宇多源氏

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朽木義綱 朽木経氏

 佐々木信綱は承久の乱後、その功によって近江国高島郡朽木荘(朽木庄)の地頭職を与えられた。その後、3男の高島高信の次男・頼綱に受け継がれ、その3男・朽木義綱が朽木氏を称したのに始まる。宗家である高島氏は高信の長子の泰信が継承、義綱の長兄・頼信は横山氏、次兄・氏綱は田中氏の祖となる。
 朽木氏は宗家の高島氏や他の高島氏分家とともに「高島七党」と称され、高島郡の有力武士の一つであった。 

 父の代から足利尊氏に属した。元徳2年(1330年)、平姓池氏・河内顕盛の養子となり、丹後倉橋郷・武蔵、相模鎌倉郡などの所領を譲られる。延元3年/建武5年(1338年)1月、美濃黒血に要害を築き、近江・越前を転戦し、傷を負う。正平6年/観応2年(1351年)、足利尊氏から備前野田保地頭職を安堵され、足利義詮方につき、山城・河内などで南朝方と戦った。正平18年/貞治2年(1363年)6月以前に没している。 
朽木氏秀 朽木稙綱

 正平23年/応安元年(1368年)8月、六角氏頼より近江高島本庄後一条地頭職を安堵される。同5年、越中国岡成名などを弟の氏綱より譲られたが知行せず、惣領家は氏綱に移った。建徳2年/応安4年(1371年)、河内に蜂起した南朝方を追討した。天授3年/永和3年(1377年)7月、再び朽木庄内針畑の地を授与され、同年12月には近江安主名相論につき足利義満の裁許を得た。応永14年(1407年)6月以降に死去。


 生年は不明で、朽木文書内での初見は永正2年(1505年)で「竹松」という幼名で登場し、室町幕府奉行人の飯尾元行,松田頼亮から奉書を受け取っている。
 正確な元服年はわからないが、永正13年(1516年)には父・材秀同様、室町幕府10代将軍・足利義稙から偏諱を受けて稙広と名乗り、大永2年(1522年)から同4年の間に稙綱と改名。官職は民部少輔。
 永正初年(16世紀初め頃)には幕府奉公衆として御所御門役を務め、1525年の浅井攻めでは六角定頼軍に従い、その先鋒を務めている。将軍の足利義晴・義輝父子が朽木谷へ逃亡した際の朽木氏当主であり、12代将軍・義晴の時代には、将軍の側近集団であった内談衆の1人として幕府の政治的な決定にも関与している。また、13代将軍・義輝の代には将軍の御供衆に任命された。
 近江国の六角氏や京極氏と争い、あくまで独立を維持していたが、六角定頼が勢力を拡大してくると、その配下として服属せざるを得なくなったという。
 没年についても定説はない。朽木文書中で最後に登場するのは天文18年(1549年)であるが、永禄5年(1562年)の史料にも登場するという説もあり、1560年代まで生存していた可能性もある。 

朽木晴綱 朽木元綱

 近江国朽木谷城城主。室町幕府の奉公衆を務める。足利義澄(永正4年(1507年))、足利義晴(享禄元年(1528年)、晴綱の死後の天文20年(1551年)の2回)といった細川氏や三好氏に京都から追われた足利将軍を朽木谷で保護した。また、足利義晴方として、派兵をして諸将と戦った。しかし、1550年、朽木氏の本家である高島氏の高島越中守と高島郡河上荘俵山で戦い、戦死した。


 天文19年(1550年)に父・晴綱が戦死したため、わずか2歳で家督を継承した。天文22年(1553年)より三好長慶に京都を追われた13代将軍・足利義輝を父に引き続き朽木谷に匿った。永禄9年(1566年)の浅井長政による近江国高島郡侵攻に際しては人質を差し出し、永禄11年(1568年)12月には浅井久政・長政父子と起請文を交わしたが、まもなくこれを破棄している。
 元亀元年(1570年)の朝倉攻めにおいては松永久秀の説得を受けて織田信長の京都撤退(朽木越え)を助け、後に信長に仕え信長麾下として磯野員昌、その追放後は津田信澄に配されているが、天正7年(1579年)には代官を罷免されているので、信長からは厚遇されていなかったようである。信長の死後は豊臣秀吉に仕え、伊勢安濃郡・高島郡内の蔵入地の代官に任ぜられ、小田原征伐にも参加、文禄4年(1595年)に秀吉から高島郡9203石2斗を安堵されている。天正18年(1590年)、秀吉より豊臣姓を下賜された。
 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、当初は大谷吉継に従って西軍に属したものの、小早川秀秋に呼応して脇坂安治や小川祐忠,赤座直保らと共に東軍に寝返ったにもかかわらず、2万石から9,550石に減封されたという説があるが、そもそも元綱は関ヶ原の戦いには参戦していなかったのではないかとする指摘もある。
 元和2年(1616年)に剃髪し、牧斎と号した。寛永9年(1632年)、朽木谷において死去。享年84。
 死後、遺領は3人の息子に分割されたために、朽木宗家は6,300余石となった。後に末子の稙綱が江戸幕府3代将軍・徳川家光の信頼を受けて大名として取り立てられたために、嫡流よりも庶流のほうが所領が上回るという現象が起きている。 

朽木宣綱 朽木友綱

 はじめ豊臣氏、次いで徳川氏に仕えた。 元和2年(1616年)に徳川家康の太政大臣任官の儀において、配膳役を務めた。
 父の元綱が元和2年に隠居した際、宣綱に6,350石を相続させ、3,240石を隠居料としていた。寛永9年(1632年)に元綱が死去すると、宣綱は弟らにそれぞれ友綱2,015石、稙綱1,100石と分知し、残りの110石余を併せて本家所領は6,470石となった。朽木氏は江戸幕府の下で大身旗本の一人として仕えた。旗本とはいえ、朽木家は京都防衛の要地を所領に持ち、鎌倉時代以来の近江源氏の名家の末裔でもあったため、大名並の待遇である交代寄合に列せられた。
 正妻の京極マグダレナは智綱と京極高通を産んだ後、慶長11年(1606年)に京都八瀬の館で死去した。宣綱は仏式の葬儀を主張したが、マグダレナの母・京極マリアの説得により、京都の切支丹教会にて切支丹式の葬儀が盛大に行われた。この事は後に問題となり、マリアの姪にあたる淀殿が徳川家康に苦情を訴える事件となった。
 万治2年(1659年)、子の智綱に家督を相続させ隠居した。智綱は父の遺領のうち弟の良綱に1,000石、元綱に700石をそれぞれ分与し、残りの4,770余石を知行した。
 寛文2年(1662年)5月1日、寛文地震により朽木陣屋の建物が倒壊。多くの家臣らと共に宣綱も巻き込まれ、死去した。享年81。
 宣綱はマグダレナの菩提を弔うために秀隣寺(周林院)を建立し、その境内に墓を建てた。秀隣寺の本尊は観音像に似せた聖母マリア像であった。享保14年(1729年)に秀隣寺は上柏村指月谷に移るが、火災などで移転すを繰り返し、文化10年(1813年)には無住となって廃され、のちに現在の朽木村野尻に再建された。最初に秀隣寺が建立された地には、第12第将軍・足利義晴が京を追われた際、朽木稙綱を頼って朽木谷に滞在した岩神館があり、管領・細川高国が造営した庭園が現在も残っている(旧秀隣寺庭園)。 

 幕府に出仕して別家を立て、最終的に3010石余の領主となった。万木朽木家初代。
 慶長4年(1599年)、朽木元綱の2男(庶子)として生まれる。朽木元綱と細川忠興が親しい関係にあったため、友綱ははじめ忠興のもとにあった。元和元年(1615年)の大坂夏の陣では細川忠興に従って参戦し、天王寺の戦いで首級を得た。
 元和4年(1618年)3月13日、徳川秀忠に召し出され、書院番となって蔵米500俵を給された。のちに、蔵米取から知行取に改められ、近江国栗太郡内で1000石を領した。寛永9年(1632年)8月11日に御徒頭となり、同年冬に布衣を許された。
 同年8月29日、父の朽木元綱が死去。元綱はさきに家督を長男の朽木宣綱に譲っており、近江国高島郡内に3240石を隠居領として領していた。12月6日、元綱の隠居領を宣綱・友綱・稙綱の兄弟が分配して相続することが認められた、友綱は元綱の遺領のうち2010石を相続し、知行は合計3010石となった。
 寛永10年(1633年)2月19日、同じ御徒頭の神尾守勝,近藤用行,安藤正珍とともに、宇治採茶使に任じられる。宇治採茶使は将軍家御用の新茶を宇治から江戸に運ぶ任務(いわゆる「御茶壷道中」)で、前年の寛永9年(1632年)に制度化された。朽木友綱らの発遣が、制度化された宇治採茶使の最初の事例である。
 正保4年(1647年)9月26日に書院番組頭となり、承応2年(1653年)9月27日まで務めた。寛文2年(1662年)8月8日没、享年64。