『甲陽軍鑑』によれば信親は盲目であったといわれ、失明の時期については『甲斐国志』は生まれながらの盲目であったとする説を採っているが、近年は弘治2年(1556年)武田晴信願文写の存在から幼少期の失明であった可能性も指摘されている。 信玄期の信濃侵攻で征服した信濃小県郡の国衆・海野幸義の娘を娶り海野氏の名跡を継承するが、一向宗(浄土真宗)の僧である長延寺実了の弟子となり出家し、竜芳と号した。信親は半俗半僧の身で「御聖導様」と称されている。 天正10年(1582年)、織田信長による甲斐侵攻の際は甲斐入明寺に匿われたものの、天目山の戦いにおける勝頼敗死の知らせを聞くや、同寺で自殺したとも殺害されたとも伝えられる。3月7日、武田家滅亡の4日前に信長の嫡子・織田信忠により殺害されたともいわれる。享年42。 一族の穴山信君(梅雪)の娘を娶り、その間に儲けた子の信道は出家して顕了道快と号し、織田家による残党狩りを逃れたが、大久保長安事件に連座して伊豆大島に流された。紆余曲折を経て赦免された後に江戸幕府の高家として命脈を保った。また、妹の信松院殿に匿われた女子もある。
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高家武田家の実質的初代当主。『甲斐国志』によれば、信道は天正10年(1582年)の武田家の滅亡後、甲府の長延寺において信玄の御伽衆の一人であった実了(母がのちに再嫁していた)の養子となり出家する。織田軍による残党狩りの際には、信濃国安曇郡犬飼村へ逃れ身を潜めていた。本能寺の変で織田信長が横死したのち甲斐国は徳川家康の領地となり、信道は家康と甲府尊体寺で拝謁し、1603年に実了の跡を継いで長延寺2世住職となる。 信道は武田遺臣である大久保長安の庇護を受けたが、長安の死後、慶長18年(1613年)に大久保長安事件に連座して松平康長に預けられた。その際、長延寺の山門楼上より武田家伝来の甲冑,軍配,馬印,軍旗,幔幕などが幕府に没収された。元和元年(1615年)に伊豆大島に配流され、同島の野増に居を構えた。のち同地で没したという。 信道の子孫は子の信正が江戸幕府から赦免されて江戸へ戻り、信正の子の信興が高家に列せられ、現在まで信道の系統が嫡流とされている。
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