<桓武平氏>高望王系

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真壁長幹 真壁高幹
 多気直幹の4男として誕生。承安2年(1172年)、常陸国真壁郡真壁荘を領して真壁城を築き、真壁を姓とした。長幹は周辺の領主との争いに対処するため、真壁荘を当時、勢いがあった平家に寄進した。また、源頼朝の挙兵後も多くの常陸平氏と同じように様子見の態度を示していた。このため、真壁荘は平家没官領を経て北半分は鹿島神宮に寄進され、本所を鹿島神宮、領家を源頼朝(鎌倉幕府)とする関東御領となり、長幹は御家人として地頭の地位には任じられたものの、頼朝の配下である三善康清が預所に任じられたことで、その支配は大きく制約を受けることになった。また、南半分は常陸国の国衙領とされて真壁氏が地頭を務めている。文治5年(1189年)、奥州合戦に参加し、建久元年(1190年)の頼朝の上洛に供奉した。 

 高幹の名乗りは北条高時の偏諱を受けたものと考えられている。南北朝時代では北朝に属して転戦し、康永3年/興国5年(1344年)7月に足利尊氏から常陸真壁郡など9カ所の地頭職を軍功として宛がわれた。文和2年/正平8年(1353年)7月、尊氏の上洛に従って供奉し、翌年に死去。享年56。
 高幹の時代の真壁氏の系図は混乱して後世の創作を含んでいる可能性が高く、高幹の没後に庶流である美濃真壁氏(真壁政幹及び孫の広幹)が東国に復帰して常陸真壁氏の惣領家から宗家の地位を奪ったとする説が有力である。高幹の出自についても幹重の嫡子とする系図の主張を認める立場と、惣領家に近い常陸真壁氏庶流の出自で幹重との親子関係はないとする立場に分かれている。 

真壁政幹 真壁広幹

 貞和2年/正平元年(1346年)頃、高山寺便智院領美濃国小木曾荘の地頭でとして登場し、建武4年/延元2年(1337年)以来の検注勘料と年貢を高山寺に納めず、守護の土岐頼康に対しても弁明を行わなかったため、足利直義から検注勘料と年貢を高山寺に納めるように命じられている。観応2年/正平6年(1351年)、北朝に属して代官の森国幹を出羽国に出陣させた。この時に関する文書として着到状3通と軍忠状1通が残されているが、一連の文書によって政幹が陸奥国会津郡蜷河荘にある勝方村の地頭でもあったことが判明する。文和2年/正平8年(1353年)に死去。享年38。ただし、観応3年/正平7年(1352年)12月13日付で真壁小太郎政幹が嫡孫の孫太郎広幹に対して常陸国真壁郡山田郷の譲状を出しており、同譲状には広幹が「父子各別」になっているという文言が入っており、政幹の嫡男で広幹の父にあたる人物が南朝方であったために祖父から孫への継承になったこと、孫(広幹)が家督を継げる年頃であったことが推定される。また、別の文書からは政幹はこの時に小木曾荘も広幹に譲ったと推定される。
 なお、常陸真壁氏の系図では政幹は常陸国真壁氏の真壁高幹の子で同氏の当主であるとされているが、現在の研究では政幹の出自は常陸真壁氏2代目真壁友幹と後室である加藤景廉の娘の間の子で実母から小木曾荘を継承した薬王丸(成人後の諱は不詳)を祖とする「美濃真壁氏」の末裔であり、政幹の孫である広幹が室町幕府の命で東国に下った際に元来の常陸国真壁氏の惣領家(高幹の一族)を美濃へ放逐して宗家の地位を奪ったことが確実視されている。 

 観応3年/正平7年(1352年)12月13日付で真壁小太郎政幹が孫太郎広幹に対して常陸国真壁郡山田郷の譲状が出された旨とその事情が記された文和5年/正平11年(1356年)作成の書状が残されている。この書状からは、広幹の父である某は敵の南朝方にいたこと、広幹は庶流(真壁高幹を惣領)の人物であることがうかがわれる。また、真壁氏の一族である真壁光幹という人物が土地の相博(交換)を行い、光幹が山田郷の土地を美濃国小木曾荘の土地と交換したが伝えられており、小木曾荘は真壁政幹が所領としていたことが知れる。政幹の後継者と見られる孫の広幹が光幹との交換相手と推測され、同時に先述の文書に記載された譲状には政幹が広幹に対して山田郷とともに小木曾荘も譲ることが記載されていたと推測されている。
 真壁氏の系図では、真壁氏の家督は高幹ー政幹ー広幹と継承されたと伝えられているが、政幹と広幹を父子関係としている時点で現存の文書と異なっている。更に真壁高幹は実在が確認できる惣領家の当主であるが北条高時の偏諱を受けたと推測され、西明寺城攻めにおいて広幹とともに戦っている点からも広幹の祖父もしくは曾祖父に比定するのは不可能である。現在の研究では政幹の出自は常陸真壁氏2代目真壁友幹と後室である加藤景廉の娘の間の子で実母から小木曾荘を継承した薬王丸(成人後の諱は不詳)を祖とする美濃真壁氏もしくは小木曾真壁氏と呼ぶべき一族の末裔が政幹および広幹であったが、何らかの事情で常陸国の真壁郡に復帰して後に嫡流に代わって宗家を継承したと考えられている。また、広幹は次第に真壁に勢力を築き、観応の擾乱での尊氏の勝利の後に、土地の相博と称して元の惣領家の人間である光幹を美濃の旧領に事実上の放逐・幽閉して宗家の地位を奪ったと推測する説もある。
 真壁高幹の死去前後に鎌倉時代以来の真壁氏嫡流は断絶し、美濃出身の庶流・真壁広幹が新たな真壁氏宗家を起こしてその子孫が近世まで続いたと考えられ、広幹は言わば真壁氏の中興の祖になったとみられている。 

真壁秀幹 真壁治幹

 応永11年(1404年)12月15日に父から家督を譲られる。足利義持と足利持氏の室町幕府と鎌倉府の対立の際には義持に味方し、応永30年(1423年)2月26日に義持から常陸真壁郡の所領を安堵された。これを受けた秀幹は隣の領主である小栗満重とともに持氏を討伐すべく挙兵するが、足利持氏自ら率いる遠征軍の攻撃を受け、同年8月2日に小栗城と真壁城が同時に陥落して、満重は滅亡した(小栗満重の乱)。真壁氏は滅亡を免れたものの所領の多くを持氏に奪われたとみられる。翌年に死去。享年45。家督は子の慶幹が継いだが、持氏に追討されて消息不明となる。
 庶子(慶幹の異母兄と推定)に氏幹がおり、一族庶家とともに再興を目指すが、足利持氏に降って真壁氏の当主と認められた真壁朝幹(秀幹の弟である景幹の子とされる)と対立し、真壁氏は内紛状態となった。

 父の尚幹(後に久幹と改名後、出家して真楽斎,道瑚と称する)が出家後も真壁氏の実権を握っていたこともあり、当主としての本格的活動は永正4年(1507年)の尚幹没後になる。
 永正の乱における古河公方家の内紛に際して、初め足利政氏方に付いていたが、永正11年(1514年)頃に小田政治を誘って足利高基方に寝返った。ただし、中根正人氏は治幹と政氏の親交がその後も続いていることを指摘して、高基方への転身は後継者である家幹の主導で、真壁氏の家督交替もそれに伴ったものであった可能性があるとしている。

 

真壁家幹 真壁久幹

 真壁氏の系図に載せられている名前は宗幹であるが、同時代の史料から確認できる名前は家幹である。真壁氏の『当家大系図』に記された「宗幹」は後世の誤記で、正しくは家幹であったとされている。
 永正年間に古河公方足利政氏と嫡男・高基が争った際に真壁氏は当初政氏を擁していたが途中で高基方に転じており、この方針転換が家督継承のきっかけであったとみられている。
 大永年間に古河公方足利高基の末弟・基頼を擁して足利高基,小田政治と争うが、基頼が高基のもう一人の弟である小弓公方足利義明の元へ奔ると、今度は小田政治と大掾忠幹を和解させて高基の嫡男・足利晴氏を擁した。所謂、河越夜戦では、小田政治とともに足利晴氏方についたとみられるが、北条氏康に敗れたために苦境に立たされることになる。
 天文年間末から弘治年間に隠居・出家して、筑波山の近くに樗蒲軒という邸宅とを建てたいう。
 他の大掾氏系一族と同様に鹿島神宮への崇敬が厚く、その保護に努めた。また、連歌に優れて連歌師として名高い宗牧とも親交があった。 

 戦国時代から安土桃山時代にかけての常陸国の国人領主。真壁郡真壁城主。小田氏,佐竹氏,後北条氏らの抗争を立ち回り真壁氏の勢力を拡大した。関八州古戦録などで鬼真壁として描かれる真壁氏幹とは、実際には久幹のことであるともされる。
 初め小田氏に従っていたが、天文17年(1548年)に水谷正村と結んで離反する。永禄3年(1560年)、大掾慶幹を攻めるも古河公方足利義氏の仲介で和睦した。翌永禄4年(1561年)、佐竹義昭がこの地に進出するとこれと手を結び、片野城の太田資正や、その次男で久幹の娘婿である梶原政景とともに小田氏に対する尖兵的役割を担った。特に永禄12年(1569年)の手這坂の戦いでは小田氏治の軍勢に大打撃を与えた上、小田城も攻略し、以後氏治の本拠地奪還を不可能とした。なお、この戦いでは配下の根来法師大蔵坊に岡見治資を鉄砲で狙撃させたと伝えられており、これは当地における早期の鉄砲使用例といわれる。1573年、小田氏治と佐竹義重の和睦の仲介にあたった。
 天正年間に嫡男・氏幹に家督を譲ると、闇轢軒道無と号した。佐竹氏との結びつきを強める一方、佐竹氏と対立している小田氏と起請文をとって内通し、沼尻の合戦の際に後北条氏方につく(合戦中に佐竹方に帰参)など、独立勢力としてのあり方も模索した。また、他家からの起請文を自分宛に出させるなど、氏幹に家督を譲ってからも実権を保持していたとみられる。天正17年(1589年)死去。

真壁氏幹 真壁義幹

 永禄年間に真壁氏当主となる。佐竹義重に早くから仕え、妹婿の梶原政景とともに対北条氏戦線の最前線に立つ。長さ2mもの木杖(筋金を鋲で打ち付けた樫木棒=金砕棒と記す)を振り回して戦場を駆け抜け、その秀でた武勇から「鬼真壁」と渾名され、恐れられたという。佐竹氏の主要な合戦のほとんどに参加し、真壁・筑波両郡に4,500石を与えられた。
 天正13年(1585年)と同16年(1588年)に江戸重通と大掾清幹の間で戦い(府中合戦)が発生すると、氏幹は縁戚である清幹の救援に駆けつけ、特に後者では佐竹義重父子が江戸重通に救援するために出陣すると氏幹は義重とも戦った。この戦いで氏幹は敗れたものの、この間にも佐竹義憲と秘かに連絡を取り合って和平の仲介にあたり、真壁氏の当主として佐竹氏に従いつつも、真壁氏の利害に関わる問題に対しては佐竹氏に対しても対峙を辞さない姿勢を見せている。
 天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原攻めには佐竹義宣に従って出陣して5月27日には秀吉にも拝謁している。その結果、真壁氏は完全に佐竹氏の家臣に組み込まれたものの、江戸氏や大掾氏,額田小野崎氏,南方三十三館(鹿島氏ら)のように佐竹氏に滅ぼされることは無かった。その後、文禄の役では義幹と共に佐竹軍の一員として朝鮮に渡っている。
 嗣子がなかったため弟の義幹の子で甥の真壁房幹を養子に取り、慶長3年(1598年)に家督を譲った。また、関ヶ原の戦い後は佐竹氏の秋田移封には同行せず、常陸国に留まった。
 元和8年(1622年)3月7日に死去。下館の常林寺に葬られる。 

 佐竹氏家臣。真壁久幹の次男で氏幹の弟。父が佐竹義昭に臣従した際、義昭のもとで元服を行い、一字が与えられた。小田氏治との手這坂の戦いで活躍して、式部大輔の名乗りを許される。後に常陸国筑波郡に所領を与えられて兄から別家する。長男・房幹が兄の養子となっていたために、次男の重幹に家督を譲るが、後に氏幹,房幹ともに死去したために重幹が真壁氏の当主となった。佐竹氏の移封先である出羽国角館にて没する。