宇多源氏

G754:堀部宗綱  源 雅信 ― 源 扶義 ― 佐々木定綱 ― 佐々木信綱 ― 六角泰綱 ― 堀部宗綱 ― 森川氏俊 G755:森川氏俊




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森川氏俊 森川重俊

 父は尾張の武士で織田氏に仕えていたが、永禄4年(1561年)に死去。永禄8年(1565年)、飯尾連龍の客将であった母方の叔父・森川氏次が連龍と共に戦死すると、連龍と内通していた徳川家康が氏次の働きを認め、一族であった氏俊を招いて家臣として森川氏と称させた(氏次の子孫も後に家康に仕えた)。永禄11年(1568年)堀川城の戦い、元亀元年(1570年)姉川の戦いで武功を立て、元亀3年(1572年)三方ヶ原の戦いでは後備えに属して戦った。天正2年(1574年)武田家臣・山県昌景軍と浜松城外で交戦。翌天正3年(1575年)の長篠の戦いでも武功があった。天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いでは父の旧領でもあった尾張比良城を守備。天正18年(1590年)小田原征伐にも従軍した。文禄元年(1592年)武蔵国比企郡・上総国山辺郡の内に2000石を与えられた。
 長男・次男は幕臣として家名を保ったが、3男・重俊は後に大名として取り立てられている。氏俊の兄弟や叔父・従兄弟がいずれも森川氏を称することとなった。また姉婿・真野信重や妹婿・山羽長勝が早世していたため、その子重次・長次を引き取って育て、いずれも森川氏を名乗らせている。 

 天正12年(1584年)、森川氏俊の3男として生まれた。慶長2年(1597年)、徳川秀忠の近習となる。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは秀忠軍に属して、信濃上田城にて真田昌幸と戦った。慶長14年(1609年)に下野国内に3000石を与えられる。しかし慶長19年(1614年)、大久保忠隣の改易に伴い、忠隣の養女(実は姪、大久保忠世の外孫)を娶っていたことから連座して改易となり、酒井家次に身柄を預けられた。
 慶長20年(1615年)、大坂夏の陣において酒井家次に属して出陣して武功を挙げたため、赦免および再登用され、秀忠の近習として復帰した。寛永4年(1627年)に下総生実藩を中心に下総・上総・相模国内で1万石を与えられ、その初代藩主となった。寛永8年(1631年)に老中となった。
 寛永9年(1632年)1月24日に秀忠が死去すると、翌25日にその後を追って自害した。殉死した理由は、秀忠より衆道の寵愛を蒙ったことはもとより、親秀忠・親忠長派であったことから、後継者である家光より改易されることを恐れたためでもあると言われている。享年49。
 正室との間に3男3女がおり、長男である重政が跡を継いだ。墓所は千葉市の重俊院にある(森川家累代の墓碑、市指定文化財)。 

森川重政 森川俊胤

 慶長13年(1608年)、初代藩主・森川重俊の長男として生まれる。寛永9年(1632年)に父が徳川秀忠に従って殉死したため、家督を継いだ。
 寛永11年(1634年)、3代将軍・徳川家光の上洛に従った。寛永18年(1641年)6月から寛永19年(1642年)8月、正保4年(1647年)に大坂加番に任じられ、明暦3年(1657年)12月27日に従五位下・伊賀守に叙位・任官する。寛文元年(1661年)に大坂城修築で功績を挙げた。
 寛文3年(1663年)1月23日に死去。享年56。跡を次男の重信が継いだ。墓所は千葉市の重俊院にある(森川家累代の墓碑)。 

 寛文10年(1670年)4月12日、第3代藩主・森川重信の長男として江戸藩邸で生まれる。江戸幕府の第5代将軍・徳川綱吉の御伽衆に任じられた。元禄5年(1692年)6月27日、父が病気により隠居したため、家督を継いで第4代藩主となり、10月29日に奥詰に任じられ、元禄6年(1693年)4月22日に綱吉の小姓に任じられ、5月4日には大番頭に任じられた。12月18日に従五位下・紀伊守に叙位・任官する。
 その後は幕命により大坂城・二条城・江戸城の城番を歴任し、宝永5年(1708年)1月16日に出羽守に遷任する。綱吉没後の宝永6年(1709年)4月6日には第6代将軍・徳川家宣の側衆に任じられ、宝永7年(1710年)9月21日に寺社奉行と奏者番を兼任する形で任命された。正徳4年(1714年)9月6日に若年寄に任じられ、江戸城西の丸修築などで功績を挙げた。
 第8代将軍・徳川吉宗にも仕え、享保の改革では月光院ら大奥の諸事を担当する役目を任じられたが、次第に吉宗から疎まれて享保2年(1717年)11月16日に若年寄を解任された。享保9年(1724年)、吉宗の世子である徳川家重が元服すると、家重の「重」が自らの名前と同じであることを避けるために、子の重基(改名して俊常)と共に名前を重令から俊胤と改名した。
 享保17年(1732年)閏5月11日、病気により家督を次男の俊常に譲って隠居し、出家して悠計と号した。寛保2年(1742年)に鉄砲洲の下屋敷に移り、延享3年(1746年)1月24日に死去。享年77。 

森川俊常 森川俊令

 元禄10年(1697年)12月8日、第4代藩主・森川俊胤の次男として生まれる。庶子だったために家督相続権は無かったが、兄が早世し弟ながら嫡男であった森川重能も早世したことにより、父より世子に指名された。享保元年(1716年)7月22日に従五位下・内膳正に叙位・任官する。
 享保9年(1724年)12月1日、江戸幕府第8代将軍・徳川吉宗の世子である徳川家重が元服した際、「重」の名を避けるために父と共に名を改名した。享保17年(1732年)閏5月11日に父が病気により隠居したため、家督を継いで第5代藩主となり、8月9日に大番頭に任じられる。享保18年(1733年)8月5日に大坂城番に任じられる。享保19年(1734年)7月1日に父に先立って死去。享年38。跡を養子の森川俊令が継いだ。 

 享保3年(1718年)1月18日、600石を領した分家の旗本・森川重良の次男(庶子)として江戸で生まれる。享保19年(1734年)に本家の第5代藩主・森川俊常が死去したため、末期養子として家督を継ぎ、12月18日に従五位下・兵部少輔に叙位・任官する。
 寛保3年(1743年)4月28日に大番頭に任じられ、延享2年(1745年)閏12月15日に大坂定番に任じられ、寛延2年(1749年)8月15日に奏者番に任じられた。そのほかにも日光祭祀奉行などを務めている。宝暦4年(1754年)5月15日、名を俊方から俊令と改名する。宝暦10年(1760年)に内膳正に遷任する。
 宝暦14年(1764年)1月27日、全ての職を辞任し、4月6日に家督を長男の俊孝に譲って隠居する。後に出家して善応と号し、渋谷広尾の下屋敷に移った。天明7年(1787年)5月16日に死去。享年70。 

森川俊知 森川俊民

 安永8年(1779年)3月8日、第6代藩主・森川俊令の次男で、第7代藩主・森川俊孝の弟である森川俊輝の長男として、外祖父の森川俊顕の屋敷で生まれる。天明8年(1788年)に俊孝の実子である森川俊盛と俊孝が相次いで死去したため、俊孝の末期養子として家督を継いで第8代藩主となった。
 寛政8年(1796年)12月19日に従五位下・兵部少輔に叙位・任官する。寛政10年(1798年)4月3日に日光祭祀奉行に任じられ、文化3年(1806年)11月8日に大番頭に任じられた。その後も大坂城番・二条城番などを務め、文化13年(1816年)12月26日に奏者番に任じられ、文政5年(1822年)8月15日には西の丸若年寄に任じられた。その後は幕政に参与し、第12代将軍・徳川家慶の5男・一橋慶昌の養子縁組交渉や、第11代将軍・徳川家斉の娘の婚儀の交渉・庶務などをまとめ上げた。そのために家斉や家慶からは信任が厚く、後に俊知が若年寄の辞職を求めても許されなかった。天保9年(1838年)8月9日に死去。享年60。跡を養子の森川俊民が継いだ。 

 文化元年(1804年)または文化2年(1805年)、肥前国島原藩2代藩主・松平忠馮の8男として生まれる。文政11年(1828年)11月に生実藩の8代藩主・森川俊知の養子として迎えられ、文政12年(1829年)4月13日にはその長女・登志と結婚して婿養子となった。12月16日に従五位下・弾正忠に叙任される。天保9年(1838年)、俊知の死去により家督を継いだ。
 天保12年(1841年)4月に日光祭祀奉行に任じられ、弘化3年(1846年)7月17日に大番頭に任じられる。嘉永元年(1848年)10月18日に奏者番に任じられ、嘉永5年(1852年)7月8日に若年寄に任じられ、出羽守に遷任する。安政2年(1855年)4月19日に若年寄の辞職を求めたが許されず、9月19日になって病気を理由に辞職を許され、直後の11月5日に死去した。享年52(または51)。跡を3男の俊位が継いだ。