<桓武平氏>高望王系

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佐久間勝之 佐久間勝年

 天正10年(1582年)、信濃国高遠城攻めに初陣し功名をあげた。はじめ叔父・柴田勝家の養子となったが、後に佐々成政の娘を娶り婿養子となった。天正12年(1584年)の末森城の戦いなどに活躍するが、天正13年(1585年)成政が羽柴秀吉に降伏すると、妻を離縁し、兄・安政(のちの信濃飯山藩主)と共に関東の後北条氏に仕えた。しかし5年後、豊臣氏によって北条氏が滅ぼされたため、しばらく潜伏していたが、後に遠縁にあたる奥山盛昭を通じて秀吉に召し出され、佐久間姓に復した。
 以後、兄とともに蒲生氏郷に仕え、手ノ子の城を預かった。『佐久間軍記』によれば、葛西大崎一揆の鎮圧で大いに功績を挙げ、その最中に伊達政宗が氏郷を酒席に招き暗殺しようとしたとき、これを察知した勝之は氏郷を逃がしたといわれている。氏郷死後は秀吉より信濃国長沼城を賜った。慶長3年(1598年)に秀吉が死去すると、五奉行が徳川家康に伺いを立て、その結果近江国山路に3,000石を与えられた。
 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍に属した。慶長12年(1607年)江戸城内に移転。その際に常陸国北条3,000石を加増され、合計1万石を領し大名となった。
 慶長20年(1615年)大坂夏の陣では豊臣方の将・竹田永翁を討ち取る手柄を挙げたといい、その戦功により信濃国川中島と近江国高嶋郡の内に加増され、信濃長沼藩1万8,000石の藩祖となった。
 上野東照宮にあるお化け灯籠(高さ6.06m)は、勝之が寛永8年(1631年)に奉納したものである。同じく京都南禅寺、名古屋熱田神宮の大灯籠も勝之の奉納で、これらを合わせて「日本三大灯籠」と呼ぶ。
 寛永11年(1634年)、駿府城番を命ぜられたが、同年67歳で死去。墓所は府中磨屋町顕光院。菩提寺である滋賀県高島市の幡岳寺の過去帳には諱が勝正となっている。位牌も現存する。 

 父・勝之が後北条氏に仕えた時代に、嫡男として相模国小田原で生まれた。徳川秀忠に従い、両大坂の陣に出陣。しかし父より先に没したため、家督は弟の佐久間勝友が相続した。墓所は近江国高島郡中之庄村の幡岳寺。 
佐久間勝友 佐久間勝豊

 兄の勝年が家督相続前に死去したため嫡子となる。寛永12年(1635年)、父・勝之の死去により20歳で長沼藩1万8000石の家督を相続した。このとき兄の遺児・勝盛に5000石を分知した。
 勝友の藩主在任中は、寛永13年(1636年)江戸城外堀、同16年(1639年)西の丸普請などの課役負担や、同18年(1641年)江戸藩邸焼失と再建、同19年(1642年)参勤交代の義務化など多難であった。
 その間、領内では父・勝之の方針を継いで新田開発を推進し、信濃国領内最大の用水池田子池(長野市)を整備して水利権を定めたほか、飯縄山東麓の多くの村々が勝友の代までに立村したと考えられる。ちなみに、勝友当時の長沼藩佐久間家の江戸藩邸は、父勝之以来の愛宕下の上屋敷のほかに、西久保に下屋敷があった。
 寛永19年(1642年)、江戸藩邸において27歳で死去した。跡を長男の勝豊が継いだ。墓所は二本榎広岳院。子孫が幕末に安置した位牌が同寺に現存する。

 

 寛永19年(1642年)閏9月1日、父の死去により8歳で長沼藩主の家督を相続した。このとき弟の勝興に3000石を分知したため、以後長沼藩は1万石となった。勝豊の藩主継承にあたり、所領のうちで祖父・勝之以来着々と開発を進めてきた飯縄山東麓の新田村々が幕府直轄領に組み替えられた。これは山野・水源の資源をめぐる平坦部の里方村々との軋轢を生じ、寛文7年(1667年)から4年間にわたる大規模な山論が争われることになった。延宝6~8年(1678~80年)には領内検地を実施。表高1万石に加えて新たに3,070石の増高を打ち出したという。
 正保4年(1647年)6月2日、地震によって破損した江戸城石塁の普請の課役を負担。延宝9年(1681年)将軍・徳川家綱死去後には寛永寺の家綱霊廟前に石灯籠を奉納した。寛文元年(1661年)12月28日、従五位下備中守に任官、後に安房守に改めた。
 人物評としては、延宝3年(1675年)39歳当時の「文武を学ばざれども才智発明にして弁より仁道に叶へり(中略)所行悪き事なし(中略)少々病気たる故、世間の勤めを怠る、樹景の好み養生とすると云へり」という『武家勧懲記』の記述がある。
 貞享2年(1685年)江戸で死去。51歳。養子の勝親が跡を継いだ。 

佐久間勝親 佐久間勝興
 秋月種信の5男で長沼藩主・佐久間勝豊の婿養子となる。貞享2年(1685年)、勝豊の死去により17歳で長沼藩1万石の家督を相続した。元禄元年(1688年)、20歳のとき5代将軍・徳川綱吉より側小姓を命ぜられるも、病と称して辞退した。これが仮病であったことが幕府に知られたため、不敬であるとして改易され、身柄は二本松藩主・丹羽長次の預かりとなった。元禄4年(1691年)、23歳で死去した。滋賀県高島市の幡岳寺と福島県二本松市の龍泉寺に位牌が現存している。 

 寛永19年(1642年)閏9月1日、兄・勝豊が家督を相続した際に3000石の分知を受け小普請となる。同年閏10月1日、将軍・徳川家光に拝謁。所領は本家長沼藩と同じく信濃国水内郡と近江国高島郡に分散し、長沼城の北に隣接する水内郡赤沼村に陣屋を置き領政を行なったため赤沼知行所の初代領主と称される。江戸屋敷の位置は不明である。分家するとき長沼藩から鹿島佐五右衛門,中村八太夫の両家老をはじめとする家臣団が付属され、幼い勝興を補佐して「正路の仕置」(道理にかなった政治)を行ったので領民の信頼を得たという。正保3年(1646年)には長沼知行所(5000石)佐久間勝盛の死去に伴い、長沼藩,長沼知行所,赤沼知行所,幕府直轄領の四者間で所領の組替えが実施された。
 男子がなく、叔父勝種の子・盛遠を養子とした。寛文4年(1664年)24歳で死去。盛遠が跡を継いだ。 墓所は三田済海寺。子孫が奉納した位牌が二本榎広岳院に現存する。 

佐久間勝種

 慶安3年(1650年)閏10月9日、徳川家光が浅草へ鷹狩りに赴く途上で駕籠訴を行い、出仕を願った。これが許され、同月14日、御書院番に列せられ蔵米300俵を賜る。
 天和2年(1682年)8月11日、番頭組頭からの訴えにより取り調べを受け、牧野教成にお預けとなり、21日に遠流となった。