<桓武平氏>高望王系

H417:入来院定心  平 高望 ― 平 将常 ― 渋谷重国 ― 入来院定心 ― 入来院重時 H418:入来院重時

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入来院重時 入来院重高

 島津以久の次男。子のなかった入来院重豊の養嗣子として入り、入来院氏の15代当主となる。豊臣秀吉の九州平定では島津歳久,新納忠元らと共に奮戦した。
 文禄の役では日本に残ったが、慶長の役では島津義弘に従い渡海した。慶長4年(1599年)の庄内の乱では島津宗家方に属したものの、伊集院忠真方に重時の家臣が参加していたことから、徳川家康に釈明するため上京した島津忠恒に同行している。
 慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで島津義弘の隊に従軍していたが、撤退戦で本隊とはぐれてしまい、近江国で東軍の兵に発見され、主従7名と共に討ち取られた。
 重時には女子しか子がいなかったため、入来院氏には島津義虎の5男が婿養子入りし、入来院重高と名乗って家督を継いだ。 

 島津忠富を名乗るが、長兄・忠辰が豊臣秀吉の怒りを買って改易されると、兄達と共に小西行長の身柄預かりとなる。文禄3年(1594年)、行長に従い朝鮮の役に従軍し軍功を上げたが、慶長2年(1597年)に島津義弘の陣へと参じ、南原城攻めや泗川の戦いで軍功を上げた。朝鮮から戻ると名を久秀と改める。
 慶長4年(1599年)に庄内の乱が発生すると、吉利忠張,新納忠在と共に山田城を攻める。また、白石永仙が伏兵を用いて攻撃した際も、敵を打ち破って味方を助けた。翌慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、義弘の傍から離れず奮戦、薩摩への退却時にも功を成した。帰郷後に200石を拝領、頴娃弥三郎久音の名跡を相続し、頴娃弥一郎久秀と名乗った。
 慶長7年(1602年)の島津家久(忠恒)の上洛にも従ったが、母・御平が病との理由で帰国した(御平は同年11月12日に病没)。慶長10年(1605年)の上洛にも同行したが、その際に関ヶ原の戦いからの退却時に死去していた入来院重時の一人娘の婿となるよう命ぜられ、入来院氏を継いで入来院重国と名を改める。また、慶長18年(1613年)に入来院氏の本領へ領地替えされ、その地頭となると重高と名を改めた。寛永14年(1637年)の島原の乱にも出陣、島津久賀,喜入忠政,北郷久加,山田有栄と共に警護役となった。
 忠恒の死後は、薩摩藩2代藩主・島津光久の参勤の供をするようになる。正保4年(1647年)、長崎に南蛮船2艘が現れた際に、これを追い帰すために軍勢を率いて出陣、帰途に阿久根蔵津で病を得て、そのままその地で死去した。殉死者が4名出ている。
 なお、長男,次男とも死去しているため、頴娃氏の家督は鎌田政近の4男・久政を養嗣子として継がせ、入来院氏は孫の重頼が継いだ。 

入来院重頼 入来院重堅

 寛永6年(1629年)、島津氏の家臣・入来院重通の子として生まれる。寛永16年(1639年)、藩主・島津光久の祖父の入来院重高邸御成の際に、光久が加冠役、宮之城島津家・島津久通が理髪役となり元服する。以後光久に近侍した。
 寛永20年(1643年)、光久の命で、犬追物が行われ射手を務める。正保元年(1645年)、川上久慶を師として鎌倉流の馬術を修める。正保4年(1647年)、江戸に下り、光久が武蔵国王子村で行った犬追物に射手として参加する。観覧した将軍・徳川家光に拝謁し、時服を賜る。翌慶安元年(1648年)、鹿児島に帰国する。同年、川上久慶より、犬追物の免状を受ける。同年、清色地頭職。慶安3年(1650年)、藩主光久の妹を正室に迎える。同年、江戸に下り、江戸城で将軍家光に拝謁する。
 寛文元年(1661年)、藩主・光久の参勤に随行し江戸に下る。同年、病により暇を賜り帰国する。寛文7年(1667年)7月10日没。享年39。

 延宝3年(1675年)、日置島津家・島津久竹の次男として生まれる。天和2年(1682年)、入来院重治の娘を娶り婿養子となる。天和3年(1683年)、養父の死去により家督を相続し入来領主となる。
 貞享2年(1685年)、藩主・島津光久の加冠、佐多久逵の理髪で元服し、志摩之助重堅と名乗る。元禄2年(1689年)、三番組頭,野田地頭職となる。元禄4年(1691年)、光久の帰国許可の謝礼使として江戸に下り、江戸城で将軍徳川綱吉に拝謁する。元禄6年(1693年)2月、藩主・綱貴の参勤に番頭として随行する。同年9月、世子・吉貴結納の使者として、桑名藩主・松平定重の屋敷に使いする。
 元禄11年(1698年)、入来院家を離籍し、実家の日置島津家に戻る。入来院家家督は、都城島津久理の次男・規重が相続した。元文2年(1737年)10月25日死去、享年63。

入来院明雅 入来院定勝

 寛文12年(1672〈2月28日、藩主・島津光久の17男として生まれる。延宝6年(1678年)光久の加冠、島津久祐の理髪で元服し、虎助久重と名乗る。
 元禄3年(1690年)、光久の参勤に随行して江戸に下る。翌元禄4年(1691年)、光久に随行して鹿児島に帰国する。元禄12年(1699年)、藩主・島津綱貴の命で、甥に当たる入来院規重の家督を相続し、主馬重矩と名乗る。翌年、二番組頭及び御番頭となる。元禄14年(1701年)、大隅国蒲生地頭職となる。元禄15年(1702年)、綱貴より唐草十文字の家紋を賜り、入来院家の定紋とする。同年、川上久尚の娘を正室に迎える。
 元禄17年(1704年)、綱貴の参勤に先遣して、横目頭,御番頭として江戸に下る。宝永元年(1704年)、藩主・島津吉貴の家督相続の御礼言上のための登城に随行し、将軍・徳川綱吉に拝謁する。宝永2年(1705年)、吉貴の帰国に随行する。同年、大隅帆佐田地頭職。横目役を辞することを許され、二番組頭となる。
 宝永5年(1708年)、吉貴の参勤に先立って、御番頭として先発の人数を率いて江戸に下る。翌年、吉貴の帰国に随行する。眼病を患い療養を許される。宝永7年(1710年)、病が癒え三番組頭となる。
 正徳3年(1714年)、領内巡検を行った吉貴を入来に迎える。享保7年(1722年)、藩主・島津継豊の初入部を出迎える。享保10年(1725年)、将軍世子・家重の諱を憚り、明雅と改名する。享保16年(1731年)、六番組頭帆佐田地頭職。享保20年(1735年)3月25日没。享年64。 

 父の島津継豊は強度の疝癪による目まいに悩まされ、享保21年(1736年)に江戸に参勤した後、帰国できず、翌元文2年(1737年)に在府の願いを幕府に出して許可され、以後12年にわたって江戸に滞在することとなったが、こうした中で鹿児島において出生する。また、継豊が最後に儲けた子供でもある。母の実家と同族の桓武平氏渋谷氏の庶流・入来院氏23代目当主の入来院定恒の養子となり、元文4年(1739年)に家督を相続する。
 宝暦2年(1752年)3月1日、栗野郷地頭となり、同9年3月まで勤める。また、宝暦6年(1756年)10月作成の「松平又三郎家中分限帳」の組頭番頭に「2662石 入来院石見」とあるが、これは定勝のことである。
 俳諧を奨励し、北薩における俳諧の全盛を築く。俳諧作法書を初め、句集数点を残す。明和6年(1769年)、隠居して家督は定馨が継いだ。天明元年(1781年)死去。

入来院公寛
 天保7年(1837年)2月11日に島津柄山の子として誕生。安政元年(1854年)7月、入来院定極の養子となって入来院氏の家督を相続する。安政3年(1856年)、詰衆となる。文久3年(1863年)7月の薩英戦争の際に、領内の兵を率いて、荒田正建寺に陣を張る。慶応4年(1868年)、長崎の幕領鎮撫のため、領内より小隊を出兵させた。明治3年(1870年)、入来領3500石を奉還する。翌明治4年(1871年)11月7日死去。享年35。