<桓武平氏>高望王系

H514:大多和義久  平 高望 ― 平 将常 ― 平 忠通 ― 三浦義明 ― 大多和義久 ― 大多和義季 H515:大多和義季



リンク
大多和義勝

 大多和義久の5代目の子孫である。1333年(元弘3/正慶2年)5月15日、分倍河原の戦いで15万の幕府軍に迎撃され全滅状態にな新田義貞軍は辛うじて脱出した。敗走した義貞は、退却も検討していたが、その日の晩、三浦氏一族の大多和義勝が河村・土肥・渋谷・本間ら相模国の氏族を統率した軍勢8000騎で義貞に加勢した。大多和氏は北条氏と親しい氏族であったが、北条氏に見切りをつけて義貞に味方した。また義勝は足利一族の高氏から養子に入った人物であり、義勝の行動の背景には宗家足利氏の意図、命令があったと指摘されている。
 義勝の協力を得た義貞は、更に幕府を油断させるために忍びの者を使って大多和義勝が幕府軍に加勢に来るという流言蜚語を飛ばした。翌16日早朝、義勝を先鋒とした新田軍は2万の兵力で分倍河原に一気に押し寄せ、虚報を鵜呑みにして緊張が緩んだ北条軍に奇襲を仕掛け大勝利し、北条泰家以下は壊滅して敗走した。