<桓武平氏>高望王系

H401:平 良文  平 高望 ― 平 良文 ― 平 忠常 H431:平 忠常


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平 忠常 平 常将

 祖父の平良文は武蔵国村岡に土着して村岡五郎と称して、下総国相馬郡の大半を所領とした。父の忠頼も関東で有力な武士として名をはせた。忠常は祖父と父の地盤を引き継ぎ、常陸国,上総国,下総国に広大な所領を有し、上総介,武蔵押領使に任官されている(これらの官に任官はされず自称という説もある)。京に上り藤原教通に仕えていた形跡がある。忠常は強大な武力を背景に傍若無人に振る舞い、国司の命に従わず租税も納めなかったとされる。
 長元元年(1028年)6月、忠常は安房国の国府を襲い、安房守・平維忠を焼き殺す事件を起こした。原因は不明だが、受領との対立が高じたものと思われる。朝廷は忠常追討を命じ、追討使・平直方が派遣された。官軍を相手に忠常は頑強に抵抗した。乱は房総三カ国に広まり、合戦の被害と官軍による強引な徴発により大いに疲弊した(平忠常の乱)。
 長元3年(1030年)9月、平直方が解任され、甲斐守・源頼信が追討使に任じられた。長期にわたる合戦で忠常の軍は疲弊しきっており、長元4年(1031年)春に忠常は出家して常安と称し、子2人と従者をつれて頼信のもとへ出頭して降伏した。同年6月、京へ連行される途上の美濃国野上で病没した。忠常の首ははねられ、京で梟首とされたが、後に首は親族へ返されている。子の常将と常近も罪を許された。
 忠常の子孫は房総半島の有力武士として残り、後に鎌倉幕府の御家人となる上総氏,千葉氏が出る。 

 父の忠常は長元元年(1028年)以来、朝廷に反旗を翻していたが(平忠常の乱)、同4年(1031年)に降伏した。常将は弟の常親と共に父・忠常の平安京への連行に従事した。忠常は美濃で病没し、首は京で晒されたが、常将と常親は罪を許された。
 下総に帰還した常将は千葉介と号したと言う。そのため、千葉氏の系図では常将を初代当主と見做すことが多い(『千葉大系図』)。伝説によれば、常将は天女を妻とし、常長を儲けたとされる。この天女が何を意味するのか不明である。 

平 常長 平 常兼

 前九年の役・後三年の役で源頼義,義家に従って戦功を立てたとされる。戦の後は上総国大椎に館を構え、更には下総国千葉郷に進出して千葉大夫と号したとされる。
 常長には多くの息子がおり、その息子たちで房総平氏の諸氏が形成されるが、この内、次男の常兼が千葉氏、5男の常晴が上総氏の祖となってそれぞれ発展していくことになる。 

 下総国千葉郷に因んで千葉大介と号したとされ、これが千葉氏の始まりである。 後三年の役に父・常長と共に従事して功を立てたとされる。妻で常重の母である鳥海忠衡の娘は、この戦いの過程で結婚した可能性が高い(鳥海忠衡の出自は不明だが、姓名からすると海道平氏の者だと考えられる。清原成衡の実父とされる平忠衡のことか)。
 千葉の姓は3男・常重が継承するが、常重は常兼の弟である上総介常晴の養子となって房総平氏の惣領の座も得る。これが一族内での抗争の原因となる。

伊沢頼俊
 阿波伊沢城主。三好氏に仕えていたが、天正5年(1577年)3月、一宮成助とともに三好長治に背き、細川真之を討つため出陣した長治を荒田野での戦いにて挟撃し自害させた。この時、伊沢頼俊は阿波の守護所である勝瑞城に入って、阿波を支配しようとしたとされる。しかし、矢野駿河守や三好越後守勝時,庄野久右衛門らが勝端城に迫ったため、僅か20日で勝瑞城から脱出し伊沢頼俊は坂西城に入った。5月には三好長治の残党である引田城主・矢野駿河守国村と、阿波・木津城主の篠原自遁によって坂西城が奇襲を受け、伊沢頼俊は誅殺(自害とも)された。