| G743:佐々木信綱 | 源 雅信 ― 源 扶義 ― 佐々木定綱 ― 佐々木信綱 ― 朽木義綱 | G745:朽木義綱 |


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| 朽木義綱 | 朽木経氏 |
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佐々木信綱は承久の乱後、その功によって近江国高島郡朽木荘(朽木庄)の地頭職を与えられた。その後、3男の高島高信の次男・頼綱に受け継がれ、その3男・朽木義綱が朽木氏を称したのに始まる。宗家である高島氏は高信の長子の泰信が継承、義綱の長兄・頼信は横山氏、次兄・氏綱は田中氏の祖となる。 |
父の代から足利尊氏に属した。元徳2年(1330年)、平姓池氏・河内顕盛の養子となり、丹後倉橋郷・武蔵、相模鎌倉郡などの所領を譲られる。延元3年/建武5年(1338年)1月、美濃黒血に要害を築き、近江・越前を転戦し、傷を負う。正平6年/観応2年(1351年)、足利尊氏から備前野田保地頭職を安堵され、足利義詮方につき、山城・河内などで南朝方と戦った。正平18年/貞治2年(1363年)6月以前に没している。 |
| 朽木氏秀 | 朽木稙綱 |
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正平23年/応安元年(1368年)8月、六角氏頼より近江高島本庄後一条地頭職を安堵される。同5年、越中国岡成名などを弟の氏綱より譲られたが知行せず、惣領家は氏綱に移った。建徳2年/応安4年(1371年)、河内に蜂起した南朝方を追討した。天授3年/永和3年(1377年)7月、再び朽木庄内針畑の地を授与され、同年12月には近江安主名相論につき足利義満の裁許を得た。応永14年(1407年)6月以降に死去。 |
生年は不明で、朽木文書内での初見は永正2年(1505年)で「竹松」という幼名で登場し、室町幕府奉行人の飯尾元行,松田頼亮から奉書を受け取っている。 |
| 朽木晴綱 | 朽木元綱 |
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近江国朽木谷城城主。室町幕府の奉公衆を務める。足利義澄(永正4年(1507年))、足利義晴(享禄元年(1528年)、晴綱の死後の天文20年(1551年)の2回)といった細川氏や三好氏に京都から追われた足利将軍を朽木谷で保護した。また、足利義晴方として、派兵をして諸将と戦った。しかし、1550年、朽木氏の本家である高島氏の高島越中守と高島郡河上荘俵山で戦い、戦死した。 |
天文19年(1550年)に父・晴綱が戦死したため、わずか2歳で家督を継承した。天文22年(1553年)より三好長慶に京都を追われた13代将軍・足利義輝を父に引き続き朽木谷に匿った。永禄9年(1566年)の浅井長政による近江国高島郡侵攻に際しては人質を差し出し、永禄11年(1568年)12月には浅井久政・長政父子と起請文を交わしたが、まもなくこれを破棄している。 |
| 朽木宣綱 | 朽木友綱 |
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はじめ豊臣氏、次いで徳川氏に仕えた。 元和2年(1616年)に徳川家康の太政大臣任官の儀において、配膳役を務めた。 |
幕府に出仕して別家を立て、最終的に3010石余の領主となった。万木朽木家初代。 |