清和源氏

G452:小笠原長忠  源 義清 ― 小笠原長清 ― 小笠原長忠 ― 坂西宗満 G461:坂西宗満

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坂西宗満 坂西長国

 南北朝初期の信濃守護・小笠原貞宗の3男・宗満が信濃国飯田郷の地頭職を賜り、飯田郷三本杉に居館を構え、坂西孫六を称したことに始まるという。
 初代の宗満は正中年中(1324年)に生まれ、貞和年中(1345年)頃に三本杉に住し、永和2年(1376年)に死去したという。宗満は坂西を称したのは、既に飯田郷に存在していた坂西氏の名跡を継いだとする説もあるが、その真偽は定かではない。
 伊那郡の坂西氏の伝説によれば、源平合戦のころの淡路国坂西(万歳)城主に近藤六郎周家なる人物がいて源義経に属したが、義経が頼朝から追討の身となり奥州に逃れたときそれに従ったものの越後国で暇を出され、周家は信濃飯田郷に来住、そして、飯田郷を支配下におさめ、故地坂西にちなんで坂西を称したのだという。

 応永7年(1400年)、大内義弘の乱に活躍した小笠原長秀が信濃守護に補任され、長秀は岩村田の大井氏の館を経て善光寺の守護所に入り、政務を執るようになった。しかし、長秀の政治姿勢に対し、国人たちは領主権が侵害されることを恐れて、村上満信を盟主として一揆を組み、守護・長秀に対抗しようとした。
 村上満信を盟主とする一揆勢は9月3日ついに武力蜂起した。一揆勢と守護・小笠原勢は川中島の篠の井付近で双方睨み合い、合戦は25日に始まった。守護方の旗本衆は曼陀羅一揆と称して勇敢に戦った。なかでも獅子奮迅の戦いぶりを見せたのが、坂西次郎長国であった。長国は六尺三寸に余る太刀を振るって勇戦したが、多勢に無勢、ついに守護勢は塩崎城に逃れて籠城せんとした。ところが、長国たちは守護長秀との連絡を絶たれ、大塔の古砦に逃げ込んだ。
 大塔には兵糧もなく籠城兵は馬を殺して食糧にする事態の追い込まれ、ついに10月21日、守護勢のほとんどが討死・自害するなどして果てた。猛将・長国も21歳の若さで自害した。

坂西政之 坂西長忠

 正俊の子・政之の代の天文15年(1546年)、知久頼元と領地争いを起こし、政之は敗北し、松尾小笠原信定,下条信氏の扱いで和睦、知久氏に黒田・南条・飯沼・上野の地を割譲し、さらに知久氏の娘を嫡子・長重の室に迎えている。
 天文年間になると、隣国甲斐の戦国大名・武田氏が信濃に兵を進めるようになり、小笠原長時,村上義清らを信濃から逐い落し、信濃をほぼ制圧したのである。天文23年(1554年)、武田氏は下伊那を制圧、ここにいたって坂西政之は武田氏に帰属し、秋山伯耆守の組下となり軍役60騎を勤めた。

 政之の死後は嫡子・長重が早世していたため、孫の長忠が継いだ。長忠は永禄5年(1562年)に松尾小笠原信貴の領地を押領したため、信貴によって信玄に訴えられた。結果、坂西長忠は武田軍と松尾小笠原軍に攻められ、多勢に無勢で城を脱出して木曽に逃れようとしたが、松尾勢に捕捉され坂西一族はことごとく討死をとげた。