清和源氏

G202:源 頼信  源 経基 ― 源 頼信 ― 森 義隆 G396:森 義隆

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森 義隆 毛利義広

 義家の子の中で一番の長命であり、一族の長老として尊崇を集める。相模に所領を持つ。
 1159年の平治の乱の折、源氏の棟梁・源義朝に従って参戦。平家に敗れて関東へ落ち延びる際、比叡山の龍華越で落ち武者狩りの横川の悪僧の一群と遭遇する。義隆は義朝の次男・朝長とともに義朝の盾となり、悪僧の放った矢にあたって落命した。義朝は義隆の首が敵の手に落ちぬよう、自ら堅田の湖に重しをつけて沈めたという。官職は不明で、位階は六位だったというが、記録によっては信濃守と載せる。おそらくは平治の乱における藤原信頼の除目によるものと考えられる。信頼が逆臣とされたため、正規の人事として記録されなかった可能性もある。子には毛利義広,久下直光、若槻頼隆,高松定隆らがいる。

 父以来の相模国愛甲郡毛利庄を相伝し、鎌倉幕府の御家人となる(源姓毛利氏の祖)。子孫は美濃国に至り、摂津源氏系の美濃源氏の土岐氏をはじめ、斎藤氏,織田氏,豊臣氏,徳川氏と主家を転じ、尾張藩の藩士となる。
毛利広盛 毛利広義

 当初、美濃斎藤氏に仕えていたが、織田信秀の家臣に転じ、その後、織田信長,豊臣秀吉,徳川家康,徳川義直に仕える。最終的には尾張藩士となって先祖代々の地を安堵され、尾張藩の重臣として重要な役割を果たした。先祖は毛利義広といわれ、源姓毛利家13代当主となる。広盛と同じく斎藤家から織田家へと転じた森氏の当主・森可成とは同じ祖先を持つ関係にある。
 毛利家の家伝である『毛利文書』によると、天文6年(1537年)8月6日、織田信秀が毛利広盛に八朔祝儀を謝すと記録されている。ただ、広盛はこの折には幼少のため、父・毛利広包の誤りか、もしくは父の代参として名義が使われたか、詳細は不明である。
 永禄6年(1563年)、織田信長が広盛に対して合戦で討死にした親(毛利広雅、つまり毛利広包)の忠節を讃えるという。天正12年(1584年)6月21日、主君・秀吉より毛利広盛へ忠節により新知及び本知都合2660貫文を宛行うとされ、同日、広盛へ知行方目録が下された。さらに、同文書によると、天正17年1589年11月19日には、豊臣家五奉行の増田長盛により、同じ豊臣家中の伊藤秀盛へ毛利広盛に対して知行を渡すよう指示があり、同日中に伊藤秀盛,毛利広盛へ増田長盛の指示により大須,八上,八上川東,野方を渡す旨が記録されている。当時、毛利家は八神村に3000石を知行した。
 関ヶ原の戦いの前哨戦となる東軍方による岐阜城攻め(城主は織田秀信)があった折、広盛は西軍に就き、援軍として杉浦重勝の竹ヶ鼻城の二の丸を守っていたものの、攻め寄せてきた福島正則の降伏の勧めに従い開城したと記録されている(竹ヶ鼻城の戦い)。その後、徳川家康の家臣となり、家康の命により尾張藩祖となる義直の重臣として仕えることとなった。関ヶ原の後、1000石の減知があって2000石となるが、旧領の八神村を安堵され、八神城主として存続する。広盛の子には毛利広之,毛利広義(広高とも),毛利広重がおり、それぞれ尾張藩士となっている。

 広義は八神村に住い、名古屋に出仕した。元和5年(1619年)10月12日死去。
 元和元年(1615年)頃、尾張藩の重臣として登用され、名古屋城へ登城するため、八神街道を開いたと伝わる。八神から名古屋城に登城するためには、八神から渡船で対岸の祖父江へ上り、清洲,枇杷島を経て名古屋という経路を移動するため、通り道の整備を行い、八神渡船を設けた。この通路は江戸中期には、西の大須渡船とも連携するようになり、八神村など近隣の村民などにも渡船を開放されたと伝わる。この渡船は、八神渡船場として発達し、付近には人力帳場や荷役を業とする商業が栄えたという。子孫の記録として『九十九之塵』によれば、毛利広賢なる者の名が記され、上屋敷を片端大津町、下屋敷は古渡村に構え、在所は美濃国安八郡八神村に3000石の知行地を領有したという。

若槻頼隆 若槻頼胤

 平治の乱で父・義隆が討ち死にし、生後間もなかった頼隆も捕らわれて、関東の豪族・千葉常胤の下に配流される。かねて源氏に同情の念をもっていた千葉氏は頼隆を庇護し大事に育てた。頼隆の兄弟は明らかではないが、三郎という名から3男であったと考えられる。長兄が毛利義広となり、次兄は武蔵の武士団、私市党に庇護され久下氏の養子に入り久下直光となった。弟は高松定隆で南北朝時代に南朝方として北畠顕家の配下として活躍した高松氏の祖となる。
 治承4年(1180年)、伊豆に流されていた源義朝の嫡男源頼朝が伊豆国において反平家の兵を上げ石橋山の戦いにおいて平家方の大庭景親らに敗れて房総に逃れると、頼朝方への加勢を表明した千葉常胤の館に入ったという。頼隆は常胤とともに頼朝の前に伺候してその御家人となる。頼隆は頼朝の前に出ると、頼朝は頼隆が源氏の孤児であることに温情を示し、大軍を引き連れて随身した千葉常胤よりも上座に据えるなどの厚遇を施したという。
 その後、源氏勢は平家を追い詰め、とうとう壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼした。鎌倉幕府が成立すると、頼隆は源氏一門として従五位下・伊豆守に叙せられた。その後も頼朝の信任厚く、養和元年(1181年)6月には、頼朝が相模国三浦に納涼のために訪れた際には先導の武者として同行させた。また、建久元年(1190年)10月、頼朝上洛に際しては後詰として付き従った。頼朝の死後、その冥福を祈り出家して森蔵人入道西阿と号したという。さらに3代将軍・源実朝の死後、後鳥羽上皇による北条義時追討の院宣が下され、承久の乱が勃発。頼隆は千葉胤綱に附属せられ、鵜沼の渡の大将を務めるなど活躍した。謀叛の疑いで源氏の一門が次々と討ち死にしていく中、同じ源氏ながら鎌倉幕府の御家人して頼隆は命を長らえ、北条執権体制が確立した後も草創期からの鎌倉幕府を知る人物として幕府から頼りにされていた。特に執権・北条義時などは国政については万事頼隆に相談したとされ、慕ったという。しかし、執権として幕府の権力を握る北条氏に対してかねて対抗心を燃やしていた有力御家人の三浦泰村が反北条の兵を挙げると、頼隆は三浦家の縁戚として時の執権・北条時頼を敵に廻して戦うこととなった。これが世にいう宝治合戦である。北条方が三浦方の動静を探った折、頼隆のことを「森蔵人入道は極めて大剛の者にて、奇計を運し候はば難儀たるべし」として、その武勇を恐れたという。しかし、武運及ばず頼隆は息子4人とともには討ち死にを遂げることとなる。しかし、頼隆の嫡男・若槻頼胤は千葉氏の下にあり、千葉氏の属下として長らえる。この後、若槻氏の嫡流は千葉氏の下を離れ、信濃国の豪族となり、庶流の押田氏は千葉氏の重臣となる。

 頼胤は下総守を称して千葉氏に仕えた。子の頼広は押田氏の祖となる。押田氏は千葉氏の庇護を受け、子孫は千葉氏に近侍、江戸時代には幕府の旗本となる。江戸幕府12代将軍・徳川家慶の生母である香琳院は押田氏の娘である。また、若槻姓を受け継いだ子孫は信濃国の国人となり、後に村上氏の配下となる。 
押田直勝 押田於楽

 北条氏の旧領に徳川家康が入部し、押田豊勝が徳川氏に召し出されると、押田氏はしだいに家運を上げ、押田直勝の代に至り、用人として登用され常陸国茨城郡に知行を与えられる。さらに、直勝は5代将軍・徳川綱吉の嫡男・徳松の傅役に抜擢され、江戸城西ノ丸に移り、上総国夷隅郡に300石を加増されて、総計2,200石を知行する大身となった。押田氏は代々、旗本として存続する。

 

 押田氏の家運が最も高まったのは、10代将軍・徳川家治に仕えた押田勝長の代である。勝長は徳川家斉に仕えていたが、於楽は天明7年(1787年)に大奥に入り、最初は家斉の義妹・種姫の婚儀に従って紀州藩の奥向きに仕えた。大奥に復帰後に第11代将軍・徳川家斉の側室(於楽御方)になり、さらに寛政5年(1793年)に12代将軍・徳川家慶を生み香琳院と称された。次いで御年寄上座に昇進し、また家慶が将軍世子となったため、次期将軍の生母として大奥の女中たちから畏敬されるに至る。文化7年(1810年)5月20日、家慶の将軍就任を待たずに病没した。墓碑は東京都台東区谷中の徳川家墓地に現存する。