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平子重経は源頼朝の家臣で、平氏滅亡後に周防国吉敷郡内仁保等の所領を得て、建久8年(1197年)に仁保荘・恒富保の地頭職に任じられ、関東から周防国吉敷郡仁保荘に下向し土着した。
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大内氏の重臣である仁保氏の庶流にあたる吉田重基の子として生まれる。大内義興の代から大内氏に仕え、「興」の偏諱を受けた。 享禄元年(1528年)12月20日に大内義興が死去すると、家督を継いだ大内義隆に仕え、享禄年間から中枢奉行人の一人としての活動が見られる。 天文2年(1533年)、大内氏が大森銀山(石見銀山)を奪回した際に、飯田興秀と共に銀山付近の山吹城の守備を任され、毎年銀100枚を貢納させたとされるが、天文6年(1537年)には尼子氏に敗れて銀山を奪われている。 天文8年(1539年)6月13日、本家筋にあたる仁保氏の当主である仁保興奉が死去し、興種の次男である隆在が家督を相続した。 天文20年(1551年)に陶隆房(後の陶晴賢)らが大内義隆に謀反を起こした大寧寺の変によって大内義隆が自害し、大内義長が大内氏を継ぐと、興種も大内義長に仕えた。弘治元年(1555年)から毛利氏による防長経略が始まると、毛利氏に服属した。その後、毛利氏当主である毛利隆元から偏諱を与えられ、「元種」と改名したと考えられている。 永禄9年(1566年)12月21日に仁保氏の家督を継いでいた次男の仁保隆在が死去すると、吉川元春の次男・吉川元棟(後の繁沢元氏)が隆在の娘と婚姻し所領を相続することが決まり、元棟はまだ幼少であったため、後見役・名代として吉川氏一門の江田智次が元棟につけられた。しかし、仁保隆在の実父としての興種は、吉川氏による仁保氏の統制を維持していく上で厄介な存在となっていた。仁保氏家中において吉川氏との緊張状態にあった永禄12年(1569年)10月11日、大友宗麟の支援を受けた大内輝弘が翌10月12日には山口に侵攻し、大内輝弘の乱が勃発すると、長府に在陣していた毛利元就は、吉川元春と小早川隆景が率いる毛利軍の主力を大内輝弘攻撃へ向かわせることを決定。大内輝弘の軍と吉見氏の軍との間の合戦のなかでも、興種は戦いに加わらず傍観したためか大内輝弘方への内通を疑われて江田智次による討伐を受ける。興種はかつての仁保隆在の居館に立て籠って抗戦したが、10月28日までに嫡男の吉田武種や一族、家人らと共に討ち果たされた。興種らの首級は江田智次によって首注文と共に長府の毛利元就と毛利輝元のもとに送られ、10月28日に元就と輝元の連名で江田智次に書状を送り、吉田氏討伐の功を賞している。さらに同日に毛利輝元・元就・小早川隆景が連名で吉川元春に書状を送り、吉田興種を討ち果たした江田智次と仁保衆へ褒美を与えるよう伝えている。
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