醍醐源氏

K322:醍醐天皇  醍醐天皇 ― 源 則忠 G797:源 則忠

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源 則忠 源 道成
 盛明親王の王子。近江介,越前守,民部大輔,中宮権亮などを経て、従三位・左京権大夫に至った。長保2年(1000年)7月、中宮・藤原彰子は則忠の堀河第に移御したことがある。漢詩に巧みで、尚葉会に関係していた。寛弘5年(1008年)飯室にて出家したが、その後の消息は不明。 

 正四位下に叙せられ、春宮大進,若狭守,右馬権頭,信濃守,因幡守,隠岐守などを歴任し、長元9年(1036年)に卒去した。
 和歌六人党の一人に数えられる源兼長の父であり、道成自身も勅撰歌人だった。藤原兼綱に嫁いだ娘が亡くなった後、越前守として下向する兼綱に贈った和歌が『後拾遺和歌集』に収録されている。

源 兼長

 平安時代後期の官人・歌人。和歌六人党の一人。
 蔵人,右兵衛佐,備前守,讃岐守などを歴任し、正五位下に至った。長久2年(1041年)弘徽殿女御生子歌合、同年の源大納言師房家歌合、永承4年(1049年)内裏歌合などに出席した。また、永承5年祐子内親王家歌合には、男性歌人1名の空席を巡って藤原経衡と競望し、藤原頼宗の出題により和歌の優劣を判じられたという逸話が残る。和歌六人党の一人ではあったが、同じく和歌六人党の一人だった藤原範永から「兼長常有到佳境之疑」と評されるなど、歌人仲間の間での兼長の評価は必ずしも高いとは言えなかったらしい。天喜5年(1057年)12月25日までの生存は確認できるが、晩年は妻に先立たれ出家したらしい。『後拾遺和歌集』に5首入集。