水戸徳川家→越前松平宗家(福井松平家)

MT51:結城秀康  徳川家康 ― 結城秀康 ― 松平重富 MT52:松平重富

リンク
松平重富 松平治好

 寛延元年(1748年)11月6日、徳川宗尹(一橋宗尹)の3男として江戸一橋家屋敷で生まれる。第11代藩主で異母兄の重昌が宝暦8年(1758年)に死去したため、同年3月21日にその養子となって跡を継いだ。宝暦10年(1760年)に元服し、従四位上・左近衛権少将に叙任されるとともに、徳川家重から偏諱を賜って越前守重富と名乗る。
 藩政においては藩士の知行削減などを中心とした財政再建を目指したが、連年による大雪,大火,風水害,疫病などによる被害が大きく、逆に財政は悪化する。しかも重富自身が江戸の一橋家の生活に慣れていたために豪華絢爛な日常生活を送り、さらには米商人に対して御用金を課すなどの悪政を行なった。ところが、この御用金政策が逆に米価高騰を招き、さらに凶作も重なって福井には貧民があふれ、明和5年(1768年)には打ちこわしまで起こった。そして、福井藩ではこの領民の不満が爆発した打ちこわしに対応できず、やむなく一揆側の要求を認めている。
 徳川将軍家と縁戚だったため、幕府から援助金をもらって藩政の再建を目指すが、天明の大飢饉をはじめとする災害などもあって財政はさらに悪化した。1790年に菜種を専売制に、寛政11年(1799年)には糸会所を設置する。同年9月18日、長男の治好に家督を譲って隠居し、左兵衛督を名乗る。文化6年(1809年)6月18日に死去。享年62。

 明和5年(1768年)3月25日、12代藩主・松平重富の長男として江戸にて誕生した。天明3年(1783年)9月25日、元服して従四位上・侍従に叙任、父・重富の従兄弟にあたる10代将軍・徳川家治から偏諱を受けて治好、また伊予守と名乗る。寛政11年(1799年)9月18日、父の隠居で家督を継ぐ。同年12月18日、左近衛権少将に任官する。享和2年(1802年)2月29日には越前守に名乗りを改め、文化8年(1811年)12月11日には左近衛権中将に任じられる。
 文化14年(1817年)9月、嫡子の仁之助(斉承)が、治好の従兄弟で11代将軍となっていた徳川家斉の娘・浅姫との縁組を申し渡され、翌文化15年(1818年)5月に2万石を加増されて32万石の大名となった。文政6年12月15日(1824年)、正四位下となる。文政8年12月1日(1826年)、江戸で死去した。享年58。
 文化4年(1807年)に医学所である済世館を創設するなどの功績もあったが、幕命による隅田川普請や江戸藩邸の焼失、さらに治好自身が叔父の一橋治済と共に奢侈を極めるなどしたため、藩財政が著しく悪化した。文政5年(1822年)、藍玉を専売制とする。

松平斉承 松平斉善

 文化8年(1811年)2月11日、第13代藩主・松平治好の3男として福井で生まれる。文政7(1824)年3月28日に元服。従四位上侍従に叙任。第11代将軍徳川家斉より一字を拝領し、伊予守斉承と名乗る。文政8年(1825年)に父が死去したため、文政9年(1826年)1月22日に家督を継いで藩主となる。同年12月16日、左近衛権少将に任じられ、同19日には越前守と名乗りを改めた。
 文政10年(1827年)から5ヵ年の倹約令を出し、文政12年(1829年)には7ヵ年の家臣の知行半減を行なって藩財政再建を目指したが、祖父や父と同じように贅沢で奢侈を好み、福井城本丸に贅沢な御殿を建設したりするなどして藩財政を悪化させた。さらに米価高騰、天然痘の流行なども藩を苦しめる一因を成した。
 天保6年(1835年)閏7月2日、江戸で死去した。享年25。死因は痢病と言われる。実子は全て早世していたため、養子(正室・浅姫の異母弟)の斉善が跡を継いだ。
 近江彦根藩との領地交代転封を画策し、失敗したとも伝わる。この際の遺恨が、幕末期における藩主である松平春嶽と大老となった彦根藩主・井伊直弼との対立の遠因になっているともされる。

 文政3年(1820年)9月24日、11代将軍・徳川家斉の22男として江戸城にて誕生。天保6年(1835年)閏7月11日、松平斉承の養子となり、従四位上・少将上座に叙任する。8月28日に養父の跡を受けて家督を相続する。同年10月28日、正四位下・少将に叙任する。実父でもある将軍・家斉の偏諱を拝領し斉善、また越前守を名乗る。天保8年(1837年)8月25日には左近衛権中将に進む。生来病弱であったと伝わり、天保9年(1838年)4月に江戸を出立し、初入国を果たすが、その直後の7月27日に19歳で急死した。
 死去の時点で嗣子がなく、本来ならば断絶するところであったが、兄・家慶の計らいと先代藩主・斉承の正室・松栄院(浅姫・家慶異母妹)の働きかけにより、従弟の慶永(田安徳川家当主・徳川斉匡の子)が継ぐこととなった。この時、慶永は他家への養子縁組が決定していたが、9月4日に急遽福井松平家の養子とされた。
 若年のまま死去し、またほぼ江戸在府であったため、藩政にその直接の足跡は少ないが、治世の期間の天保6年12月(1836年)には財政難を理由に領地を増やして欲しい、およそ90万両の赤字があると幕府へ届け、助成を仰いでいる。天保8年(1837年)に江戸上屋敷を焼失、再建費用として幕府より2万両を貸与されている。また同年8月には不作を理由に1万両を助成され、天保9年(1838年)7月初旬には松栄院(浅姫)の住居普請のため1万5000両を拝領している。
 領内の凶作や火災被害の困窮者に対し、金銭援助や食料配給を行うなどの福祉策を行っている。変わったところでは天保8年(1837年)3月、風病流行のため藩主導で祈祷を行い、御札守を領内領民に配布している。

松平慶永(春嶽) 松平茂昭

 江戸城内の田安屋敷に生まれる。中根雪江に教育を受け、天保9年(1838年)9月4日に松平斉善の養子となり、斉善が死去すると10月20日に家督を継承。11歳で福井藩主となる。12月11日に元服し、将軍・徳川家慶の偏諱を賜り、慶永と名乗る。中根や由利公正,橋本左内らに補佐され、洋楽所の設置や軍制改革などの藩政改革を行う。
 嘉永6年(1853年)、アメリカのマシュー・ペリー率いる艦隊が来航して通商を求めた際には、水戸徳川家の徳川斉昭や薩摩藩主の島津斉彬と共に海防強化や攘夷を主張するが、老中の阿部正弘らと交流して開国派に転じる。
 13代将軍・徳川家定の継嗣問題では、一橋徳川家当主の慶喜を後押し、徳川慶福(のちの家茂)を推す彦根藩主・井伊直弼と対立する。また、直弼が朝廷の勅許なしでアメリカとの日米修好通商条約を調印すると、春嶽は徳川斉昭らとともに登城をして抗議したが、安政5年(1858年)7月5日、不時登城の罪を問われて強制的に隠居させられ、謹慎の処罰を受けた。
 井伊直弼が桜田門外の変で暗殺されると、幕府の政策方針も転換し、春嶽は文久2年(1862年)4月に幕政への参加を許される。朝廷では島津斉彬の死後、その弟の島津久光が兵を率いて京都へ上洛し、政局に積極的に関わっていた。久光は勅使の大原重徳とともに江戸へ下り、慶喜を将軍後見職とし、春嶽を大老とすること要求した。文久2年7月9日(1862年8月4日)、春嶽は新設の政事総裁職に就任し、慶喜とともに京都守護職の設置、会津藩主・松平容保の守護職就任、将軍徳川家茂の上洛など公武合体政策を推進する(文久の改革)。春嶽は熊本藩出身の横井小楠を政治顧問に迎え、藩政改革や幕政改革にあたって彼の意見を重視した。
 翌文久3年(1863年)には上洛するが、京都では長州藩など尊王攘夷派の勢力が強く、慶喜が尊王攘夷派と妥協しようとすると反対して3月2日(4月19日)に政事総裁職を辞任する。6月、先月中から横井小楠主導で進められてきた、越前を捨て全軍で京都に出兵し(日本を)制圧し、しかるのち速やかに広く才能ある人材を登用して早急かつ緩やかな改革を推し進めようとする「挙藩上京計画」が発表される。しかし、福井藩の天下掌握宣言ともいえるこの計画に、日本中、特に京洛中の諸氏諸藩は騒然となり、藩内外の反対派の活動や他藩や朝廷,幕府との連携がほころび、決行直前の8月半ばに急遽中止となった。これより越前家関連の諸方は、朝廷を蔑ろにしたとして、主に勤皇の士のテロに悩まされることになる。
 会津藩と薩摩藩が協力した8月18日の政変で長州藩が追放され、禁門の変で長州藩が朝敵となると参預に任命され、諸勢力に促される形で11月に再度上洛している。参預会議の体制は、参預諸侯間の意見の不一致からなかなか上手く機能せず、この状況を危惧した朝廷側の中川宮は、問題の不一致を斡旋しようと文久4年2月16日(1864年3月23日)、参預諸侯を自邸に招き、酒席を設けた。この席上、泥酔した徳川慶喜は中川宮に対し、島津久光,松平春嶽,伊達宗城を指さして「この3人は天下の大愚物・大奸物であり、後見職たる自分と一緒にしないでほしい」と発言した。この言葉に島津久光が完全に参預会議を見限る形となり、松平春嶽や薩摩藩家老の小松帯刀らが関係修復を模索するが、元治元年2月25日(4月1日)に山内容堂が京都を退去、3月9日(4月14日)に慶喜が参預を辞任し、結局、体制崩壊となった。
 元治元年2月15日(1864年3月22日)には軍事総裁職に転じた容保に代わり京都守護職に就任する。しかし、4月7日には職を退いている。
 慶応3年(1867年)、島津久光が送った西郷隆盛に促された前土佐藩主の山内容堂、宇和島藩主・伊達宗城が相次いで上京。当時京都に居た春嶽もまた、小松帯刀の説得を受け、この四者で四侯会議が開かれた。この合議制により、幕府の権威を縮小し、朝廷および雄藩連合による合議をもってこれに代えようと久光は画策していた。第1回の会合は5月4日(6月6日)に京都の越前藩邸で開かれ、以降2週間余の間に徹夜も含めて8度会談は開かれた。朝廷関係者、一橋慶喜らを交えた会議では、兵庫開港や長州藩の処分について話し合われた。早々に諦めた容堂と違い、春嶽は長州征伐には最後まで反対するが、慶喜の巧みな懐柔により慶喜らの意見が勝利した。この会議の失敗以降、薩摩藩は強硬な倒幕側へ傾き、土佐藩は反対に幕府擁護の姿勢に傾き、慶喜に対しギリギリのタイミングで大政奉還を建白し、春嶽もまたこれに賛同している。12月9日(1868年1月3日)の王政復古の宣言の前日、朝廷より議定に任命される。
 王政復古後の薩摩・長州の討幕運動には賛成しなかった。維新後の新政府では内国事務総督,民部官知事,民部卿,大蔵卿などを歴任。明治3年(1870年)に政務を退く。明治23年(1890年)に小石川の自邸で死去、享年63。辞世の歌は、「なき数に よしや入るとも 天翔り 御代をまもらむ すめ國のため」。墓所は東京都品川区の補陀洛山海晏寺。死の翌年の明治24年(1891年)には佐佳枝廼社(越前東照宮)に春嶽の霊が合祀された。昭和18年(1943年)には春嶽を主祭神とする別格官幣社福井神社が創建された。

 糸魚川藩主・松平直春の4男。正室は蜂須賀斉裕の娘(鷹司標子の養女)賀代姫。
 嘉永5年(1852年)4月1日、将軍・徳川家慶に御目見する。嘉永6年(1853年)2月1日元服。安政4年(1857年)5月4日、実父・直春の隠居により、糸魚川藩松平家の家督を相続する(この頃は直廉と名乗る)。同年12月16日、従五位下日向守に叙任する。
 安政5年(1858年)7月5日、福井藩松平家の家督を相続する。大老・井伊直弼による安政の大獄で松平慶永が隠居・謹慎処分となったためである。同年10月21日、従四位上左近衛中将・越前守に昇進する。また、将軍・徳川家茂から偏諱を受け、諱を直廉から茂昭に改めた。元治元年(1864年)4月13日、正四位下となる。藩主となったものの、藩内には隠居した慶永をはじめ三岡八郎,中根雪江,横井小楠などの藩政を主導する改革派の家老・藩士が多数いたため、茂昭には実権はほとんど無く、傀儡の当主の立場であった。慶応元年(1865年)の第一次長州征討では総督徳川慶勝(尾張藩主)の下、副総督となっている。
 明治2年(1869年)6月、版籍奉還にともない、福井藩知事となった。明治4年7月、廃藩置県にともなって免官された。明治17年7月、伯爵を授けられた。明治21年(1888年)1月、侯爵に陞爵する。明治23年(1890年)7月、55歳で死去した。

松平康荘 松平慶民

 福井藩主・松平茂昭の次男として生まれる。母は、中臈八重(?~1871)。1884年(明治17年)1月24日、元服し、従五位に叙任する。慶應義塾に学ぶ。1月28日、政府からドイツ留学を許可される。同年2月16日、ドイツに向けて出発する。1887年(明治20年)3月11日、イギリス留学に変更することを許可され、サイレンセスター王立農学校 (Royal Agricultural College) に学ぶ。1890年(明治23年)7月26日、父の危篤のため帰国する。同年8月1日、家督を相続する。同年10月11日、イギリスに戻り、農芸を専攻して帰国後、福井城内に農事試験場(松平農試場)を設け、果樹・園芸に専念した。1892年(明治25年)1月29日、貴族院侯爵議員に就任。大日本農会会頭、帝国農会会長。日英博覧会 (1910年)にて『The Culture of Kaki』を出品している。
 三田平凡寺と交流し、我楽多宗に参加、北越山文殊寺と号した趣味人でもあった。

 1882年、元福井藩主・松平慶永の3男として生まれる。慶永の養子として家督を継いだ松平康荘の養子に入るが、1893年に康荘の実子である康昌が誕生している。
 1896年よりイギリスへ留学し、1908年にオックスフォード大学を卒業して帰国した。帰国後は陸軍に進み、世田谷の陸軍野戦砲兵第一連隊に所属した。この間の1906年9月17日に分家し、父の明治維新における功労によって子爵に叙せられる。
 1912年に侍従に就いて以降、一貫して宮内省に奉職。侍従兼式部官,式部次長兼宗秩寮宗親課長を経て、1934年7月17日、式部長官に就任。1945年7月9日、宗秩寮総裁。1946年1月16日、宮内大臣。1947年5月3日、宮内府の移行に伴い、その初代長官となった。1948年6月3日、宮中改革を推し進めるGHQなどの意向により退任した。
 戦後、康昌らと「五人の会」を結成して昭和天皇から聞き取りを行い昭和天皇独白録』の作成にあたった。宮内省では珍しい外国通として知られ、昭和天皇のヨーロッパ訪問や秩父宮雍仁親王のイギリス留学の実現、また戦後のGHQとの交渉に手腕を発揮した。皇族や上級華族であろうと、問題が発生すれば、宮内省幹部として遠慮なく問責した。東久邇宮稔彦王の帰国拒否,臣籍降下騒動,不良華族事件など、皇室の権威を損う事件が頻発した戦前昭和期に、果たした役割は大きかった。その硬骨漢ぶりは、「昭和の殿様」「閻魔大王」と称された。

松平永芳

 海軍軍人,陸上自衛官,神官。靖国神社第6代宮司(1978~92年)時代には、昭和殉難者(東京軍事裁判におけるA種戦犯容疑者、俗にA級戦犯)の合祀を実施したことで知られる。A級戦犯14柱の合祀についての松平の考えは、「国際法的に認められない東京裁判で戦犯とされ処刑された方々を、国内法によって戦死者と同じ扱いをすると、政府が公文書で通達しているから、合祀するのに何の不都合もない。むしろ祀らなければ、靖国神社は僭越にも祭神の人物評価を行って祀ったり祀らなかったりするのか、となる」であった。 永芳は、1970年代に遺族などが要望していた国家護持法案には断固反対の立場であった。靖国神社を絶対に政治の渦中には巻き込まない方針を堅持した。宮司退任に当たっては、「権力に迎合・屈伏したら、創建以来の純粋性が失われてしまう」ことを懸念し、「権力の圧力を蹴とばして、切りまくる勇気をもたないと不可である」ということを、次の宮司への一番の申し送りとしたと云う。また、国家護持反対の理由として永芳は、宮司就任後、明治以来の同神社の財政状況調査に着手し、同神社は当時の明治政府によって創建された一方、収入のほとんどが玉串料やお賽銭など社頭収入であり、実質的に民営である事実を強調した。
 永芳の死後の2006年(平成18年)7月20日、A級戦犯14柱を合祀した永芳に、昭和天皇が強い不快感を覚えていたとする、いわゆる「富田メモ」とされる断片が報道された。侍従・卜部亮吾の記した「卜部亮吾侍従日記」には「松平永芳(宮司)は大馬鹿」と記述されていることが明らかになったとされ、また昭和天皇崩御前後の日記には、富田メモと同様の記載がされていると報道された。共同通信の松尾文夫の取材に対して「合祀は(天皇の)御意向はわかっていたが、逆らってやった」と語っている。