<継体朝>

K329:後白河天皇  後白河天皇 ― 高倉天皇 K330:高倉天皇

 

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高倉天皇 安徳天皇

 母・平滋子は平清盛の妻・平時子の異母妹であり、政界の実力者・清盛の義理の甥にあたることに加えて、当時、政治方針を巡って対立した二条天皇によって院政停止状態に置かれていた後白河院の不満から、まだ皇子のなかった二条天皇の後継に擁立する動きがあり、誕生直後の9月15日、叔父の平時忠と清盛の弟・平教盛は二条天皇により解官されている。永万元年(1165年)7月に二条天皇が崩御すると、その死後に立てられた六条天皇(二条天皇の子、高倉天皇からみて甥)の3歳の年長であるにも関わらず、仁安元年(1166年)10月10日、皇太子に立てられた。2年後の仁安3年(1168年)2月19日、六条天皇をわずか5歳(満3歳)で退位させ、自身が8歳で天皇として擁立された。政務は父・後白河院が院政を敷いた。
 承安2年(1172年)、平清盛と時子の娘・平徳子(後の建礼門院)を中宮に迎える。治承2年(1178年)11月12日、中宮・徳子に皇子(のちの安徳天皇)が誕生し、同年12月15日には皇子を早々に皇太子とした。
 翌治承3年(1179年)11月、父・後白河院と舅・清盛の政治的対立が深まり、治承三年の政変によって後白河院が事実上の幽閉状態に置かれると、高倉天皇自ら政務をとった。翌治承4年(1180年)2月、平清盛の孫にあたる安徳天皇に皇位を譲り、院政を開始するが間もなく病に倒れた。
 後白河院と平氏の圧力に悩まされ続けた天皇とされてきたが、近年の研究では平氏一門と組んで政治を推し進める意図を持っていたとの説や後白河院がこれを嫌って自分の皇子(天皇の異母弟)を天皇の養子にして譲位させようとしていたとする説も出ている。色白で美しい容姿であり、その人柄は多くの廷臣から慕われていたという。

 治承2年(1178年)11月12日に生まれ、生後まもない12月15日に立太子。治承4年(1180年)2月21日に践祚し、4月22日に数え年3歳(満1歳4か月)で即位する。幼年のため実権はなく、政治は外祖父たる平清盛が取り仕切った。即位前には、天皇の祖父・後白河法皇も清盛により幽閉されるに至った。摂政には藤原基通が任じられた。
 即位の年に清盛の主導で遷都が計画され、福原行幸が行われるが、半年ほどで京都に還幸した。寿永2年(1183年)、源義仲の入京に伴い、平宗盛以下平家一門に連れられ三種の神器とともに都落ちする。この後、寿永2年8月20日(1183年9月8日)に三種神器が無いまま後鳥羽天皇が践祚し、元暦元年(1184年)7月28日に即位。正史上初めて同時に2人の天皇が擁立されることになった。
 一方、安徳天皇は平家一門に連れられ大宰府を経て屋島に行き、1183年に現在の屋島東町にある見晴らしの良い高台に行宮を置いた。この行宮跡地付近には、ささやかな神社「安徳天皇社」が置かれている。しかし、源頼朝が派遣した鎌倉源氏軍(源範頼,源義経)によって、平氏は一ノ谷の戦いと屋島の戦いに敗北。特に屋島合戦(1185年2月)の敗北により、天皇と平家一門は海上へ逃れる。そして寿永4年(1185年)4月、最期の決戦である壇ノ浦の戦いで平氏と源氏が激突。平氏軍は敗北し、一門は滅亡に至る。
 『平家物語』によれば、最期を覚悟して神璽と宝剣を身につけた祖母・二位尼(平時子)に抱き上げられた安徳天皇は、「尼ぜ、わたしをどこへ連れて行こうとするのか」と問いかける。二位尼は涙をおさえて「君は前世の修行によって天子としてお生まれになられましたが、悪縁に引かれ、御運はもはや尽きてしまわれました。この世は辛く厭わしいところですから、極楽浄土という結構なところにお連れ申すのです」と言い聞かせる。天皇は小さな手を合わせ、東を向いて伊勢神宮を遙拝し、続けて西を向いて念仏を唱え、二位尼は「波の下にも都がございます」と慰め、安徳天皇を抱いたまま壇ノ浦の急流に身を投じた。安徳天皇は、歴代最年少の数え年8歳(満6歳4か月)で崩御した。なお、『吾妻鏡』では安徳天皇を抱いて入水したのは按察使局伊勢とされている。
 母の建礼門院(平徳子)も入水するが、熊手に髪をかけられ引き上げられている。この際、三種の神器のうち神璽と神鏡は源氏軍が確保した。宝剣はこの時失われたとする説がある(宝剣に関しては異説も多くある)。その後、後鳥羽~土御門天皇~順徳天皇時に伊勢神宮から献上されたものを正式に宝剣とした。
 寿永2年(1183年)に後鳥羽天皇が即位したため、同年から崩御の寿永4年(1185年)までの2年間、在位期間が重複している。「安徳帝」と漢風諡号が贈られた。当時、他の天皇は院号だったが安徳のみは「安徳天皇」とされた。平安以後、漢風諡号そして「徳」の字の使用は、ほぼ鎮魂慰霊の場合に限られた。 

守貞親王 範子内親王

 乳母は平知盛正室の治部卿局。平家の許で育てられた縁から、寿永2年(1183年)7月の平家の都落ちの際には安徳天皇の皇太子に擬され、天皇と共に西国へ伴われる。平家滅亡時に救出されて帰京するが、都では既に後鳥羽天皇が即位していた。
 文治5年(1189年)親王宣下を受け、建久2年(1191年)に元服・加冠。後に持明院基家の女・陳子を妃とし、持明院家ゆかりの持明院を御所として持明院宮を号したが、皇位の望みもない不遇な運命を嘆いて建暦2年(1212年)3月に出家。法名・行助を名乗った。
 ところが、8年後の承久3年(1221年)に起きた承久の乱によって行助の運は一変する。乱後、鎌倉幕府は仲恭天皇を廃位するとともに後鳥羽・土御門・順徳3上皇を配流とし、後鳥羽上皇の後裔のことごとくを配流・出家・臣籍降下させて、その系統による皇位の継承を認めない方針をとった。これによって世俗に在る男子皇族が行助の三男・茂仁王のみとなったのである。そこで幕府は直ちに茂仁王を即位(後堀河天皇)させるとともに、不在となった治天の君にはその父である行助に太上天皇号を奉り、これを法皇として院政を敷かせることにした。皇位に即かず、しかもすでに出家している入道親王に太上天皇号を奉って治天に副えるというのは全く先例のない措置だったが、後鳥羽系の皇族が一掃された以上、他に選択肢はなかったのである。
 治天となった行助入道親王は、乱後の朝廷内の混乱を収拾や公武関係の融和に実績を残したものの、わずか2年で腫物を患って薨去。北白河に奉葬され、「後高倉院」の院号を贈られた。

 高倉天皇とその寵妃・小督との間に生まれるが、母は出産後、平清盛らによる迫害を受け出家、皇女は猫間中納言・藤原光隆の七条坊門の邸で養育される。治承2年(1178年)内親王宣下、賀茂斎院に選定。例に倣い2年後の治承4年(1180年)より紫野院(斎院御所)に入る。養和元年(1181年)高倉院の喪により斎院を辞す。平安末期の戦乱によりしばしば滞在していた頌子内親王の五辻第を相続して住居とする。この間に、脅威であった平家が滅亡し、異母弟の後鳥羽天皇が即位する等、範子内親王を取り巻く環境は大幅に好転していた。建久6年(1195年)より准三后待遇、建久9年(1198年)土御門天皇即位に伴い、その准母となり、准母立后により皇后とされる。建永元年(1206年)院号宣下。承元4年4月12日(1210年5月13日)一条室町第にて病没。 
惟明親王 尊性法親王

 寿永2年(1183年)に異母兄・安徳天皇が平家の都落ちに伴って西国へ下り、さらに同じく異母兄の守貞親王も皇太子に擬せられてこれに同行したことから、1歳年下の異母弟・尊成親王とともに皇嗣の有力候補となる。しかし、母親(平範子)の身分が低かったこと、さらに異母弟・尊成親王の方が祖父の後白河法皇に可愛がられていたことから、皇位は尊成親王が継いだ(後鳥羽天皇)。
 文治5年(1189年)親王宣下を受け、建久6年(1195年)に後鳥羽天皇の生母・七条院(藤原殖子)の猶子となり元服して三品に叙せられる。承元4年(1210年)後鳥羽天皇の皇子・順徳天皇が即位すると、皇位継承の望みがなくなった不遇を儚んで、翌承元5年(1211年)出家し、以後は聖円入道親王と名乗った。承久の乱直前の承久3年(1221年)5月3日薨去。享年43。
 和歌に優れており、式子内親王や藤原定家などの当代随一の歌人とも親交が深かった。『新古今和歌集』(6首)以降の勅撰和歌集に33首が収められている。

 承元3年(1209年)3月に出家して、妙法院の実全の元に入る。後に一身阿闍梨・権大僧都になる。承久3年(1221年)に弟の後堀河天皇の即位に伴って親王宣下を受け、貞応2年(1223年)に二品親王となる。実全から譲り受けた綾小路房を綾小路小坂殿と称する御所とした。
 嘉禄元年(1225年)、慈円が没すると彼が持っていた四天王寺別当の後継問題が浮上した。延暦寺(山門)は慈円の甥である良快(九条兼実の子)を推挙し、園城寺(寺門)は慈円の大甥である良尊(九条良経の子で良快の甥)を推挙して争った。ところが、後堀河天皇は両方の要求を斥け自分の兄である尊性を後任に補任したのである。続いて、安貞元年(1227年)には天台座主に補任されている。
 寛喜元年(1229年)、尊性が延暦寺の内紛から天台座主を辞退すると、かねてから尊性の別当補任に不服を抱く四天王寺の僧侶が尊性の排除を図って放火未遂を起こし、更に同寺の絵解法師が同寺の仏舎利を奪って失脚を図ろうとした。同寺の混乱は寛喜3年(1231年)に山場を迎えた。藤原定家の日記『明月記』の同年9月3日条にその様子が詳しく書かれており、関白の九条教実が四天王寺の混乱を鎮圧するように鎌倉幕府に要請したところ、四天王寺が戦場になって被害が出るのを恐れた幕府がこれを断って尊性が一旦辞退してほとぼりが冷めた後に復帰する案を出したこと、それを聞いた尊性は教実の父で当時の朝廷の最高実力者であった九条道家が自分を辞めさせるために幕府に進言していると疑ったこと、これに対して道家は良快も良尊も自分の身内でありどちらにも味方できないのに(尊性続投が望ましいのに)疑われる事態になって困惑している状況が記されている。最終的には尊性は12月13日になって幕府の意向に沿う形で良快に譲ることになった。
 ところが、翌貞永元年(1232年)2月に入ると関白・九条教実と六波羅探題・北条重時の間で尊性を天台座主に復帰させることが協議されて本人も受諾、天福元年(1233年)には四天王寺別当に再任されている。尊性は後堀河天皇の兄であることから、天皇及び天皇を支持する鎌倉幕府・六波羅探題に対して積極的な政治工作を行って自らに有利な立場を築くことに努めた。特に自らの拠点であった妙法院の立て直しに尽力し、同院を天台宗の有力門跡に育て上げた。尊性が弟の後堀河天皇に充てた自筆書状103通は法親王の薨去後にそれらを裏紙にして法華経を摺り写したことから、紙背文書として現存している。尊性が幕府と密接でなおかつ自身も一定の武力を持つ権門の一員であったことは、藤原定家が彼を「兵を好む」と評していることからもうかがえる。
 暦仁元年(1238年)、天台座主を退き、翌延応元年(1239年)に46歳で薨去した。琵琶の達人でもあった。

後堀河天皇 四条天皇

 承久3年(1221年)の承久の乱により、鎌倉幕府は後鳥羽上皇・土御門上皇・順徳上皇の三上皇を配流し、仲恭天皇を退位させた。次代皇位継承者には、乱の首謀者である後鳥羽上皇の直系子孫を除外し、後鳥羽上皇の兄・守貞親王(行助入道親王)の3男であり、出家していなかった茂仁王(後堀河天皇)を即位させた。また、茂仁の母である持明院棟子(北白河院)の存在も注目される。彼女の父・基家は源頼朝の妹婿である一条能保の叔父、母は平頼盛の娘(平治の乱の際に源頼朝の命を救った池禅尼の孫にあたる)であり、鎌倉幕府にとっても彼女が生んだ茂仁は皇位継承者として望ましい存在であったと考えられる。
 茂仁王も十楽院僧正・仁慶の弟子となり、すでに十楽院に入室していたが、まだ正式に出家していなかった。立太子礼を経ずして、仲恭天皇廃位後同日の承久3年7月9日(1221年7月29日)践祚、同年12月1日(1222年1月14日)即位。
 後堀河天皇はこのとき10歳であったため、父親の守貞親王に太上天皇の尊号を奉り上皇(後高倉院)として、院政を行わせた。この時代は、主に承久の乱の後処理が行われていた。貞応2年(1223年)5月、守貞親王薨去。
 貞永元年10月4日(1232年11月17日)、院政を行うべく、まだ2歳の四条天皇に譲位。3日後に太上天皇となる。しかしながら、元来病弱であり、院政開始後2年足らずの天福2年8月6日(1234年8月31日)に23歳で崩御した。その崩御が中宮竴子の死から間もない時期だったため、かつて天皇から天台座主の地位を約束されたものの反故にされた僧正・仁慶の怨霊の祟りだとか、後鳥羽上皇の生霊のなせる怪異であるなどと噂されたといわれる。

 寛喜3年(1231年)2月12日に一条室町邸で誕生。同年4月11日に親王となり、10月28日に後堀河天皇の皇太子に立てられる。貞永元年(1232年)10月4日、父・天皇の譲位に伴って2歳で践祚、12月5日に即位。仁治2年(1241年)1月5日に元服し、12月13日九条彦子を納れて女御としたが、翌仁治3年(1242年)1月9日不慮の事故が原因でにわかに崩御。享年12。同月19日に四条院と追号された。12歳で崩御したため、皇子女はない。
 天皇は幼少であり、初めは父である後堀河上皇が院政を敷いた。だが、2年後に上皇が崩御したため、外祖父の九条道家とその舅の西園寺公経が事実上の政務を行っていた。彗星に祟られるが、備中国宝福寺の鈍菴慧聡の祈祷により快癒し、同寺は勅願寺となる。崩御については、幼い天皇が近習の人や女房たちを転ばせて楽しもうと試みて御所の廊下に滑石を撒いたところ、誤って自ら転倒したことが直接の原因になったという。突然の崩御を不可思議に思う者が少なくなかったようで、巷では後鳥羽上皇の怨霊とか慈円の祟りによるものとの噂が立った。死因を脳挫傷とする憶説もある。右大臣であった九条忠家とは同年配で、騒々しいほどの遊びばかりで朝夕をともに過ごしていた。
 父・後堀河天皇の兄はいずれも出家しており、自身には男兄弟がなく、皇子もいなかった四条天皇の死により、守貞親王(後高倉院)の血統から皇位継承が可能な皇子は絶えた。やむなく後鳥羽上皇の血統から次代を選ぶこととなり、九条道家ら有力公卿は順徳上皇の皇子・忠成王を推したのに対し、幕府は土御門上皇の皇子・邦仁王(後嵯峨天皇)を推し、このやりとりの末、11日間の空位期間が発生した。
 なお、泉涌寺を再興した俊芿を天皇の前生とする説があり、その理由の一つとして、天皇が俊芿と同じく大根を好んで食べたということが伝えられている。