<皇孫系氏族>孝元天皇後裔

KI03:紀 大人  紀 角 ― 紀 大人 ― 紀 船守 KI51:紀 船守

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紀 船守 紀 勝長

 天平宝字年間に授刀舎人となる。天平宝字8年(764年)に発生した藤原仲麻呂の乱においては、孝謙上皇が淳仁天皇の許にあった駅鈴,内印(天皇の御璽)を回収しようとした際、武装してこれを奪いに現れた仲麻呂方の中衛将監・矢田部老を射殺する。この功労により従七位下から従五位下と一挙に8階級の昇叙、および勲五等の叙勲を受ける。
 神護景雲2年(768年)に検校兵庫将軍の官職が新設されるとその軍監(三等官)に任ぜられる。その後、称徳朝から光仁朝前半にかけて近衛将監を務め、宝亀2年(771年)従五位上に叙せられる。宝亀6年(775年)近衛員外少将、宝亀9年(778年)近衛少将と光仁朝後半も引き続き近衛府の武官を歴任し、宝亀10年(779年)正五位上、宝亀11年(780年)従四位下と光仁朝末に続けて昇叙された。
 天応元年(781年)桓武天皇が即位すると、従四位上・参議兼近衛員外中将に叙任され公卿に列す。桓武天皇の信任が厚く、昇進を続け、延暦10年(791年)大納言に至る。またこの間、延暦3年(784年)には藤原種継らと共に造長岡宮使に任ぜられ、長岡京の造宮を担当している。
 延暦11年(792年)4月2日薨去。享年62。桓武天皇は船守の死を深く哀悼し、正二位・右大臣の官位を追贈した。

 延暦4年(785年)従五位下に叙爵し、翌延暦5年(786年)近江介に任ぜられる。同年8月の蝦夷攻めに際して東山道の兵器を調査している。延暦11年(792年)4月に父・船守が没すると、9月に兵部大輔に任ぜられて京官に復す。その後、桓武朝中期から急速に昇進する。延暦14年(795年)には右中弁兼右衛門督(のち右兵衛督)と文武の要職を兼ね、延暦15年(796年)参議に任ぜられて公卿に列した。またこの頃、名を梶長(楫長)から勝長に改めている。
 議政官として左兵衛督,造東大寺長官,右京大夫を兼ねる一方、引き続き順調に昇進を続け、延暦22年(803年)には従三位に叙せられている。
 延暦25年(806年)平城天皇の即位に伴って4月に中納言に昇進するが、同年10月3日薨去。享年53。
 おおらかで、人をよく受け入れる性格であった。客人を好み、倦むことなくもてなしを行い、饗宴の費用について全く気にすることがなかった。歩射の作法に優れその道の師であった。犬・馬を非常に好み、欲するままに愛玩したいとの気持ちが抑えられないところがあったという。

紀 友則 紀 貫之

 40歳過ぎまで無官であったが、和歌には巧みで多くの歌合に出詠している。寛平9年(897年)に土佐掾、翌昌泰元年(898年)に少内記、延喜4年(904年)に大内記に任ぜられる。
 紀貫之,壬生忠岑と共に『古今和歌集』の撰者となったが、完成を見ずに没した。『古今和歌集』巻16に友則の死を悼む貫之,忠岑の歌が収められている。『古今和歌集』の45首を始めとして、『後撰和歌集』『拾遺和歌集』などの勅撰和歌集に計64首入集している。歌集に『友則集』がある。
 寛平年間に禁中で行われた歌合に参加した際、友則は左列にいて「初雁」という秋の題で和歌を競うことになった。そこで「春霞かすみて往にし雁がねは今ぞ鳴くなる秋霧の上に(=春霞にかすんで飛び去った雁が、今また鳴くのが聞こえる。秋霧の上に)」と詠んだ。右列の者たちは「春霞」という初句を聞いたときに季節が違うと思って笑ったが、第二句以下の展開を聞くに及んで、逆に面目なく感じ黙り込んでしまった。そして、これが友則の出世のきっかけになったという。なお、この歌は『古今和歌集』秋上では「題しらず よみ人しらず」とされている。
代表歌に、「久方の ひかりのどけき 春の日に しづ心なく 花のちるらむ」(『古今和歌集』)がある。

 延喜5年(905年)醍醐天皇の命により初の勅撰和歌集である『古今和歌集』を紀友則,壬生忠岑,凡河内躬恒と共に撰上。また、仮名による序文である仮名序を執筆している(真名序を執筆したのは紀淑望)。「やまとうたは人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける」で始まるこの仮名序は、後代の文学に大きな影響を与えた。また『小倉百人一首』にも和歌が収録されている。理知的分析的歌風を特徴とし、家集『貫之集』を自撰した。
 日本文学史上において、少なくとも歌人として最大の敬意を払われてきた人物である。種々の点でその実例が挙げられるが、勅撰歌人として『古今和歌集』(101首)以下の勅撰和歌集に435首の和歌作品が入集しているのは歌人の中で最高数であり、三代集時代の絶対的権威者であったといえる。
 散文作品としては『土佐日記』がある。日本の日記文学で完本として伝存するものとしては最古のものであり、その後の仮名日記文学や随筆、女流文学の発達に大きな影響を与えた。
 貫之の邸宅は、平安京左京一条四坊十二町に相当する。その前庭には多くの桜樹が植されており、「桜町」と称されたという。その遺址は現在の京都御所富小路広場に当たる。
 『大鏡』によると、その和歌の腕前は非常に尊重されていたらしく、天慶6年(943年)正月に大納言・藤原師輔が、正月用の魚袋を父の太政大臣・藤原忠平に返す際に添える和歌の代作を依頼するために、わざわざ貫之の家を訪れたという。
 『袋草紙』などでは、貫之の詠んだ歌の力によって幸運がもたらされたという「歌徳説話」も数多く伝わっている。

紀 名虎 紀 有常

 嵯峨朝末の弘仁13年(822年)従五位下に叙爵する。淳和朝では昇進が停滞するが、仁明朝に入ると、急速に昇進を果たす。また、この間に掃部頭・中務大輔などを歴任した。この急速な昇進は、娘の種子を仁明天皇の後宮に女官(更衣)として仕えさせたことによるものとされる。承和11年(843年)刑部卿に任ぜられる。
 またこの頃、名虎はもう一人の娘である静子を皇太子・道康親王(のち文徳天皇)に入侍させており、承和12年(844年)には第一皇子・惟喬親王を儲けている。承和14年(847年)6月16日卒去。最終官位は散位正四位下。
 なお名虎の死後、文徳天皇は右大臣・藤原良房の外孫である皇太子・惟仁親王(のちの清和天皇)が成人するまでの間、惟喬親王に皇位を嗣がせようとしたとされるが、これは実現しなかった。
 惟喬,惟仁両親王の立太子を巡って、名虎と良房とがそれぞれ真言僧の真済と真雅とに加持祈祷させた、あるいは名虎と良房が相撲をとって勝負を決めた、さらには、立太子争いに敗れた名虎が血を吐いて死んだ等の逸話がある。しかし、実際には惟仁親王誕生(嘉祥3年[850年])の3年前に名虎は没しており、これらの逸話は史実ではなく、第一皇子でありながら皇位に就けなかった惟喬親王に対する同情が生んだ伝説と考えられている。

 左京の出身で少年の頃から仁明天皇に奉侍し、左兵衛大尉を務めた。嘉祥3年(850年)文徳天皇が即位すると、蔵人兼左近衛将監に任ぜられ、引き続き天皇の身近に仕える。翌仁寿元年(851年)従五位下に昇叙し、左馬助に任ぜられる。のち文徳朝では、右兵衛佐,右近衛少将,左近衛少将と武官を歴任した。またこの間の斉衡2年(855年)に従五位上に昇叙されている。
 しかし、文徳朝末の天安元年(857年)5月に左少将から伊勢権守へと地方官に転任、同年9月に少納言兼侍従と再度京官を兼務するが、翌天安2年(858年)2月には肥後権守と今度は遠国の地方官に転じた。
 清和朝では、貞観7年(865年)刑部権大輔を経て、下野権守・信濃権守と東国の地方官を務めた。貞観15年(873年)正五位下と18年ぶりに昇叙され、貞観17年(875年)雅楽頭として京官に復す。貞観18年(876年)従四位下に昇叙され、翌貞観19年(877年)正月に周防権守と地方官に任ぜられるが、同月23日に卒去。享年63。最終官位は従四位下行周防権守。
 性格は清らかで慎ましく、礼に明るいとの評判が高かったという。勅撰歌人として、『古今和歌集』『新古今和歌集』にそれぞれ1首ずつ採録されている。『伊勢物語』16段では、長年連れ添った妻が尼となって去ってしまったことを悲しんだ有常が、親しい友人と和歌のやりとりをした話が語られている。

紀 田上 紀 深江

 桓武朝の延暦22年(803年)従五位下に叙爵し、翌延暦23年(804年)内廐助次いで相摸介に任ぜられ地方官に転じる。平城朝に入ると大同元年(806年)従五位上・相模守、大同3年(808年)正五位下に叙任されるなど順調に昇進する。
 大同4年(809年)相模守の任期を終えて帰京するが、平城上皇に従い平城京に移る。大同5年(810年)正五位上次いで従四位下に続けて昇叙される。同年9月に発生した薬子の変に際しては、6日に嵯峨天皇の信頼が篤い坂上田村麻呂,藤原冬嗣と共に平城京の造宮使に、10日には尾張守に任ぜられるが、結局平城天皇側で活動したらしく、変平定後の15日には佐渡権守に左遷されている。
 天長元年(824年)平城上皇の崩御に伴い罪を赦されて帰京するが、翌天長2年(825年)4月13日卒去。享年56。武芸を家業とする紀氏の中にあって、華やかな才能があるとして評判が高く、政務にあたっては民心を失うことがなかったという。

 右京出身で若くから大学に入学して、史書をほぼ修学した。文章生から大学少允に任ぜられ、主税助・式部少丞を経て、嵯峨朝末の弘仁13年(822年)従五位下に叙爵。
 淳和朝では左兵衛権佐,左近衛少将と武官を務め、この間の天長5年(828年)従五位上、天長10年(833年)正五位下に叙せられている。
 仁明朝に入っても同年11月正五位上、翌承和元年(834年)従四位下・兵部大輔に叙任されるなど順調に昇進する。のち、伊予守として地方官に転じる。承和7年(840年)国司の任期が満了して帰京すると統治を評価されて従四位上に昇叙されるが、後任への交替手続が完了しないまま同年10月5日卒去。享年51。
 心が広く温和な性格で物事に動じることがなく、常に百姓を安んじることに努め、人々に循吏(規則に忠実で仕事に熱心な役人)と称されたという。