<神皇系氏族>天孫系

A109:天曽利命  天曽利命 ― 日下部立次 KC03:日下部立次 ●

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日下部立次 日下部三仲

 日下部氏は、日向国の社家・武家で都萬神社の宮司家であり、平安時代には日向国児湯郡の荘園を管轄し、鎌倉時代前期まで活躍していた。
 その系図は複数伝わっているが、ほとんどが歴史的史料に矛盾を含んだものであるとされる。都萬神社の縁起(14世紀撰述の『都萬大明神之御縁起』)や、伝来した系図のうちの一つである「日下部氏家系」によれば、庚午年11月19日庚午日に、土を掘って出現した男女があり、住居のために萱苅を拵え、男が日下部立次と名乗ったのが日向の日下部氏の祖であると伝える。

 奈良時代の防人。三仲とも。姓は使主。三中は上総の須恵国造一族出身であるとされ、同族には、宝亀8年(777年)10月に周淮郡司大領外従七位であった日下部使主山主や、同郡少領の日下部使主□麿がいた。天平勝宝7歳(755年)2月、防人として筑紫に派遣された際に詠んだ歌が『万葉集』に1首入集している。
 日向国の日下部氏の系図に、上総国の人間である三中が取り込まれているのは、『万葉集』に歌を選ばれた三中を日下部氏の誇りとしていたためとみられている。

日下部久仲 日下部清直

 日下部氏の系図に見える日下部久仲は、系図上は三仲の子とされる。その娘は白河院に仕え、その後に土持則綱に嫁いだという。
 久仲の男子は久貞とされ、保安4年(1123年)に日向国国司となり、日下部宿禰を名乗ったとする。久貞の子・尚守も父と同じように国司職に任じられ、その弟の立信は法亢山城守を称して法亢氏の祖となった。

 『日本三代実録』によれば、貞観8年(866年)1月8日には、日向国人で従七位下であった日下部清直が、借外・従五位下の位階を授けられたという。清直は官職の記載がないため、このとき郡司ではなかったものの、従七位下の位階を有していることから、郡領を輩出する階層の出身で、郡領経験者であった可能性がある。清直が授位されたのは、開発・開墾もしくは多額の私財の供出といった功績に対してであったと推測される。