| H401:平 良文 | 平 高望 ― 平 良文 ― 平 忠常 | H431:平 忠常 |


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| 平 忠常 | 平 常将 |
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祖父の平良文は武蔵国村岡に土着して村岡五郎と称して、下総国相馬郡の大半を所領とした。父の忠頼も関東で有力な武士として名をはせた。忠常は祖父と父の地盤を引き継ぎ、常陸国,上総国,下総国に広大な所領を有し、上総介,武蔵押領使に任官されている(これらの官に任官はされず自称という説もある)。京に上り藤原教通に仕えていた形跡がある。忠常は強大な武力を背景に傍若無人に振る舞い、国司の命に従わず租税も納めなかったとされる。 |
父の忠常は長元元年(1028年)以来、朝廷に反旗を翻していたが(平忠常の乱)、同4年(1031年)に降伏した。常将は弟の常親と共に父・忠常の平安京への連行に従事した。忠常は美濃で病没し、首は京で晒されたが、常将と常親は罪を許された。 |
| 平 常長 | 平 常兼 |
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前九年の役・後三年の役で源頼義,義家に従って戦功を立てたとされる。戦の後は上総国大椎に館を構え、更には下総国千葉郷に進出して千葉大夫と号したとされる。 |
下総国千葉郷に因んで千葉大介と号したとされ、これが千葉氏の始まりである。 後三年の役に父・常長と共に従事して功を立てたとされる。妻で常重の母である鳥海忠衡の娘は、この戦いの過程で結婚した可能性が高い(鳥海忠衡の出自は不明だが、姓名からすると海道平氏の者だと考えられる。清原成衡の実父とされる平忠衡のことか)。 |
| 伊沢頼俊 | |
| 阿波伊沢城主。三好氏に仕えていたが、天正5年(1577年)3月、一宮成助とともに三好長治に背き、細川真之を討つため出陣した長治を荒田野での戦いにて挟撃し自害させた。この時、伊沢頼俊は阿波の守護所である勝瑞城に入って、阿波を支配しようとしたとされる。しかし、矢野駿河守や三好越後守勝時,庄野久右衛門らが勝端城に迫ったため、僅か20日で勝瑞城から脱出し伊沢頼俊は坂西城に入った。5月には三好長治の残党である引田城主・矢野駿河守国村と、阿波・木津城主の篠原自遁によって坂西城が奇襲を受け、伊沢頼俊は誅殺(自害とも)された。 |