<桓武平氏>高望王系

H459:国分胤通  桓武天皇 ― 平 高望 ― 平 忠常 ― 千葉常重 ― 国分胤通 ― 国分常義 H461:国分常義 ●

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国分常義 国分胤詮

 矢作常義は利根川沿いの香取郡大戸庄矢作村を領して、大戸矢作領主となった。この流れが実質的に国分氏を代表する家となるが、常義の頃は兄・常通が惣領であったと考えられる。常通の流れは国分氏の名字地・下総国国分寺領をも支配し「国分寺本主」とされている。一方で他の兄弟と同じように父・胤通が手に入れた香取神領・大戸庄内の地頭職でもあり、南部の松沢庄も支配地としている。
 常義の嫡子・胤実は、常義の跡を継いで大戸庄矢作村を支配し、仁治2年(1241年)の千葉介頼胤の家督相続に際してはその後見人となり、千葉本宗家を支える重職に就いている。そして、子・胤長はのちに大戸川国分氏の娘をめとったと思われ、大戸川氏が領していた所領を併合。大戸川氏は子・胤村が継承していくことになったようである。

 胤詮は叔父の胤任・氏胤とともに、大須賀宗正を筆頭とした千葉介満胤の後見人に就任していた。また、胤詮は鎌倉建仁寺から大航慈船和尚を矢作村の大龍寺に招き、ここを国分氏の菩提寺としたと伝わっている。
国分忠胤 国分之胤
 忠胤は上杉禅秀の乱(1454年)に際し、千葉介満胤に従って禅秀方に味方したが、その後、幕府の命を受けた駿河守護・今川範政が鎌倉公方・足利持氏を援けて攻撃をかけてきたため禅秀勢は敗れ、忠胤は千葉介満胤らとともに足利持氏に降伏した。

 康正元年(1455年)、馬加康胤・原胤房らは足利成氏に味方したため、憲胤も彼らとともに行動したようである。千葉胤直は康胤・胤房らに攻められて自害したが、国分氏は生き残り、憲胤の子・之胤は康胤の孫・孝胤に仕えている。
 文明11年(1479年)、太田道灌が下総に攻め込んできたとき、千葉介孝胤は原・木内など重臣らを引き連れて佐倉から武蔵方面に軍を向かった。これを迎え撃ったのが、太田道灌と武蔵千葉氏の当主・千葉自胤であった。道灌・自胤らは武蔵の諸将を率いて下総国境根原に陣を張り、ここで激戦が行われた(境根合戦)。戦いは孝胤の敗北で終わり、佐倉城の前衛基地である臼井城に逃れた。
 道灌は臼井城に弟・資忠を派遣し、千葉自胤を上総へと派遣した。臼井城主・臼井俊胤は一計を立てて、図書助を臼井城内に誘い込んでこれを討ち取り、太田勢に追い討ちをかけてこれを穿滅した。別動の自胤は下総各地の城を陥落させたが、太田勢の本隊が壊滅状態と聞き、臼井城を攻めることなく武蔵へと帰った。この戦いで、国分之胤は臼井に援軍を出して太田勢と戦っている。