清和源氏

G481:安田義定  源 経基 ― 源 頼信 ― 源 義光 ― 源 義清 ― 安田義定 ― 粟屋元義 G482:粟屋元義


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粟屋元国 粟屋元種

 毛利氏の譜代家臣である粟屋氏の惣領家当主・粟屋元好の長男として生まれる。大永元年(1521年)8月14日、父の元好が63歳で死去。大永3年(1523年)、毛利幸松丸死後の家督相続をめぐって家中が対立した。この時、元国は病だったことを利用し、一族の粟屋元秀を神仏詣でと称して上洛させ、将軍・足利義晴に毛利元就の家督相続を直訴させ、元就の家督相続を認められた。
 享禄2年(1529年)5月2日の安芸国松尾における合戦や、同年8月16日の安芸国山県郡壬生における合戦で戦功を挙げ、元就から感状を与えられた。享禄5年(1532年)7月13日付の毛利氏家臣団32名が互いの利害調整を元就に要請した連署起請文では、23番目に「粟屋掃部助元國」と署名している。
 没年は不明であるが50歳で死去し、長男の元堅が跡を継いだ。 

 大永4年(1524年)、毛利氏の譜代家臣である粟屋元方の次男として生まれ、毛利元就,隆元,輝元の三代に仕える。特に隆元から度々所領を与えられており、天文19年(1550年)12月30日に安芸国実時半名において1町6段半の田地と屋敷4つと本屋敷の上の山、天文21年(1551年)2月29日に安芸国高田郡佐々部の次郎丸名において田地3町1段半と米6石9斗と代4貫文、永禄元年(1558年)7月20日に備後国山中の田原三郎右衛門の先給地、永禄4年(1561年)4月7日に安芸国船木の内の守弘名と所木を与えられた。
 天文24年(1554年)4月11日の矢野における合戦では尾頸丸切り崩しの際に先陣を務め、元就と隆元に感状を与えられた。
 永禄11年(1568年)頃から天正13年(1585年)頃まで毛利氏の奉行人を務めており、毛利氏の五奉行の一人であった赤川元保が永禄10年(1567年)に粛清されたことによって五奉行に加えられたとされる。また、元亀3年(1572年)の毛利氏掟においても奉行衆の一人として名を連ねている。
 永禄12年(1569年)10月に大内輝弘の乱が勃発し、大内輝弘が周防国山口へ侵攻した際、山口奉行の市川経好は北九州へ出征中であったため、留守を守っていた元種と内藤就藤と山県元重や、市川経好の妻などが百余人の守兵と共に高嶺城に立て籠もった。
 天正6年(1578年)には石山本願寺支援のために摂津国木津城の主将として在番を命じられ、その恩賞として備後国山中の田原右京進の先知行分を与えられた。
 天正8年(1580年)4月14日、輝元の備中出陣において先鋒部隊の将を務めていた嫡男・元信が備中国下加茂の山中において伊賀久隆の強襲を受け戦死した。この戦いは元信の他にも児玉元房,井上元勝,奈古屋元賀,小寺就武,三戸元好,宇多田藤右衛門などが討ち取られる大敗であった(加茂崩れ)。嫡男の元信が戦死したことによって元種の後継がいなくなったため、元種の弟である元利の次男・元貞を養子とし、家督を相続させた。
 天正16年(1588年)7月28日に輝元の参議任官式が宮中で行われた際に、元種は国司元蔵と共に折烏帽子と風折狩衣姿で輝元の供として従った。慶長10年(1605年)2月7日に死去。享年82。 

粟屋元信 粟屋就方

 天文22年(1553年)、毛利氏の譜代家臣である粟屋元種の嫡男として生まれ、毛利輝元に仕える。天正6年(1578年)、石山本願寺支援のため、父・元種と共に摂津国木津城に在城した。
 天正8年(1580年)、輝元の備中出陣において先鋒部隊の将を務めたが、同年4月14日に備中国下加茂の山中において伊賀久隆の強襲を受け戦死。享年28。この戦いは元信の他にも児玉元房はじめ多くの武将が討ち取られ、一手の大将を務めた神田元忠が負傷する大敗であった(加茂崩れ)。
 元信の弟・景行は新見景実の養子となっており、元信の戦死によって元種の後継がいなくなったため、元種の弟である元利の次男・元貞が元種の養子として家督を相続した。 

 天文23年(1554年)6月5日の折敷畑の戦いや、天文24年(1555年)4月11日の矢野の戦いにおいて先陣を務め、毛利元就と隆元から感状を与えられ、永禄元年(1558年)6月1日に周防国玖珂郡岩国の内の四郎丸名10貫文の地と、安芸国山里白砂の内の小杖名5貫文の地を給地として隆元から与えられた。
 永禄6年(1563年)頃から元就の命を受けて備中国の三村家親のもとへ赴いており、永禄7年(1564年)1月から2月にかけて香川光景と共に三村氏へ伯耆国出陣を要請した。また、備後国の将兵を率いて備中国へ出陣したりするなど、主に備中方面での軍事行動で活躍する。
 元亀2年(1571年)に元就の病状が悪化すると安芸国高田郡吉田へ一時帰還したが、6月14日に元就が死去。この時、備中国の情勢は逼迫しており、就方不在の間に備後衆が勝手に帰国することを恐れた小早川隆景は、元就死去の翌日に就方へ直ちに備中国へ引き返すよう要請した。就方は同日の夜前に安芸国大通院において焼香を済ませると、元就の葬儀を待たずに直ちに備中国へ引き返した。
 天正4年(1576年)10月4日に将軍・足利義昭が備後国鞆に下向してきた際に、御礼として真木島昭光から天国の太刀一腰を拝領した。天正20年(1592年)4月10日に死去し、子の元相が跡を継いだ。 

粟屋元相 粟屋元通

 弘治2年(1556年)、毛利氏の譜代家臣である粟屋就方の長男として生まれる。慶長8年(1603年)、前年に生まれた毛利就隆の傅役として付けられ、翌慶長9年(1604年)に御抱守側用人として就隆に付けられた奈古屋元忠,福間元道,榎本元信と共に家老となった。
 慶長17年(1612年)に弟の五兵衛が病死したため、同年11月2日に3男の元智に五兵衛の家督と長門国厚東郡吉部郷の内の200石の地を相続させる。元和3年(1617年)4月28日に就隆への領地の打渡が行われて下松藩(後の徳山藩)が成立した際には、萩藩の当職である井原元以から打渡坪付帳を受け取っている。同年7月9日には3男・元智が元相の307石の知行を相続することを毛利輝元と秀就に認められた。
 寛永7年(1630年)5月14日に死去。享年75。嫡男の木工允に200石を分知していたが早くに病死しており、元相の下松藩での500石の知行は幼少の頃から就隆に仕えていた次男の隆方が相続した。 

 粟屋元秀の子である粟屋元宗の子として誕生。弟に粟屋(豊島)就信がいる。天文6年(1537年)に元服し、毛利元就から偏諱を受けて粟屋元通と名乗る。天文17年(1548年)の備後国神辺城攻めに出陣したのを初め、天文24年(1555年)からの防長経略における下松への侵攻や須々万沼城の戦い、永禄10年(1567年)から永禄11年(1568年)にかけての伊予攻めなどで活躍した。それらの功績により、周防国岩国の代官も務め、元亀3年(1572年)の毛利氏掟内でも年寄衆として確認できる。宇喜多氏との戦いにも参加し、桂就宣らと共に備中国飯山城の守将となった。
 毛利元就の勧請によって創建された鳴石山八幡神社を天文2年(1533年)に再建。その際に寄進したと思われる獅子頭が現存している。天正13年(1585年)に家督を嫡子・元定に譲り、慶長12年(1607年)に死去。 

堅田元慶 堅田就政

 永禄11年(1568年)に粟屋元通の次男として誕生。元服前から毛利輝元の近習として召し出されて重用された。天正10年(1582年)1月11日に毛利輝元の加冠状を受けて元服し、「元」の偏諱を与えられて粟屋元勝と名乗る。
 行政手腕に優れていたことから輝元や小早川隆景に信任を受け、子の無かった小早川隆景の養子として認められて、小早川氏の家紋である左三つ巴紋を与えられたが、元慶は養子縁組については辞退した。隆景の養嗣子にはならなかったものの、それ以後も隆景から寵愛を受けており、天正13年(1585年)に隆景が伊予国に移封された際には、隆景の本拠であった三原城を預けられ、隆景の家臣である田坂助右衛門を一所衆として付けられた。
 天正10年(1582年)から天正13年(1585年)までの間に長門国堅田から「堅田」の名字を名乗り、堅田元慶と改名する。天正13年(1585年)11月10日、毛利輝元から周防国玖珂郡山代の内の須川を知行地として与えられた。
 天正16年(1588年)3月11日、毛利輝元が松山源次兵衛(後の三浦元忠)を使者として、椙杜上表の地を元慶に与えた。同年7月、輝元に随行し上洛。豊臣秀吉にも気に入られて大坂城にも出仕して豊臣姓を下賜され、同年7月26日に従五位下・兵部少輔に叙任される厚遇を受けた。また、7月28日に輝元の参議任官式が宮中で行われた際には、冠と赤装束を着用し輝元の供として従った。
 天正20年(1592年)4月から始まる文禄の役では輝元に従って朝鮮半島へ上陸し、毛利軍の一員として戦っている。文禄2年(1593年)8月以降、輝元が朝鮮から帰国すると、毛利氏の中央行政は、元慶,佐世元嘉,二宮就辰,榎本元吉,張元至の5人の輝元出頭人が担うようになった。この5人は様々な出自や経歴を持つ人物たちで、出自や家格にとらわれず能力評価に基づいて人材登用を図る輝元の姿勢が窺える。
 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいては、四国方面の経略を進めると共に、輝元の側近として大坂城に入って各方面へ輝元の指示を伝えている。関ヶ原での敗戦後は毛利氏の防長移封に従う。徳川家康は、元慶の行動は安国寺恵瓊と同じであるとして元慶の処刑も考えていたが、井伊直政や本多正信,榊原康政らが執り成しており、元慶は一命を助けられ、慶長6年(1601年)9月から輝元の嫡子・毛利秀就と共に証人(人質)として江戸に住むこととなる。その後、元慶は死去するまでの約20年の長きに渡って赦免されることはなかった。ただし、一時帰国が許されるなどある程度の自由が与えられていたようである。関ヶ原後の堅田家は所領を6000石ほどに削減されたが、その代わり元慶が江戸に詰めている間は軍役と普請役を減免されていた。
 江戸にいる間の元慶は日頃から幕府年寄や譜代大名・旗本らと親しく交際し、毛利家に対する心証を良くしようと努めていた。本多正信に対しても細心の配慮を尽くしていた。慶長15年(1610年)、元慶は以前から懇意にしていた周防国山口の瑠璃光寺の元住持・秀山を誘い、江戸に瑠璃光寺を創建した。陪臣が江戸に寺院を開いた上に長く存続したことは稀有な事例である。
 元和6年(1620年)3月頃に元慶は発病し、熱海での湯治は認められたものの元慶の帰国は実現することはなかったため、元慶は自身の死を見越して身辺整理を開始し、同年末にはまだ8歳の嫡男・虎丸(後の堅田就政)を元服させた。さらに、同じ頃に娘たちへの財産分与を始めているが、元慶本人は江戸で証人生活を送りつつも、家臣に命じて全国で資産運用を行い、相当の財産を形成していたことが分かる。
 元和8年(1622年)に入ると元慶の病状は悪化し、時に物事の正常な判断ができなくなるほどであった。元慶の病状を心配した輝元は頻繁に見舞いの書状を送り、元慶の甥・粟屋就俊らを元慶家族の後見人として江戸に派遣するなどしていたが、元慶は同年9月27日に江戸で病死した。享年55。元慶の墓所は山口県周南市湯野の堅田家墓所と、東京都港区の瑠璃光寺にあるが、瑠璃光寺に残る宝篋印塔には「芸州住堅田大和守」の文字が刻まれており、元慶の自己認識は最後まで安芸国の住人であったことが窺われる。
 元和9年(1623年)1月19日、嫡男・就政が家督と6536石の知行地を相続することを輝元・秀就父子に認められ、同年4月には就政が再び秀就に連れられて将軍・秀忠に謁見し、江戸に住まわされていた元慶の家族の帰国が許された。 

 慶長19年(1614年)、堅田元慶の嫡男として江戸で生まれる。父が病床についた元和6年(1620年)にわずか7歳で元服。元和8年(1622年)に父が死去すると、翌年の元和9年(1623年)1月19日に父・元慶の知行と家督を相続し、証人(人質)としての生活を終えて周防国へ帰国する。
 寛永2年(1625年)8月13日、就政が幼少であることを理由として、6500石余の知行の内の約2000石が毛利秀就の預りとなり、周防国都濃郡の湯野村・戸田村・莇地村・長門国大津郡日置村の合計4500石に減転封となった。
 慶安4年(1651年)に毛利秀就が死去し、嫡男の毛利綱広が跡を継ぐと、長州藩の財政再建のために国司就正の後継として当職となった。同時に当役には椙杜就幸(椙杜元縁の子)が任じられた。就政は藩士の生活環境の向上に努め、万治3年(1660年)には当役・榎本就時とともに財政再建のために減知されていた藩士の所領を戻し、その上で収入の25%を上納させて負担の軽減を図った。また諸士法度三十三ヶ条を始め、寺社・町方・郡中の法230条を含む万治制法を制定。非常用金の備蓄も行い、長州藩の財政再建に尽くした。
 延宝2年10月17日(1674年11月14日)死去。享年61。右田毛利家当主・毛利元法の3男である就門が養嗣子となって家督を相続した。子孫は周防国都濃郡湯野にて明治維新を迎えている。 

粟屋元親

 毛利十八将の一人。祖父は粟屋元秀、毛利氏家臣・粟屋元忠の子として生まれ、毛利元就に仕える。享禄5年(1532年)7月13日付の毛利氏家臣団32名が互いの利害調整を元就に要請した連署起請文では、22番目に「粟屋弥六元親」と署名している。
 天文9年(1540年)に内紛を起こしていた平賀氏の頭崎城攻撃や、同年秋から始まる吉田郡山城の戦いにも参戦して戦功を挙げた。
 天文19年(1550年)7月12日から7月13日にかけて元就によって安芸井上氏が粛清された直後の7月20日に毛利氏家臣団238名が連署して毛利氏への忠誠等を誓った起請文においては、15番目に「粟屋右京亮元親」と署名している。また、井上氏粛清後の新たな体制として元就が五奉行制を定めた際に、毛利隆元の側近として内政面にも優れていた元親も赤川元保,国司元相,桂元忠,児玉就忠と共にその一人となった。
 天文24年(1555年)の厳島の戦いの後の防長経略でもその武勇を発揮した。弘治3年(1557年)12月2日、防長経略が終わった後の毛利氏家臣239名が名を連ねて軍勢狼藉や陣払の禁止を誓約した連署起請文において、13番目に「粟屋右京亮」と署名する。
 永禄4年(1561年)に死去。家督は次男の元信が継ぎ、五奉行職も元信が引き継いだ。