受けることはなかった。永承6年(1051年)、安倍頼良が乱(前九年の役)を起こすと、源頼義に従い陸奥に赴いて戦う。康平5年(1062年)、安倍氏の重要な拠点である厨川柵の攻略の際に戦死。兵の指揮は子の有光が引き継ぎ戦功をあげた。戦功により陸奥仙道を下賜された有光は、岩峯寺を建てて父を葬った。

 

 陸奥石川氏2代目当主。摂津国物津荘に生まれ、松千代,河内右馬之允師任,源太有光を称し、柳津に住してから柳津源太を称した。永承6年(1051年)、父とともに源頼義に従い陸奥に下向して安倍氏と戦うが、康平5年(1062年)、厨川柵の戦いで父を失い兵の指揮を引き継ぎ、軍功を以て従五位下安芸守に任ぜられ、奥州仙道七郡(白河・石川・岩瀬・田村・安積・信夫)の中から、石川を中心とした六十六郷の地を与えられた。
 当初、石川荘の泉郷の南、川辺にあった保源城へ住した。泉郷は、阿武隈川を挟んだ西側が古代の東山道が通じ賑わっていた三条目(三城目)郷であり、賑わった土地であることからこの地を本拠地と定めた。しかし、保源城は三方を急勾配に囲まれた山頂にあり、守るに堅牢な城ではあったが、水や交通の便が悪く政務・居住には不向きであった。そのため、南に2km程の中野の地に藤田城を築くが、ここも何某か不便があり本拠とは成らなかった。

大寺光行 矢吹光頼

 寿永2年(1183年)、平家討伐の兵を挙げた源頼朝のもとへ一族の成田光治に兵を与えて派兵する。
 平家滅亡の後、文治5年(1189年)、頼朝は奥州藤原氏を攻めるため、自ら大軍を率いて陸奥白河関に到った。陸奥石川氏7代目当主・広季は病に伏せっていたため、一族の大寺光行を名代として兵を預け、頼朝を迎えさせた。大軍が藤田に到着すると、頼朝は源頼義が勧請した八幡宮に戦勝祈願を行う。この時、頼朝は、石川の館の麓の河隈に明賀の松の影そ映ふ、と和歌を詠んでいる。
 頼朝は、奥州藤原氏を破って奥州を平定した後、志田郡の一部を八幡宮の神料として寄進、鎌倉に凱旋した。光行も石川に帰還した。
 建久元年(1190年)、藤原氏の旧臣・大川兼遠が残党を集めて乱を起こすと、平定の軍に光行を参陣させる。建久8年(1197年)、広季は一族の光行,矢吹光誠を伴って鎌倉で頼朝にまみえ、善光寺詣での先駆けを命じられる。上洛し、広季は従四位下大膳大夫、光行は従五位下兵部少輔、光誠は従五位下刑部少輔にそれぞれ任じられる。 

 矢吹行重の子として誕生。矢吹氏は陸奥石川氏の一門で袖ヶ城を居城とした。
 光頼は石川昭光の家老を務めたといわれる。天正5年(1577年)4月、石川氏の一族・浅川義純が佐竹氏に反逆するが失敗し、居城の浅川城を追われたため、浅川城は昭光に預けられ、城代として光頼が入った。天正10年(1582年)頃には浅川義純・豊純父子が浅川城に復帰している。
 天正17年(1589年)10月の伊達政宗による二階堂氏攻略の際には、石川昭光と共に須賀川城攻めに協力し、落城後は昭光が須賀川城主となり、城代として光頼が須賀川城に入城した。
 天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐が起こると、その後の奥州仕置により、主家の石川氏は改易とされ、矢吹氏は伊達氏に従って角田へ移ったという。