清和源氏

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武田信重 武田信守

 応永24年(1417年)、上杉禅秀の乱で父・信満が縁者の上杉氏憲(禅秀)に与して敗戦、自害を余儀なくされた後、剃髪して高野山に入り一命は助けられた。
 ちなみに武田氏は叔父の武田信元が継いでいたが、無能だったため、甲斐源氏嫡流の座を取り戻そうとし鎌倉公方・足利持氏と結び反抗を続ける逸見有直を押さえきれずにいた。また、国政も重臣の守護代・跡部明海に牛耳られていたため、上総の武田信長の力で跡部氏を排除しようとして信長の子・伊豆千代丸を養子に迎えようとしたが、果たせていなかった。
 還俗した信重は永享12年(1440年)、結城合戦を契機に復帰し、この合戦で結城持朝を討ち取るなど武功を挙げた。その後、家督を継いで当主となり、将軍・足利義教と信濃守護・小笠原氏の後援の下で叔父の時代に専横を極めていた跡部明海・景家父子を降参させて甲斐に入国した。しかし、その後も領内経営は安定しなかった。
 宝徳2年(1450年)11月、信重は黒坂太郎を討伐中に穴山伊豆守(実名不明)に殺害された。享年65。伊豆守は穴山満春の実子とされ、信重が次男の信介を養嗣子として穴山家に送り込んだため、それを恨んで引き起こしたものとされる。
 跡を子の武田信守が継いだ。墓所は、『国志』によれば信重の居館跡と伝わる山梨県笛吹市石和町の成就院であるという。

 父の信重が宝徳2年(1450年)に没したため家督を継いだ。しかし、実権は守護代・跡部氏に握られており、政治面では目立った事跡も残せぬまま、当主になってわずか5年で死去した。守護代である跡部氏の打倒を遺言したというが、定かではない。子の信昌が跡を継いだ。
八代の能成寺の開基であり、墓もそこに現存する。


武田信昌 武田信縄

 父・信守の早世により、康正元年(1455年)幼くして家督を継ぐ。父も若年での相続であったこともあり、信昌期の武田氏は守護代の跡部明海・景家の専横を許していた。
 長禄元年(1457年)には小河原合戦、馬場合戦において一門の吉田氏や岩崎氏らを失い、寛正5年(1464年)に明海が死去すると、翌年には信濃国諏訪領主・諏訪信満の援助を受け夕狩沢合戦において跡部景家を撃破し、小田野城において景家を自害させる。
 跡部氏を排斥したものの、有力国人領主の台頭や対外勢力の侵入に悩まされた。文明4年(1472年)、信濃国佐久郡の国人・大井政朝八代郡へ侵攻して花鳥山合戦を行い、延徳2年(1490年)には穴山氏・大井氏との合戦を行った。また、『勝山記』などには信昌期に飢饉や疫病の蔓延、一揆の発生などの記事が散見している。
 信昌は長期にわたり国主の立場にあり、国人勢力や対外勢力を撃退し、後代の譜代家臣層のなかに「昌」の偏諱を持つものが多いことから甲斐国の国内統一を進展させたと評される一方で、晩年には国内を二分する内乱を招いた。
 信昌は明応元年(1492年)に子の武田信縄に家督を譲って隠居し、矢坪の永昌院を創建して菩提寺としている。また「落合御前」と呼ばれていることから、万力郷落合に館を構えていたと考えられている。
 信昌は病弱な信縄を嫌い武田信恵(信縄の弟)に家督を譲りたいと思い始め、信縄と彼を支持する国人達と甲斐を二分する抗争を始めた。のち、甲斐の混乱に乗じ侵攻してきた伊勢長氏(北条早雲)の介入に対抗するため一旦は和睦したが、再度、信縄と抗争している最中に59歳で死去した。

 延徳3年(1491年)、父・信昌の隠居により家督を継いで武田家第17代当主となる。しかし、信昌は信縄の異母弟・油川信恵を後継者に望むようになり、やがて信縄と信昌・信恵の間で争いが勃発した。『勝山記』ではこの争いを「甲州乱国の始まり」と記している。
 甲斐に侵攻してきた相模の伊勢盛時(北条早雲)に対抗するため、明応7年(1498年)に信縄は信昌・信恵と一時的に和睦し、文亀元年(1501年)に再び盛時が侵攻してきた際にはこれを破った。しかし、危機が去ると和睦は破綻し、再び父・弟と干戈を交えることとなる。しかし永正2年(1505年)に父・信昌が死去すると一転して優位に立ち、自身の家督の座を完全なるものとした。
 しかし生来から病弱だったらしく、永正4年(1507年)2月14日に病死。享年37。跡を子の武田信虎(当時は信直)が継ぎ、信虎の代で甲斐国内の統一がほぼ達成された。

勝沼信友 勝沼信元

 武田信玄(晴信)の叔父にあたる。武田氏の第14代当主・武田信縄の子として生まれる。生母は信縄の正室である崇昌院とされている。安芸守を受領名として称したと言われるが、当時の史料から確認はできない。
 永正4年(1507年)には父の信縄が死去し、武田宗家は兄の信直(信虎)が継ぐ。信直は郡内の有力国衆であった小山田氏を服従させているが、信友は小山田氏の備えとして東郡勝沼郷を領し「勝沼」姓を称しており、勝沼には戦国期の城館と伝わる勝沼氏館跡が残り、国の史跡に指定されている。
 『勝山記(妙法寺記)』天文4年(1535年)8月22日記事によれば、信虎が甲斐南部の河内領万沢口において駿河の今川氏輝と争った際に、今川氏支援のため郡内へ侵攻した相模の北条氏綱との山中湖畔における合戦で討死した(山中の戦い)。 

 大永6年(1526年)、勝沼信友の子として生まれる。武田家では重臣を務め、250騎を率い、信玄の出陣中には留守居役をも担当していた。天文4年(1535年)に父が北条氏綱との戦いで戦死したため、家督を継いだ。天文11年(1542年)の諏訪頼重攻めから武田晴信に従って戦争に参加し、以後は晴信の信濃攻略などで功績を挙げた。
 永禄3年(1560年)の上杉謙信関東侵攻の際、調略により武田氏に謀反を企てたが、のち謀反の証拠となる文章が発見されて、11月3日に武田信玄の命を受けた山県昌景に誅殺された。上杉方の武蔵秩父谷の藤田右衛門佐重利を甲斐へ引き入れようとしたとの説がある。これにより勝沼氏は断絶した。信元の子息の信就は、天目山の戦いの後に相模国今宿村に数名の家臣と落ち延び先祖菩提のために剃髪して、日閑と名乗り、日蓮宗妙厳山信隆院の開基となった。日閑は、眼病を患い失明し、明暦2年(1656年)に没した。日閑の子息に頼快、孫に早世した女子がいた。

松の葉(理慶尼) 油川信恵

 はじめ雨宮氏に嫁ぐ。兄の勝沼信元が永禄3年(1560年)に謀反を企て、武田信玄の命を受けた山県昌景に誅殺された際、松の葉は雨宮織部正良晴(のちに景尚)に嫁していたが、雨宮家に累が及ぶことを懸念して離縁したという。
 勝沼信元もしくは勝沼今井氏の滅亡後、勝沼に所在する大善寺の慶紹を頼り、剃髪して尼となり理慶尼と号し小さな庵室を構えて暮らした。大善寺に来た時に懐妊しており、子を産むが男女は不明。
 織田信長の甲州征伐が勃発すると、天正10年(1582年)3月3日、新府城から落ち延びた武田勝頼一行が大善寺に立寄る。勝頼は、兄の仇の子息ではあるが快く迎えて、同寺薬師堂に勝頼,勝頼夫人,武田信勝を迎えて理慶尼と4名で寝所を供にした。勝頼はここで小山田信茂の裏切りを知り、天目山に向かっている。
 その後、武田家のことを物語調に『理慶尼記』に記し、高野山引導院へ納めたという。慶長16年(1611年)8月17日、大善寺で82歳で没した。子孫は代々大善寺の近くにあったが、享保年間に絶えている。

 武田信昌の子で武田信縄の弟。母は郡内地方の領主小山田氏の女で小山田信隆は従兄弟。山梨郡油川に拠り油川姓を名乗った。勝山城城主。
 父にかわいがられ、兄・信縄と争う。伊勢盛時が甲斐に侵攻してきた際は兄と和解し盛時を撃退したが、危機が去った後は再び兄との争いを継続している。永正2年(1505年)、父の病没により兄と和解。 永正4年(1507年)、その兄が病没すると同母弟の岩手縄美や小山田氏と共に再び反抗するが、永正5年(1508年)、信縄の子・武田信直(のちの武田信虎)に居城を襲撃され、子の信貞や弟の縄美らと共に戦死。以後、この信虎によって武田氏は戦国大名化していくことになる。信虎の子の武田信玄の側室・油川夫人はこの信恵の孫に当たる。

油川信貞 岩手縄美

 父とされる油川信次は油川信恵の子孫で、信恵が永正5年(1508年)に滅亡した後に生き残った油川信友の孫にあたる。『寛永諸家系図伝』によれば、油川信次は天正3年(1575年)5月21日の長篠の戦いにおいて討死したとされるが、仁科盛信の子孫が作成した正徳2年(1712年)の『八王子信松院江納候由緒之控』では長篠合戦以降も存命し、天正10年(1582年)3月の武田氏滅亡後に仁科盛信の次男・武田信貞を保護したとする異説を記している。
 武田氏滅亡後は天正壬午の乱を経て甲斐を領した徳川家康に仕官し、知行38貫文を安堵された。関ヶ原の戦いにも東軍に属して参陣し、大坂の陣では伏見城在番を務めたという。寛永2年(1625年)10月には武蔵国都筑郡,上総国埴生郡,武射郡に350石を与えられたという。『寛永伝』によれば、寛永3年(1626年)に70歳で死去したという。

 武田信昌の4男で武田信玄の大叔父に当たる。甲斐国山梨郡岩手郷を所領としたため、岩手氏と称した。永正2年(1505年)に父が、永正4年(1507年)に長兄・信縄が相次いで死去し、甥(信縄の嫡男)の武田信虎が武田家当主になると、次兄・油川信恵と共に信虎に対して叛旗を翻した。
 『高白斎記』によれば、永正5年(1508年)10月4日の勝山合戦で信虎に大敗し、信恵やその一族と共に戦死した。これにより、信縄の時代から続いていた武田家の家督相続問題は終焉し、信虎の当主の地位が確立した。岩手家自体は存続を許され、家督は遺児の信盛が継いだ。

曽根昌世 曽根虎盛

 信玄の奥近習衆を経て足軽大将となり、騎馬15騎・足軽30人を与えられた。信玄の嫡男・武田義信による義信事件の際、義信の乳母子であった昌世の嫡子・曽根周防守も死罪となったため、一時的に駿河に逃れているが、その後に帰参した。
 相模の北条氏康との三増峠の戦いでは、退却する武田軍の殿軍を務めていた浅利信種が戦死した後、軍監であった昌世が部隊の指揮を引継ぎ、撤退を見事に成功させている。
 『甲陽軍鑑』に拠れば、駿河侵攻に際して真田昌幸らと共に活躍した。武田信玄からは、伊豆侵攻と韮山城攻めの後の偵察において、昌世と昌幸は「信玄の両眼の如き者ども」と信任されていたという。また、駿河花沢城攻めでは三枝昌貞(守友)に次いで2番槍を勝ち取ったという。信玄が駿河を奪った後、昌世は駿河興国寺城代を任された。元亀元年(1570年)の伊豆韮山城攻めでも武功を挙げている。
 信玄没後は勝頼に仕え、天正3年(1575年)の長篠の戦いにも参加したという。天正10年(1582年)3月に武田勝頼が織田信長・徳川家康の連合軍に攻められて滅亡した後は、徳川氏に仕えた(かなり早い時期から徳川に内通していたという説もある)。
 同年6月の本能寺の変による織田信長の死後、徳川家康は一揆軍の蜂起で空白地となっていた甲斐へ侵攻したが(天正壬午の乱)、昌世もこれに参加し活躍する。またこの時に同じく武田旧臣である駒井政直などと共に武田遺臣を徳川氏に味方させるべく天正壬午起請文のまとめ役となり、対後北条家戦に大きく貢献した。天正壬午の乱後にはこのときの功績により武田時代と同じく興国寺城城主となったが、程なく出奔している。
 『信直記』によれば、天正18年(1590年)には蒲生氏郷に仕える。天正19年(1591年)、同じ旧武田家臣の真田信尹(加津野昌春)らとともに九戸攻めの蒲生軍の一角として出陣している(九戸政実の乱)また、会津若松城の縄張りを行ったとされる。昌世は武田信玄から軍学や築城術などを直接学んでいたと言われており、これらの技能に精通していたとも考えられる。

 武田信玄の奥近習六人衆の一人である曽根昌世の子として生まれたという。信玄の嫡男・武田義信の乳人子であり義信に仕えており、「美和神社文書」によれば、永禄8年(1565年)6月には義信とともに甲斐国二宮美和神社へ太刀を奉納している。同年8月には義信の謀反が発覚し、『曽根系図』に拠れば、義信事件に連座して飯富虎昌,長坂昌国(義信事件に連座し誅されたのは、昌国ではなく長坂勝繁)とともに「曽根周防」が成敗されたという。ただし、「曽根周防」と「曽根九郎左衛門尉」を同一人物とした場合、九郎左衛門尉はこれ以後も存命しているため、「曽根周防」は九郎左衛門尉の弟にあたるとも考えられている。
 元亀年間(1570~73年)以降には駿河国久能城に在城している。年未詳5月8日には曽根弥兵衛尉とともに参府を命じられている。