<継体朝>

K312:桓武天皇  継体天皇 ― 欽明天皇 ― 敏達天皇 ― 押坂彦人大兄皇子 ― 天智天皇 ― 桓武天皇 ― 万多親王 K314:万多親王

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万多親王 正躬王

 延暦14年(795年)に周防国の田百町,山八百町を賜る。延暦20年(801年)元服。中務卿を経て、弘仁8年(817年)三品に叙せられる。弘仁14年(823年)式部卿に任ぜられる。天長5年(828年)大宰帥に任ぜられ、天長7年(830年)二品となるが、同年中に薨去。享年43。
 右大臣・藤原園人らとともに『新撰姓氏録』を編纂し弘仁5年(814年)に完成させた。 

 幼くして聡明であり、大学で学び、史漢を読解し属文を得意とした。弘仁7年(816年)18歳で文章生の試験に及第。天長6年(829年)には無位から従四位下に直叙せられ、侍従,弾正大弼,刑部大輔,右京大夫と淳和朝から仁明朝初頭にかけて京官を歴任する。承和6年(839年)、丹波守に任ぜられ地方官に転じるが、国司として清廉でおおらかであるとして賞賛され、国内は粛然とし民衆は敢えて欺くようなことはなかったという。
 承和7年(840年)、参議として公卿に列す。承和9年(842年)従四位上に昇叙して左大弁を兼ねる。同年7月に発生した承和の変では右大弁・和気真綱とともに橘逸勢と伴健岑に対して謀反の訊問や、皇太子を廃された恒貞親王の内裏から淳和院への送迎などを務めている。またこの間、山城国の校田使長官や班田使長官、あるいは大和守・遠江守・讃岐守に任ぜられるなど地方官も歴任している。
 承和12年(845年)、法隆寺の僧侶・善愷が少納言・登美直名に不正があると訴えた。裁判を扱う弁官は左大弁・正躬王以下6人で右少弁・伴善男も含まれていた。正躬王ら5人の弁官はこの訴状を受理したが、伴善男が僧侶が法体のまま訴訟を起こすことは僧尼令に違反しており、訴状を受理することは違法であると反対した。正躬王ら5人の弁官は僧尼令の該当する条項が過去において実際に適用されたことがないことを理由に審理をはじめようとするが、善男は違法の訴えを許したと正躬王らを告発した。法理論争となり、明法博士・讃岐永直らが訴状を鑑定して裁定することになり、結果訴状の受理は違法とされた。翌承和13年(846年)、正躬王は贖銅10斤を課された上に、他の4人の弁官とともに解官され、さらに承和14年(847年)に位記を破毀された(善愷訴訟事件)。
 嘉祥元年(848年)、位階を以前から1等降格した上で従四位下に再叙され、嘉祥3年(850年)に治部卿に任ぜられる。文徳朝では仁寿元年(851年)従四位上、斉衡2年(855年)正四位下と昇進する。同年大宰大弐に任ぜられ、6年間任地に在官して貞観2年(860年)に帰京。
 貞観3年(861年)、参議に任ぜられて15年振りに公卿に復し、弾正大弼を兼ねる。貞観4年(862年)、子息12名及び既に亡くなっていた兄の正行王と雄風王の子息17名に平朝臣姓の賜姓を上表し許されている。貞観5年(863年)、刑部卿と越前権守を兼ねるが、同年5月1日薨去。享年65。

正行王 雄風王

 初め兄・正躬王とともに大学で学び、嵯峨上皇の命により嵯峨院で仕えた。天長10年(833年)には仁明天皇の即位に伴い、無位から従四位下に直叙され侍従に任ぜられるが、天皇から非常な寵遇を受けたという。越中守,左馬頭を経て、承和13年(846年)従四位上・左京大夫に叙任。
 文徳朝では仁寿元年(851年)加賀守、斉衡2年(855年)弾正大弼を歴任。天安2年(858年)3月、美作権守を兼ねるが、同年7月10日卒去。享年43。

 若い頃から大学寮で学び、推挙されて皇太子・道康親王の身近に仕える。嘉祥3年(850年)、道康親王の即位(文徳天皇)に伴い、無位から従四位下に直叙される。嘉祥4年(851年)次侍従、仁寿2年(852年)左馬頭を歴任した。
 斉衡2年(855年)6月26日卒去。享年42。卒去にあたって文徳天皇に非常に哀れみ悼まれたという。貞観4年(862年)、兄弟の正躬王の上表により子息の定相王が平朝臣姓を与えられ臣籍降下している。
 奥深く静かな性格で、頭の働きがすばやかった。立ち居振る舞いが淑やかで優雅であり、心が広くてゆったりしていた。また、鷹狩や乗馬を非常によく習得していたという。